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(159) CPからの伝言

「CP」から仲間の皆に伝言があり、お前たちも自己紹介せよとのことだった。

私は「A(アダルト)」と呼ばれていて大人の心という。私は「CP」のように「A」と略されて呼ばれようが不満など言うつもりはない。だって「A」だなんて響きがカッコいいからだ。私は仲間たちの真ん中に位置していて、司令塔の役割をしている。ラグビーで言うならさしずめスクラムハーフというところだ。コンピューターの座と言ってもいい。私の主な仕事と言うのは、事実に即したデータをかき集め、それらを整理・統合して最終的な行動に移せるかどうかを推定することだ。その集めたデータだが、すぐに用いられるものもあれば、過去の知識や経験に照らして評価し、修正しなければならないこともある。だから、頭がヒートしたりして疲れる作業だ。私「A」は理性と深く関係していて、適応性・合理性を持ちながら、冷静な計算をしなければならない。それ以外に、主体性を持ち根性も持って生き抜こうということや、創造的な営みなども扱っていてプロデューサーってとこだ。偉いだろ。

そんな万能選手のような私だが、外界からの影響で歪められてしまう可能性があって危なっかしいところもある。例えば、知性が万能だと思い込んだりしてしまうところがあり、思うままに”自然”を自分の従属物として従え、それを屈服させる勢いをもったとしたら、自然破壊を進めて世界そのものまで
も傷つけてしまうことになって危なっかしい。また、”物”と”心”の調和が大切であることを忘れ、得意の損得勘定だけに走ると、”物”の獲得だけが幸福をもたらすのだと言い始める危険がある。それでは、「幸せとは」をまるで勘違
いしてしまうことになる。後はと言えば、事実を隅々まで分析したとしたらどんなことでもわかると思っているものだから、その程度のミクロ的な考えに支えられているに過ぎないにもかかわらず、より広い統合的な立場からしたら部分的・相対的な真理に過ぎないということを認められない穴がある。

そんな訳で私「A」による知性なんて威張ってなんかいられなくて「両刃の剣」であり、そのマイナス面である”自然無視”や”自己中心性”は今どき、諸悪の根源だなどと言われている。だから尖り過ぎないように、仲間と相談して、「私を見ていてください、過剰になったら止めてください」と声掛けをしている。可愛いところあるだろ?

しんがりを務めますのは私たち「FC」・「AC」のペアでございます。「フリーチャイルド(自由な子どものわがまま心)」と「アダプテッドチャイルド(人の顔色をうかがい、それに合わそうとする子どもの心)」、言ってみれば真逆でして、同心円の中に居て「C(チャイルド)」としてのエネルギーを分け合っているのですございます。「C」であります私たちというのは幼児的・感情的な部分を担当しておりまして、もって生まれた本能やら衝動と呼ばれる部分ですとか、人生早期の体験でありますとか、それらに対応するために身に着けました反応の様式ですとかが含まれているのでございます。また、生来的に備わってございます芸術的な素質でありますとか、直観力なども私たちの「C」なのでございます。

私たちの特色と申しますのは、自他未分化の状態でございまして、残念ながら自己中心的でございますし、他人に対する真の意味での思いやりというものを持ち合わせておりません。ですので、すべての行動の動機となりますと、一見愛他的に見えますがその実、自利的に過ぎないのでございます。そんな訳ですので、現実認知の力などと申しますものは、大きく歪んでいることになるのでございます。自他未分化の他の面もございまして、依存性が高いことでございますでしょうか。しかし、親的なものと一体化することを望んでおりまして、一体化することで身の安全を得ようと努力しているのでございます。

私「FC」は、しつけなど親による影響は最小限にとどめ、もって生まれた姿に近い形で振る舞うもので、本能的・自己中心的・攻撃的でございます。好奇心や恐怖に満ちております。法律や道徳、外界の現実など考えませんで、即座に快を求め不快や苦痛を避けます。これには直観力・空想力・万能感なども私に属しております。ですから親や上司に暴言を吐くようなこともありますものですから、実はヒヤヒヤですの。しかし、「生きる力」の源ですので・・・。

俺「AC」は、子どもから成長する道筋でさ、残念なことに親の影響を強く受けて教え込まれたもんさ。だけどよ、その教えに従順にしてねぇと親から可愛がられねぇと思ってビクビクだったんだよ。そんな親の期待に応えたいと思っていろんなこと身に着けたよ。適応の様々をね。そのおかげなんだと思うよ。合理的でうまく順応した俺は、対人関係に使えるってわけさ。俺が前面に出るってことは相方である「FC」を犠牲にするってことよ。だからよ、本当の感情っていうのを我慢して「イイ子」になったり現実から逃れて自閉的になったりしなくちゃってことになる。辛ぇんだ。

俺が強く出るってことはさ、人の言うなりになるってこと。簡単に同意してしまったり妥協することになる。心はさ、畏縮状態って訳だ。時に自閉的になっちまうってことよ。痛ぇんだよ。ご機嫌取りにもなるし、自己卑下って言うの?劣等感だらけになるっつうの。そんな抑圧を受けるもんだからよ、受動的な攻撃っていうのを時々やって発散するイヤなやつなんだよ。様々な引き延ばし戦術だったり有限不実行とかやっちゃうわけよ。一方でよ、「手のかからぬ子」って育ったからそれなりの評価はあったよ。だって親の要求なんざ強い感受性を持ってるから、先回りして感じ取ったんさ。これちょっと無理してるからね、どこかで不適応を起こすかも知れねぇな。

てな訳で、俺たち一人じゃ一人前になれねぇから、五人の仲間でそれなりの力を合わせてるって訳よ。要はバランスなんだ。それと連携さ。家主さんがどんな自我で生きるかってのはさ、俺たちの働きが決めるって訳さ。だからオチオチいい加減にできねぇつうの!