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(124) 持ち分

「あなたの”持ち分”は何でしょうか?」 
”持ち分” ?私は今、何もかも失くしました。”持ち分”というものは何ひとつありません」

こんな訳のわからないやり取りから始めるしかなかったのだが、私の考えに考えた末の苦肉の”配慮”だったつもりだ。

三十四歳、八ヶ月前最愛の奥様を亡くされ、失意の中出勤することが出来なくなり自室に引きこもる生活しか出来なかった。年長組に通う愛娘さんのお世話さえも全く出来ず、両親に任せるしかなかったらしい。自室から出るのは風呂とトイレ以外になかったという。

ご両親は我が息子とお孫さんへの心配から不眠症を患われ、自分たちの年齢を考えたら放っておけないということからの依頼だった。切なく重いケースだった。ご本人にしたら、どんなにか辛いだろうか、年長組の幼い娘さんは同時にパパとママを亡くしたような悲しさで潰れてしまうに違いないと思うと、私の”持ち分”は重い重いものだと感じた。

「奥様は、あなたにとって当然ですが大切な大切な存在でしたね」
「はい、妻であり私にとっては”恩人”だったんです。大学時代”孤独”でした。朝起きられなくなり学校を休みがちでした。ある日、ずっと食べてなくて・・・学食は安いからと一大決心をして食べに出掛けました」
「そこで偶然奥様が?」
「その通りなんです。ひと月あまり学校を休んでいたものですから、私のことを心配していたとのことで食事をご馳走になり、気分転換しようと誘われ吉祥寺に出掛けました。孤独でひとりの友人もいなかった私をこれ程までに気に掛けていただき、天使のように思いました。誰にだってあることだから何も気にしないで、そんなときはゆっくり休めばいいのよ、と、言われました」

私は泣いた。
一層強く、私は自身の”持ち分”の重さを感じた。

私は大学三年の夏、秀才だった友人を亡くした。
それだけのことでは済まなかった。
その夏の初め、金沢にいる彼から郵便料金超過のぶ厚い手紙を受け取っていた。便箋十枚を超えるもので、主に彼と私の高校時代の思い出が綴られてあった。というのも、彼と私は高校一・二年同じクラスだった。その二年の時、私は勉強もせず校則の「頭髪自由化」の闘いをやった。丸坊主にしなさいという校則が腹に入らなかったのだ。毎日昼休み校庭の朝礼台の上でアジ演説をし、”正当”な手続きを踏んで、生徒議会に頭髪自由化の議案を提出したのだった。

彼は学年一番の成績でありながら、どういう訳か東大楽勝だったにもかかわらず、金沢大を選んだ。いつもひとりで過ごす秀才だったから、自由化の輪の中にはいなかった。しかし、私がアジ演説から教室に戻ると、彼は決まって
「お疲れ、凄いな・・・僕も君のように生きたかった。真っすぐだね」
と、彼からすると精一杯だと思われる声掛けがあった。

その年の秋、努力の甲斐があり頭髪の「自由化」は実現した。しかし私はと言うと、卒業まで「坊主頭」でいた。校則で坊主頭にさせられるのではなく、自分の意志で坊主頭を選んだのだ。彼は、頭髪には興味がないと、坊主頭のままだった。

手紙に綴られてあったのは、私の「愚行」の数々が懐かしく、”貴い”ものとして心に刻まれているというものだった。私はその手紙の持つ”重さ”に、未熟のせいで気づくことが出来なかった。

彼はその夏”自死”してしまった。

あの手紙は決して”遺書”などではないと思いながらも、また、彼の胸の内が見えていなかったのかと、そんな自分を責めた。私は重い責任を感じ、何十回と読み返したものだ。徐々に心は重く、何をするにも力が入らず、部活のラグビーも休み授業にも出られない日が続いた。

卒論の指導教授の研究室の隣が、哲学科の研究室だった。哲学研究室によく出入りしていたこともあり、助教授には懇意にしていただいていた。辛くて身動きが取れなかったから、助教授に彼の手紙は”遺書”だったのか?と尋ねた。

「長げぇなぁ。う~ん、こりゃあおめぇさんの”持ち分”じゃねぇよ。その上に”遺書”じゃねぇな。例えば、おめぇさんに”持ち分”があるとしたら、おめぇさんらしく今までのまま生きることだ。それが”持ち分”ってもんよ」
乱暴な言い草だったが、この言葉に私は大いに救われた。
浅草生まれの「江戸っ子」助教授にはかなわない。雪駄でパタパタ歩きながらの”説教”は私の胸に刺さった。以来、私は”持ち分”という言葉の「曖昧」でありながら、そのひと言が「心に刺さる」重さを持っていることを学んだ。そして、心に沁みた。

「あなたの恩人であった最愛の奥様が亡くなられた辛さは、私などにわかるはずはありません。どんなにか辛い思いをされたでしょう。そのあなたの辛さと同じ様に、愛娘さんも誰よりも愛しいママを亡くされました。それだけではありません。どんなにかパパに甘えたい気持ちを抑えて、じっと震えているはずです。ご負担ですよね、この話は。しかし、”持ち分”って言えばいいのでしょうか・・・あなたと愛娘さんは”持ち分”という点では同じなんですよ・・・。私もこれ以上言えませんし、もう言葉がありません」

クライアントの前で私は大泣きしてしまった。

「先生、少し”時間”をください」

次の週、彼の様子は”激変”していた。
「私は、娘のために父であること。年老いた両親の前で育った息子であること。これが私の”持ち分”ですよね、先生。私を傷つけまいと、先生にはお気を遣わせました。先生の口癖の、頑張り過ぎず、今やれることから少しずつでしたね。カウンセリングに通ってちょうど半年になります。毎週楽しみだったんです。雪駄を履いた助教授の話、先生の高校時代の話、高下駄で登校された話・・・頭髪自由化の闘いなど教訓になりました。”自由”で思うがままでいいんですね。生き直してみます。娘はママを亡くし、パパである私に甘えられず二つを背負っていた・・・(涙)」

責任だとか役割、義務、任務などと自らに課してしまったとしたら、誰しも重過ぎて身動きが取れなくなってしまう。幸いにして私は、雪駄の助教授のおかげで”持ち分”という曖昧でいて深く重い言葉を知らされた。

人生で二度、私は”持ち分”に救われた。
以来、私はこの言葉を使っていない。
そっと引き出しにお蔵入りとしたままである。