見出し画像

(151) 認知の歪み〜part2

日々、何かと大変だ。
仕事や勉強に追われながらも、決してことはスムースに運ばないまま、判断を迫られたり、決断しなければならないことがある。気分にしても毎日良い訳ではないし、事が起きるたびに不安になったり動揺したりすることになる。「もうちょっと楽でいたい」などと、つい口から出てしまうことになる。確かに「生きる」ってことは大変だ。「だから人生っていうのは面白ぇんだよ。これがよ、何も起きなくてのったりべったりだったらよ、つまんねぇしよ、退屈でしんじまいそうだっちゅうの」なんて考えることが出来たらいいなぁと思う。それはきっとクリーンヒットであるにしても、なかなかそうは片づけられないところが悩みの種である。

「もうダメだ。こんなにミスばかりして、ろくに人と会話することもなく人の輪の中に入れなくては、今後ろくなことにはならない。孤立して仕事も出来なくなるはずだ。私は変われない。憂うつはずっと続くに決まってる」
このように先を予測してしまいがちである。こう考えたら全く望みがなくなってしまう。これはきつい。いつか辛さに圧倒されてしまうことになる。これは”先読みの誤り”と呼ばれる”認知の歪み”である。今の自分をみてあなたがそう”意味づけ”をしたのである。そのように思考したとしたらその後充てられる感情は憂うつになるか、自己否定が待っていることになる。言うならば、このような考え方は、自分自身に押し付けたデタラメなのだ。

陥りやすいトリックの罠にはまることがある。対象物を大げさに拡大して見てしまったり、無視するかのように縮小してしまうなどないだろうか。
「あってはならないミスをした。これでまた職場で孤立してしまう。もう私の評価はガタ落ちだ」
これが、極端に大げさに拡大してみる例であるが、”拡大解釈”という”認知の歪み”と呼ばれている。よくある日常的な失敗でしかないにもかかわらず、それをまるで悪夢のような意味づけをしてしまう。”破滅化”ともよばれ、大げさに解釈し過ぎるのは危険である。また、それとは逆に自分の長所を見る時など、先の考え方を採用したらいいにもかかわらず、取るに足らないと決めつけて過小に評価してしまう。これも惨めである。これを”過小評価”という。二つのどちらをみても、自己を正しく評価しないというものだ。潜在意識の中にある自己否定感が顔を出して、「それみたものか!」と、自身をやり込めにきているものなのだ。

自分の今の感情を疑うことなく真実だと決めつけて、それを証拠に考えてしまうことがよくある。それほどあなたの思考とそれに充てる感情は正しいだろうか。
「私は私をダメ人間ではないかと感じいる。それが私はダメ人間だという証拠だ」
ついつられてしまいそうであるが、この思考法は間違っている。感情というのは、思考の反映の結果であって、その思考に間違いがないのならいいのだが、歪んで思考していたとしたら妥当どころの話ではないことになる。
「何もやる気がしない。だからベッドに横たわっているしかない」
「私はどこかしらズレているように感じる。だから全然価値のない人間に決まっている」
「もう何の希望もないように感じている。だから私の抱えた問題は解決できない」
こんなように短絡的に決めつけることはないだろうか。苦しくなるだけだと思う。これが”感情的決めつけ”という”認知の歪み”ということだ。辛いことになる。自分の人生が拓ける気にならない。

これを「すべきだ」、あれを「しなければならない」と、私たちはひとり言をいってはいないだろうか。考えてもみれば、これは必要以上のプレッシャーを自身に与えることになる。そして自分を追い詰めてしまい、挙句の果てにやる気をなくさせるのではないだろうか。結局できないまま終わる。これが”すべき思考”という”認知の歪み”である。要は、能率よく目標達成したらいいのだけど、「すべき」と力んで意気込むことでプレッシャーを与えてややこしくするというものだ。また、無用の”感情的混乱”をもたらすことになる。これが不合理だ。自身の行動が、その「すべき」に合わないと、自己嫌悪や罪の意識を感じ混乱してしまう。

”レッテル貼り”というのがよくある。きっと決めつけることで安心したいのだろうと思うのだが、これは立派な”認知の歪み”だ。間違った認知に基づいて完全にネガティブな自己イメージを創作してしまうというものだ。この”レッテル貼り”は「全く私ってやつは・・・」で始まるのが特徴だ。失敗した時「私ってやつはダメ人間だ」とやる。これは自己破滅的であり、不合理な考え方だ。

潜在的に自己否定感が強くあり、罪の意識のもとになる考え方から起こす”認知の歪み”がある。”個人化”と呼ばれている。良くない出来事があり、それを理由もなく自分のせいにして考えてしまうことだ。
「子どもの成績が振るわなかったのは母である私のせいだ。ダメな母親だ」
「あなたの機嫌が悪いのは、きっと私のせいだ」
など、つい陥りやすい。これらが引き起こす「罪の意識」は両肩にずしりと重くのしかかり苦しむことになる。

これらが”認知の歪み”とよばれるものだ。”認知の歪み”などと軽く言わない方がいいのかも知れない。これははっきりと「認知障がい」と位置づけられるものだと思う。要は、確かな根拠なく確かめることをしないで見たものを意味づけしてしまうことが一番まずいことであり、意味づけた後に充てる感情をネガティブなものにしてしまうことに尽きるこの不合理さを忘れないで
欲しい。苦を背負う必要がないのに、背負ってしまうことになるからだ。人生は一度きり。楽しんでなんぼのものだから・・・。