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(78) 圭子 ー アダージョ

年の瀬の妙に慌ただしいこの雰囲気が、圭子は嫌いではなかった。例年だと今頃、スキー板のオーバーホール・ベースワックスがけに余念のない圭子であるが、今年は未だに動く気配がなかった。圭子は、高校・大学とスキー部に籍を置く、スラローム競技の選手であった。小柄ではあるが、足腰の強さには定評があり、スピードのある方であった。そんなこともあって、卒業時に数社から誘いがあったのだが、競技スキーは学生時代までと決めていたらしく、自ら就職活動をして今の会社に入社したのであった。

給料を取るようになって、圭子はJR大塚駅近くのマンションに移った。学生時代は寮生活だったためか、最低二間とベランダのあるマンションが夢だったらしかったが、都心ではそうもいかず、十二畳ほどのワンルームに、少し広めのベランダがついている程度が圭子の給料では限界であった。

いつもならランニングに出掛けている圭子なのに、その日はベランダのベンチに毛布を持ち出して横になっていた。
「さてと、昼をどうするか・・・。久しぶりに三平にでも行ってとんかつでも食べるとするか」
圭子はそうつぶやき、今掛けていた毛布をベランダに干すと、出掛ける支度をした。エレベーターを降りた圭子は、ホールに差し込んでいる光の束が、冬のものと思えないのに少し驚き、エレベーターの横の大きなガラス窓から空を見上げてみた。ほとんど葉を落とした木々の枝の隙間から、精一杯と思われる陽の光を投げかけていた。
「なるほど、こういうことか。葉が落ちたんだ。だからなのか」
圭子は納得した様子の満足顔をして、マンションを出た。

「いよぉ~、久しぶりだな圭子ちゃん。どうしたんでぇ、昼に来るなんておかしいじゃねえか」
「別に、私が昼に来るとおかしい?」
いきなりの大将とのやり取りに、店の客が一斉に入って来たばかりの圭子に目をやった。
「大きな声出さないでよ、恥ずかしいじゃないの!私だって昼にとんかつ食べたっていいでしょ」
「そういう事じゃねぇよ。俺は嬉しいんだよ。ちょいと顔見なかったし、十二月だろ?またトレーニングの最中だと思ってるからよ、昼間来たんでびっくりしたんだよ。いつものでいいかい?」
圭子は、気風のいい江戸っ子の三太の乱暴な口のきき方が気に入っていた。
「いつものでいいわよ」
「何膨れてんだよ。そろそろシーズンだろ?気持ちがいいねぇ、冬の女ってとこか。いよっ!圭子」
店は客で一杯だと言うのに、相変わらずからかう三太に、圭子は悪い気はしなかった。

「へい、おろしとんかつ一丁。今日の大根おろしよ、水気が多くてさ参ったよ。あんまり旨くねぇからよ」
カウンターの圭子を覗き込むように、三太は皿を運んだ。
「どのみちよ、ポン酢掛けちゃうんだからいいってことよ。熱いうちに食うと旨めぇから」
「三太さん、とんかつって変よね」
「何だ何だ、とんかつのどこが変だよ」
「ソースでも醤油でも合うのよね」
「そうだよ。何もよ、とんかつにソースなんて決めることねぇのよ。塩だけで食うってのもあるんだしよ、味噌ってのもあるしな。ただよ、ケチャップってのはやめてもらいてぇんだよな」

歩いてみようかと、ふと圭子はそう思った。商店街のアーケードを出ると、強い北西の風が圭子の体を自然と運んだ。圭子は風に押されるままに身を任せてみた。
「この風だと、山は雪だわ・・・」
もう三年も大塚に住んでいる圭子だったが、街のほとんどを知らなかった。それもそのはずで、早朝出勤して夜の八時か九時に帰宅する毎日だから無理もなかった。
「こんな所に、こんな大きな公園があったんだわ。マンションから近いのに・・・気づかなかった」
圭子はそう独り言を言うと、公園のベンチに腰を下ろした。寒いからだろう、ハトが首をすくめて丸くなっていた。木々はすっかり葉を落とし、やせた枝が少し強めの風邪をヒュッと音を立てていた。
「どちらが本当の私なのかしらね」
圭子は冬枯れた木を見つめて、ふとそうつぶやいた。誰が教えるわけでもない、指示するわけでもないのだが、公園の木々たちが葉を紅葉させ、やがて
一切の葉を落とし冬を迎える。また、春に芽を吹き、若葉を茂らせ花を咲かせる。夏には緑を一段と深くさせ、秋には実をつける。この繰り返しの中で木々たちは自らを成長させていく。競技を始めてからの圭子は、休む暇もなく次はこれ、次はあれとの繰り返しだった。暇になるのが怖かったのかも知れなかった。だから、自らを追い込んで常に課題を前にぶら下げていたようなところがあった。一旦卒業と同時に、競技スキーからは足を洗ったはずであったが、その年の冬、やっぱり圭子はゲレンデに居た。競技からは離れたのだったが、みんなのそれとは違って、早朝からリフトが止まるまで滑り続けた。楽しいはずのスキーなのだが、強迫観念にでも突き動かされているかのハードなスキーだった。
「かけがえのないものだわ、確かに私にとってのスキーは。でも、今までのままじゃ何かが違うわ・・・。息が切れるほど、突き進んできたんだわ。いつも息が切れていないといけないと強く思ってた。こうして、この冬枯れた木を見ていると、これも確かに必要な姿なのよ。何も葉を一杯つけている時だけが、この木じゃないわ。そうよ、そうなんだ」

圭子は、別段何かを買う目的もなかったのだが、この辺りを散歩してみようと思った。
「こんな気持ちになったの久しぶりだわ。いや、初めてなのかも知れない」
ジャンパーの襟を立てると、
「よーし!」
と声を上げて、圭子は両手をジーンズのポケットに突っ込んで、ゆっくりと目的もなく歩き出した。若さに任せて、倍速で生活してきた圭子だった。何かが変わる予感を抱いているのだろう、圭子の後ろ姿に、子供の頃のゆったりとした瞬間が感じられるのだった。


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