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(47) 本来無一物

”何か”との”比較”で自分を不幸にする。
”比較”することさえしなければ”不幸”でなかったのにである。

クライアントの方々の頭の中に、言葉になさることはないが必ず何かと”比較”されての思いが強くあるように感じる。働くことが出来ず、自宅に引きこもっている我が子を、頭のどこかで我が子の同級生の誰々は結婚してお子さんがいることと比較し、この私はと言えばその同級生のお母さんを”幸せ”と決めつけ比較したら、何と辛く”不幸”な事か・・・と感じるようにである。

人は誰しも自分の立ち位置を、必ず周囲を、知る限りの世間を見回して”比較”して決めるものだ。だから、その気持ちは痛いほどわかる。「不幸だ」、「恵まれない」、「足りなくて辛い」と嘆かれる言葉はよくお聞きするが、その逆の言葉をお聞きすることがない。”比較”という行為は、所詮頭の中で生じている妄想にすぎないのだが。

ある日突然、子供が学校へ行けなくなった。母は、”不幸”の始まりだと強く思った。慌ててカウンセラーである私のもとへ。
「あの子の通っている中学で今、登校出来ていないのはあの子だけなんです。みんな誰でも我慢してると思うんですが、なんであの子だけ行けないんでしょう?学校へ行けなくなってもう二週間、朝も起きないんです。何度も何度も部屋まで起こしに行くんですが、反応もありません。甘やかし過ぎたんでしょうか。これが不登校ですよね?私、情けなくて・・・。買い物に行くのも一苦労で・・・。同級生の親さんとお会いしたくないのです。私が引きこもりたいくらいなんです」

確かによくわかる。当たり前だったことが突然出来なくなり、他は普通に当たり前のままで続いている状況の中で、”比較”ばかりで成り立っているから苦しいことだと思う。ただ、”あの子”という呼び方と、お子さんのことを心配するような言葉はなく、比較によるご自分の”辛さ”だけを語られたことが、私の心を痛めた。お母さんの辛さは本当によくわかる。また、突然登校出来なくなったお子さんは、自分でも訳がわからなく、行かねばと思いながら行けない自分を、責めて責めて辛くてやり切れないだろうと思うと、何とか楽になって欲しいと願う。痛い。”比較”することで一層苦しくなるだろうことを思うと、一刻も早く段階を追っての援助を示さなければ、お母さんとお子さんは”苦”から抜け出せないと、日頃焦ることのない私も、焦る。

”完全”から足りないものを差し引く。差し引いたものが大した数値でなかったとしても、もう引いたのだから”完全”な数値ではないはずだ。差し引いたものの大きさに比例して、”不安”になる。それは”減点法”であり、足りないものだらけの私たちであるから、減点ばかりで満足出来る”安心”は得られない。”比較”によって引くものがある限り、”不安””不幸”なのだ。

これはちょっとした”トリック”なのだ。まんまと私たちは引っかかり、はまり込むことになる。何かを位置づける時、”持ち点”は”ゼロ”でスタートすべきである。決して引かない。”持ち点ゼロ”なのだから引くに引けない。どんな些細なことも、そのゼロに加えていく。誰しもが加えるだけの発想だったら、マイナス点に目が行くことはない。”持ち点”は増えて行くのみである。
これを”加算法””積算法”の思考と言う。

IMALUさんは明石家さんまさんと大竹しのぶさんの娘さんである。「生きてるだけで丸儲け」という言葉から、さんまさんがIMALUと名付けたそうである。その言葉は、さんまさんの座右の銘であると聞く。彼の人生哲学であろう。これにはエピソードがあるらしい。1985年に日本航空123便が墜落事故を起こし、520名の犠牲者を出した。その便にさんまさんも搭乗予定だったという。しかし、収録が早く終わり、一便早めた為同便に乗らずに命を貰ったのだそうである。「生きてるだけで丸儲け」という彼の座右の銘は、彼の心の底からの叫びなのだろう。彼はただ者ではない。

先日お亡くなりになった、”燃える闘魂”アントニオ猪木さんの言葉にも同じような人生哲学がある。「人生は花が咲こうと咲くまいと、生きていることが花なんだ。生まれてきたことが花なんだ」と、ある。頭が下がる。この人もただ者ではない。

私たちは「本来、自分のものだ」「この私が」と、執着する。私たちは、何ひとつ持って生まれたわけでなく、何ひとつ持って死ねるわけでもないのである。「本来無一物」の存在である。

”いま・ここ・私”に何かが足りなくて不満であっても、「おかげさまで」と言えるような心境でいたい。人は、「本来無一物」であり、「生きてるだけで丸儲け」なのだから。


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