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(136) 一度っきりを生きる

「演じるのは一度っきり」だと、高倉健さんは言う。また、「何回もやれというのは出来ない。自分の中で感じられないものは出来ないよね」とも言う。うぅ~んと考えさせられる。なるほどと思い、「流石」だと泣ける。

テクニックを排し、現場に”心”を晒し、その役に全神経を集中し、心の底から込み上げるもの・感じるものをさりげなく表現するのだから、何度も演じることは出来ないのだろう。その通りだ。”人生”も同じなのだと思う。

今は亡き高倉健さんのことが大好きである。そうと言うのは、大学生の頃、深夜映画を場末の劇場で観たことからだ。確か三本立てだった様な気がする。三本とも健さんだった。朝方、満員だった観客たちが劇場から掃き出されながら胸を張り、肩をいからせたそんな姿を眺めていた。「人を変えるんだ・・・たかが任侠映画に過ぎないのだが」と衝撃を受けた。私はその度ごとに別のことを考えていた。健さんはこの映画の役には”共鳴”出来ていないんだろうな、「命、もらいます」では、納得出来ている筈はないと強く思っていた。きっと、「逃げ出したい、俺はこのままでいいのだろうか?」と、思っているに違いないとまで思っていた。

そんな頃、私はというと極度の「神経症」に苦しんでいた。不安で潰れそうになるのを、絶えず”闘う”ことで紛らす毎日を過ごしていた。ラグビーで、拳法の修行で、その上「日米安全保障条約」反対運動で、「大学改革法案」反対で”闘う”ことが私の日々のテーマだった。今から思えば、「自身の救済」であったのだろう。そうでなければ”生き”られないと思っていた。「”ここの今”のこの一瞬一度だけ。”一期一会”に生きる」を、強く意識していた。山頭火の影響だった。【(73)一期一会 参照】そうだったから、「心の底から湧き上がるもの」をさらけ出し、そのままに”生きる”ことが、私の求めるものであったし命懸けだった。

そんな全力投球の日々に疲れ果て、週末には場末の映画館で何もかも白紙に戻すというのが、唯一の息抜きだった。目当てにするものが見えないまま”自己矛盾”を抱え、渡世人を演じる健さんと自分が”リンク”した。決して「命、もらいます」なんて台詞などでは解決できない・・・私にしても”闘う”ことでは何とも先が見えてはこないやるせなさを、その息抜きの最中感じ続けていたのか・・・頭の中を白紙に戻すことも出来なかった。

1976年任侠映画のスターだった45歳となった健さんは東映を辞めることを決意した。当時、映画会社を辞めるということは仕事を干されるということであったにも関わらずだった。迷いながら探していたのだろう、我が”道”を・・・。

独立第一作目は「君よ憤怒の河を渉れ」で新境地を拓いた。見事だった。翌年、「幸せの黄色いハンカチ」においては、アカデミー賞最優秀主演男優賞に輝き、「駅 STATION」「八甲田山」「夜叉」「あうん」「鉄道員 ぽっぽや」「あなたへ」の作品を生んだ。見事に”どう生きるか”を健さんは見出したに違いない。健さん演じる主人公たちは、凄い生き様を見せてくれた。

「自分の生き方が映画に出るんですよ」「役を演じ、その役から生き方を教わる」と、健さんは事あるごとに語った。「自分の持ち分を全うする男」を演じたかったのだ。それは決して「命、もらいます」であるはずはない。

私はそんな頃、高等学校の教壇に立っていた。このnoteの「(2)承認欲求」に書いた先生役を命懸けで守ろうと演じていた。今もそんな人生を生きようと、気を抜く暇がない。どう生きようが”人生””人生”だけど、無自覚に与えられるままに生きるのでは、何か物足りない気がして、やり残したものがあったのでは・・・と思っている。健さんが、演じた役から男の生き方を学びながら、自分は”どう生きる”かを探したように、私も出会う様々な人たちから”どう生きる”かを教わりたいと強く思っている。

強く影響を受けた倫理社会の先生、先生を真似て柔道の段位を取り、先生の卒業した大学を選び、先生と同じ教師となった。山頭火に学び”一期一会”に生きようと決めた。禅宗・曹洞宗の僧侶である先輩から、道元禅師の哲学を教わった。養護施設でサバイバーの子どもたちのお世話をされる先生方から、その貴い心意気を習った。何より先に、障がい者施設のボランティアを優先される陶芸家の先生から、他者に”貢献”するという重い重いものを教わった。私には重過ぎて、学びの数々を背負うことも出来ないままでいる。しかし、強く残る印象のほんの一部でもと思い、取り残されながらも小さな歩みを心掛けている。

その場に”心”を晒し、心の底から込み上げるものを感じるもののままに”生き”ようと、再度高倉健さんを偲び”決意”をした。



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