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(129) 人生に彩りを

「トマトは嫌いだからなぁ・・・」
いやいや、構わない。トマトが嫌なのなら、ちょっと高いが赤いパプリカを飾ったらいいのだ。それで緑・黄・白・赤とバランスのとれたサラダが出来上がる。新タマネギなんて血液をサラサラにする。楽しくてバランスのとれた旨いサラダの出来上がりだ。これがサラダの”彩り”だ。

その割に、人生と言うのは下手すると”彩り”が大いに欠けたものになり、サクサクとした見た目も”上手く”なくなるものだ。それ程までに”余裕”がないのだ。仕事で疲れ果て、帰る電車か車の中で自己嫌悪し、夕食などそこそこでシャワーを浴びて、もう倒れるかのように寝るだけが日々の相場だ。

海外からの旅行者の誰もが言う。
日本には四季があり、それぞれの季節がとても美しい。季節ごとに”彩り”があり風情があって大好きだ、と。
「はいはい、ありがとう。でも住んでみたら線状降水帯は発生するし、夏はむしむし湿気だらけだし、晩秋から冬にかけては気分が重く抑うつ的で、冬の間は気分が晴れない。やっと桜が咲いて春の気配になれば、新年度が始まり不安しきりで・・・。どこがいいの?」
と、言いたくなるのが関の山だ。”余裕”がないのだ。

円安に便乗して日本へ行こうと、海外の富裕層は”余裕”を良いことに、生活に”彩り”をと日本を訪れるのだろう。観光地では、「並ぶ」なんてことをしない、ポイ捨てのマナーの悪い外国人だらけだ。ちょっと参る。

アレキシサイミア(失感情症)であり神経症で「生きづらい」との主訴でカウンセリングを続けて来た青年がいる。アレキシサイミアは寛解した報告例をあまり聞くことがない。重篤ではないのだが寛解し難い障がいである。自身の感情を認知することの障がいであり、心因の影響が大きいとされている疾患である。その青年がアレキシサイミアを寛解させたのだ。ひとえに彼の努力の結果である。視線恐怖をはじめにして多様な神経症状もあるのだが、それとは「一生付き合っていく」と腹を決めてから快方に向かっている。
それが「答え」だからだ。嫌がらず抱えていく決意。これが自身であることの全てを受け入れるということであり、快方への扉なのだ。

そんな彼が今、取り組み始めたことがある。
”彩り”だ。人生には”彩り”が必要だと、”余裕”が語らせるのだ。”余裕”のない時は、それどころではなかった。強迫的に「何かしなければ」が支配していた。無理をして友人を作り、アレキシサイミアだから自身の感情に気づけず、「ねばならない思考」で人と過ごす苦労を散々味わった。休日は家でじっとしていることをせず、朝からその思考に支配され、何かしなければとドライブに出るのだった。一日300kmを優に超えた。「楽しんでいる」という実感もなかっただろうし、通り過ぎる景色も人々の様子も感じなかったに違いない。二年、三年とそれが続いた。強迫観念の支配だった。

二年程前から、カウンセリングの”質”が大きく変化した。
人との関係の難しさ、職場における苦労話、自分の不具合・劣等感からくる辛い話、機能不全家庭で育った話は一切姿を消し、楽しいなどの感情を伴う話が増えた。

私の肩の荷は軽くなり、カウンセリングが楽しみになった。彼も楽しそうに話した。乗り越えた。アレキシサイミア寛解である。

彼が今年に入り晩酌を始めたと言う。
万歳だ。日本酒を冷やで、と言う。酒に憧れながらも下戸である私に酒の話をする。私は呑むことに憧れているものだから、身を乗り出して聞く。これが理想的なカウンセリングの形だ。嬉しい。

これこそが彼の人生の”彩り”なのだ。
強迫観念に支配された「ねばならない思考」から友人を作り、休むことなく車で走り続けたことを卒業し、”余裕”がまさにその”彩り”を取り入れたのだ。もう大丈夫だ。

人生には”彩り”が必要である。
”彩り”を取り入れるために”余裕”が必要であるのだ。この二つを意識して欲しいと思う。しかし、四・五十その”彩り”に出来たらと試しても二・三しか実らない確率だろうと思う。きっと一割を超えないに違いない。人によって、何が”彩り”と出来るか違いはある。自分と相談することだと思う。

孫のチビ坊が「うまい!さいこう!」と言う。チビ坊は食べ物でその”彩り”を味わっている。幸せだろうし、絶好調なのだ。私の口癖は「人生は楽しんでなんぼだ」その”彩り”で楽しめたら「最高」だ。



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