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(90) 藍子 ー 微笑み

重いだろうと思われるガラスの扉が、スーッと自動的に開いた。
「こんなに大きくて重そうなガラスの扉が、何故必要なんだろう」
藍子は、いつもそう思っていた。一歩外へ出ると、空調の効いた社内の空気とは違って、どこかしら優しい肌触りを感じた。昼食で外出した時とも違って、陽が落ちた後のそれは、肌にまとわりつくこともなくさらりとした感触がした。藍子は、それを楽しむようにゆっくりとした歩調で、明大通りの緩やかな坂を下った。退社時ともあって、駅へ向かう人の波が足早で藍子に向かって来ていた。藍子はそれを避けながら舗道の端を歩いた。
「いつもは、この人の波の一員なんだ」
藍子は、ふとそう思った。小川町の交差点へ出ると、一段と車の騒音が気にかかった。風がある為だろうか、いつもほどに排気ガスの臭いがあまりないのに藍子はほっとした。

ギィーと音のする木製の扉を押して、藍子はギャラリーを訪れた。藍子には、以前からそういった趣味があったわけではなかった。昨年の秋、古本屋街をぶらぶら見て歩いていた時、偶然にこのギャラリーの木製の看板が目についた。「ギャラリー藍」と彫られたその看板に、なぜか親しみを感じた藍子は、考える間もなくその扉を押したのだった。以来、藍子は週末の残業のない日には、このギャラリーを訪れるようにしていた。自分の名前の一字が使われていることに対する親近感もあるのだったが、看板や扉のもつ一種独特の雰囲気に藍子は、強く惹かれるものを感じていた。展示される作品は、絵画・写真・書というようなものだけではなく、焼き物・彫刻・ガラス工芸・織物・染物等まで幅が広かったし、時には大きなオブジェだったりもした。そして、何よりも藍子の興味は、いつも静かに微笑みを浮かべて来客を待ってくれている、初老の婦人であった。豊かで長めの白髪を編み込んで、藍染めの作務衣を上品に着こなしたその様子には、今までに出会った人たちには決して感じることがなかった、静寂の中でしか感じられないやすらぎと癒しを、藍子は感じるのだった。何に対しても真摯であろうと思われるそのまなざしは、決して鋭いものではなく柔軟で豊かな表情さえ感じさせた。静かで優美な身のこなしは、決して嫌味がなく、自らを受け入れている者だけの優雅ささえも感じさせるのだった。藍子は、作品を鑑賞するというより、この婦人に会いに行くという意味が強かった。

いつもよりライトの光量を落としたと思われたギャラリーは、なるほどと藍子に納得させる展示品が並べられていた。ガラス工芸の作品たちは、まるで自らが光を放っているかのようだった。藍子は、作品に近づくことを躊躇った。壊れやすいガラス工芸だからというわけではなく、放たれる光をまるごと受け止めようと思うと、近づいてはいけないのではないかという気がした。ボリュームのあるその作品は、見る角度によって虹を封じ込めたように七色に輝いた。ひとつ、ふたつ、虹はいくつも作品の中にある。藍子は溜め息が出るほどの美しさを感じて、身動きが取れなくなった。釘付けされたその視野は一層狭くなり、ぼやけた虹だけが膨張して見えた。肩をポンポンとされた藍子は、我に返った。婦人に手招きされて、受付のアンティークな椅子に腰を下ろした。藍子は、婦人がお茶の用意をしている後ろ姿を、じっと見つめた。美しいと思った。婦人は、微笑を浮かべてハーブティーを勧めてくれた。
「私は話すことが出来ません」
婦人は手話で、藍子にそう伝えた。手話の学んだことのない藍子にも、不思議と理解することが出来た。藍子は一気に緊張した。どうしたらいいのかわからなかった。咄嗟にバッグから手帳を出すと、藍子はその一枚を破ろうとした。婦人は優しくそれを制止して、微笑を浮かべながら、
「どうぞ、あなたは自由に、そして自然にお話になればいいのですよ」
と、手話でそう語った。藍子にも容易にそれが理解できた。藍子は不思議に思った。手話について学んだこともない自分に、婦人の手話がなぜ理解出来るのかが・・・。

「ジャスミンですね。私、大好きなんです。いただきます」
藍子は、ひと言ひと言を噛みしめるように話した。婦人は微笑み、ゆっくりと大きくうなずくのだった。それに導かれるかのように、肩の力が抜け、首から頬の緊張が解けていくのを藍子は感じた。同時に、自らの目が優しくなっていく気もした。不思議だった。
「私、今、不思議な気がするんです。何かこう、力がすっと抜けて、縛られていたものから解き放たれていく気がするんです。前へ前へ身体が出ていく感じ、止める物がないっていう感じなのかな、そうなんです」
婦人は微笑んで、大きくうなずいた。藍子は、もっともっと話したいという衝動に駆られて、いつもになく自然になめらかによく話した。婦人は、藍子のひと言ひと言にうなずき、優しいまなざしと微笑で応えてくれた。藍子は背筋がゾクゾクする感動の中で、不思議なくらいの自分の変化に驚いてもいた。藍子が深刻な表情でもしたのだろうか、婦人が柔らかなジェスチャーで、眉間のしわなどあなたには似合わない、もっと自然に柔らかな笑みを・・・と語りかけた。婦人の表情に大きくうなずいた藍子は、精一杯の深呼吸を全身ですると、婦人を真似て微笑んでみせた。半ば緊張したぎこちない表情ではあったが、今までに見せたことのない豊かで柔和な笑みであった。いいのよ、それで・・・という婦人の表情は、藍子を安心させるものであったのだろう、藍子は、大きな安堵の溜め息を全身でついてみせた。

各商店の明かりが落ちたすずらん通りは、人影もまばらであった。婦人とのことが整理がつかないまま、藍子は何処までも歩き続けたいと思った。
それは飛び上がる感激というものではなく、逆に静かに身体全体に沈み込んでいく気がするものであった。藍子は、それを味わいながら、ゆっくりと明大通りの坂を上った。舗道のブロックの継ぎ目継ぎ目に一歩をとり、いつもするように枚数を数えながら歩いた。コッコッとローファーのかかとの鋲がリズムを刻んだ。その音が、明大の石垣に反射でもして向かいのビルにこだましてでもいるのだろうか、鋲の音が重なって聞こえた。
「至福というものがあるなら、こんな瞬間のことなのかも知れない」
藍子は、何故か大袈裟にそう思った。駅前の大銀杏の葉も、夏のそれとは違って少し色づきかけ、秋の訪れを感じさせた。

いつものように、改札口からは電車が到着するたびに一気に人が掃き出される。今日も例外ではなく、そんな一日が始まった。藍子は最後尾で改札を出ると、急ぐことなく舗道の端を歩いた。足取りが軽かった。藍子には、今、
自分がどんな様子なのか、はっきりと自覚できていた。肩の力、そして首から頬にかけて緊張はなく、力が抜けて自然であることが感じられた。
「微笑みは」と、思うと、創られたそれではなく、ごく自然に和らいでいる自分を味わうこともできた。社の重いだろうと思われるガラスの扉が、スーッと開いた。
「あれ」
思わず藍子は、そうつぶやいた。
「虹、虹が見えるじゃない」
ガラスの扉が開く瞬間に、肉厚のガラスの扉の中にあの作品と同じ虹が、幾つも輝いて見えた。


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