(86) 顔で笑って・・・
「顔で笑って・・・心で泣いて、これが渡世人の辛ぇところよぉ」
「男はつらいよ」の寅さんの名台詞だ。
考えてもみれば、私はいつも平気な顔をして笑みを浮かべていることが多く、時に大声でよく笑う。しかし「心の内」は泣いていることが多いのではないかと思う。職業柄か、「深刻な顔」をすることを心のどこかで避けているのかも知れない。
確かに心はいつも泣いている。
何でも直球で勝負し、「心の内」を隠さず表出することにしている私であるのだが、「悲壮な様子」と「悲しみ」、「深刻さ」だけは出さないようにとの自覚がある。時に、これで本当にいいのだろうか、無理してないかと思うことがあるが、どうしていいのかわからず、そうしてしまう。ふり返れば、母がそうだった。私は母が大好きだった。誰にも負けない自信がある程、母を観察した。自然のうちに母を真似たのだと思う。
母は決してネガティブな言葉を口にすることはなかった。いつも、誰に対しても笑顔だった。そして気風が良く、”男前”な母だった。また、美容師をしながら、お客さんの様々な愚痴や悩みを聞き続けていた。そんな母の”辛さ”が手に取るようにわかった。寝る時、ひと言、
「極楽、極楽」
と、決まってそう言っていたことが強い印象として幼い私の胸に刺さった。
「これでゆっくりと眠れる。人の愚痴や悩みを聞かなくて済む!」という意味だろうと、当時幼いながらにそう思った。
クライアントを迎える前、私は大きな伸びをする。意識したものではない。
口を開けたり、瞬きをして、口を動かした後、ひと口コーヒーを飲むことにしている。無意識のうちに、明るい「柔和な表情」を作っているのだと思う。クライアントの緊張を少しでも和らげ、話しやすい雰囲気を作り出したいという願いからだ。”痛み”を伴う辛い話にも、私の表情は大きく曇らない。まるで低反発のクッション材のように吸収して反応しているはずだ。
私は、「これがプロの心理臨床家ですよ」などと自慢する気持ちなどさらさらない。ただただ、そんなことを無意識でやってしまう自分に気味が悪く、不思議であると同時に「怖さ」さえ感じる。クライアントの方の生きて来た歴史の中で、背負ってしまった重い荷物に、痛み続けたその傷に、私は人以上に傷つき、悲しみにくじけそうでもある。しかし、表情に出さない。出せないのではないし、出さないと決めているわけでもない・・・から不思議で怖い。べらんめえで気風の良い男前の母を真似たからなのだろうか。「顔で笑って・・・心で泣いて」そんな母から学んだのだろうと思っている。かと言って、私は母のように寝る前に「極楽、極楽」とは言わないし、自身をいたわる言葉を掛けるわけでもないから不思議で気味が悪い。
以前も書いたのだが、得体の知れない”不安”に突如襲われることがたびたびある。それが「心の内は泣いている」ということからの自身への信号であり、訴えであるのだろう。やはり、どこかで無理をしているらしい。自覚は全くないのだが、無理は信号が来ない限り気づかないのが相場だが、これがその信号なのだろう。
寅さんが好きだ。「男はつらいよ」は全編何度も観た。時々差別的な言葉を平気で言う。人格的にも首をかしげる場面も多々ある。妹のさくらやおいちゃん達に迷惑をかけっぱなしだ。しかし、関わる誰しもが寅さんを許し、大好きなのだ。寅さんの「情の深さ」が人の心を打つのだろう。「情の深さ」か・・・これがなかなか難しいものだ。何にしても過ぎることは決して良くはない。「情」が深く作用してしまうことによる”痛み”は確かにある。アドラー博士の言う「課題の分離」が難しくなり、つい人の課題を自分のもののように「引き寄せ」「買い取り」背負ってしまう。そればかりか、クライアントの”痛み”を自らの”痛み”のように感じ取ってしまう。これは大いに考えものだ。寝る時に母のように、一切から解放される「極楽、極楽」と言ってみるか?
「顔で笑って・・・心で泣いて」
こんな下手くそな生き方だが、私の”生命”を今までも今も紡いでくれているのは確かだ。当分・・・これで行けばいいか。今までもそうだった。母のように生きていることが、私の”力”を生み出してくれているのは確かなのだから。
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