(122) 競争
「誰と競争してるの?」
「課の全員ですかね。いや、課だけではないかも知れません」
「それって気の休まる暇なんかないよね」
「Sとは同期入社で、私は一浪してましたから、私がひとつ年上です。そのSが十月に昇進して係長になりました。それ以来、朝は目覚めが悪く、夜もろくに眠れていません。一日気分が重く、力が抜けたようで何に対しても熱が入りません」
「競争に敗れたと思うのですか?」
「野球でもサッカーでも、今日敗れたからといって、次の試合がある訳ですから大丈夫なんでしょうけど、僕の場合もう決して取り返しがつかない敗北だと思ってしまいます」
不眠との主訴でカウンセリングが始まった三十四歳。どんなケースにしても、寛解を迎えるまでに主訴だけを問題として取り上げるだけでは済まない
ことが多い。不眠を招いた直接の要因はストレスであったり、病気、生活習慣の乱れ、薬の影響、アルコール、精神・神経疾患であったりするのであるが、努力して要因を取り除いたとしても意味を為さないことがよくある。
確かにその要因らしきものを特定することは難しいことではない。それらが要因であるのだが、もうひとつその後にくる「思考」が挟まり、悪さをするから複雑で厄介なのだ。その「思考」に、カウンセリングで近づくのにクライアントの抵抗があり、無意識に人は考えを進めてしまうのであるし、その「思考」は長期に渡って培ったスタイルとして定着し、まるで”癖”であるかのようになっていて、なかなか問題として取り上げ意識化することは容易ではない。
「昔の辛いこと思い出させてしまうけど、ごめんね。一年余分に受験勉強大変だったね。受験勉強って辛いものだけど、誰もが余計に辛いものにしてしまっているよね。それって何故だと思う?」
「う~ん・・・たぶん有名大学に入学して将来は大企業に入って幸せになりたい・・・そうでないと”不幸”だと決めつけた妄想をしてしまうからでしょうか?」
「まぁ、正解です。でも僕が出題し採点者だったら五十点しかあげませんよ。受験勉強って、君の言ったような意味から辛いってことだけど、その”思い込み”の上にもうひとつ”思い込み”があるんですよ。勉強っていうのは他者との競争だと決めつけているから・・・”学ぶ”・・・知らなかったことを学ぶのだから、本来なら”喜び”を感じても良さそうなものだけど、それを消してしまうように思うから”浮力”を失くしてしまうんですよ。それに気づいていないから半分の五十点しかあげられません」
こんなやり取りなしには、気づきもなく「思考」に変化は生じないものである。私はボソボソと語り、気づきに近づけていくのに苦労する。
彼は勝手に作り上げた”自己イメージ”を同期のさんのSさんの昇進で失ったのだ。そして、絶望した。”人との競争”にこだわりが強いからでもある。成功して出世するという”自己イメージ”の喪失による”気分障がい(うつ)”であると思われる。
人は当然ひとりひとり異いがある。他人にあっても自分にないものはあるし、その逆もある。異質なものだし、それを認めなくてはならない。異質なのだから決して一線上には並べられないのだ。だから競争は本来出来ないものだし、意味がない。競争するのなら、自分自身とではないのか?”自分が理想とする自分”と”現実の自分”との比較の中で初めて競争というのが生まれるのであり、それがアドラー博士の言うところの「優越性の追求」ということなのだ。言い換えるなら、自分にとってのマイナスからプラスを目指して努力するということになるのだと思う。
例えば病気回復のためのリハビリをすることを考えてみて欲しい。回復したいと思い節制したり、リハビリに励んだりする時、これは自分にとってのマイナス(病の状態)からプラス(少しでも健康な状態)を目指すこと、これがマイナスからプラスへの健康な「優越性の追求」ではないだろうか。
だから、誰か他者と競争しようなどと考えないで、自分がただ前を向いて確実な一歩を出そうとしていれば、それが良いと言える。すべての基準は”自分”。誰かに追い抜かれたとしても、今自分が居る場所から少しでも前に進むことが理想である。
私たちは、自分が今居る場所を人と比べて”優越感”を感じていたいと願ってしまう臆病者でしかない。その居場所が人と比較して低いと思えば”劣等感”を感じるという危ない考え方をしてしまいがちである。
私は”安気”に生きることがまず健康の第一条件だと考えている。人と比較を始めたらすぐさま人は”安気”ではなくなるのだ。”安気”に生きて人は初めてあらゆるところに目がいき、自分に必要なものが何であるのかが見えてくる。そう生きることが次の”安気”を生むことになるのだと思う。
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