(27) 道子 ー 憧憬
改札を出ようとした道子は、
「もう決してそんな年齢じゃないわ」
ふと、そう思った。それというのも、短大時代からの親友である潤子から、ライブを聴きに行こうと誘いがあったからであった。いつもの事であるが、潤子には強引なところがあって、人の事情や都合など聞くつもりもないのである。
「道子・・・私、潤子よ。何?寝てたの?どうして返事しないの?うんとかふんとか言ってよ。話づらいじゃないの。まあ、いいや、あのね、来週金曜の夜6時半、都合つけてよ。下北沢、いいね、約束よ」
「突然、何?どうしたの?」
「道子、あんたは心配しなくたっていいの。私に任せとけばいいのよ。ライブよライブ、ね、一緒に聴きに行こうよ。返事はいいよ、あんたの返事待ってると夜が明けちゃうから、それはいいの」
「でも・・・」
「でも・・・じゃないよ。道子、あんたは優柔不断なんだから、いいのいいの。あんたの返事待ってるんじゃないんだから行けば良いのよ。その分、私が判断するんだから」
一週間前のまるで嵐のような潤子からの電話を思い出し、道子は吹き出しそうになった。一見強引そうに見える潤子ではあったが、道子にはない適切な判断力やリーダー的要素などの点で、道子にとっては一目置く存在であったし、決して無神経ではなく、奥の深い優しさと配慮を持ってもいた。道子はそんな潤子がとても好きだったし、気が楽というか潤子の自然な対応がなによりも道子の力を抜いてくれていた。
「気が付かなかったけど、そう言えば日が随分と短くなったわ」
道子は手に持っていた薄手のカーディガンを羽織ると、植え込みの所のベンチに腰を下ろした。薄暗くなり始めた駅舎のあたりは、一番混み合う時間なのだろうか、電車が到着するたびに一群が改札口から掃き出されて来るのだった。何とも言えない、夏場のそれと違った少し乾いた涼気が、不思議と道子に何か静かな予感を抱かせていた。静かないい時間を現実に引き戻すように、
「ごめん、ごめん。道子、待った?7時開場だから簡単に食事でもして行こうか」
「大丈夫?7時開場なんでしょ?」
「どうってことないよ。2時間も空腹に耐えて音楽聴くのも辛いよ。行こ行こ」
そんな会話を交わしながら、二人は商店街へ向かった。
300席はあると思われる会場は、ライブハウスとしては比較的大規模な方である。潤子は時々聴きに来ているらしく、勝手がわかっているようで、
「道子、もう少し前の右寄り辺りがいいんだよ。そう、その辺ね」
と、道子の後ろから潤子が指示を出した。意外と女性客が多かったし、年齢層も自分たちは若い方であることも助けてか、道子は安心であった。道子にとって、ジャズのライブは勿論初めてであったし、潤子に誘われない限り決して来る場所ではなかった。
「道子、あんたジャズ初めてよね?緊張することないんだよ。決して難しい音楽じゃないのよ。音楽なんてさ、もともと神事かダンスの為のものなんだからさ、生活に密着してるものだから、耳とか身体とかね、ほら心で聴けばいいのよ、楽にね」
「うん、ありがとう。私、意外と楽よ。何だかこの独特の雰囲気好きよ。楽しめそうな気がするわ」
店内の照明が落とされ、ステージにスポットが当てられた。白色系のスポットライトの光源は、左・右・後ろの三方向から一直線に力強くステージを照らしたが、道子にはその光が意志でも持っているかのように感じられた。客席のどこからともなく拍手が起こり、一瞬のうちに、パンパンパンパンと、誰が音頭を取るわけでもなく独特のリズムを打った。プレーヤーを呼び出す拍手であるらしい。
最初にピアニストが陽気な笑顔に、両手を大きく振り上げたオーバーなアクションで登場した。いかにも老練な感じのするピアニストである。大きな身体が前かがみになったかと思うと、静かにブルースの曲が始まった。右手から、ドラマーが拍手を抑えるジェスチャーをしながら静かな登場となった。ハイハットがリズムを刻み、少し控えめにバスドラムもリズムを打ち始めた。まだ、その両手は動きを始めてはいない。
高音のボーカルが聴こえ始めた。一瞬拍手が起こる雰囲気があったかと思うと、ピタッと黙し、息を殺したかのような空気が流れた。ハンドマイクを持ったボーカルが登場した。もちろん歌いながらである。ピンクのドレスを引き摺りながら・・・もう、その額からは汗が流れていた。大柄なうえに太い女性である。ハンドマイクをスタンドに歌いながらセットすると、空いた手が急に表情を持った。高くて細い絞り出されているその声は、道子にとって衝撃的だった。
「こんな声があったんだ・・・。そして、ここまでの声が出せるだ・・・」
道子は、独りそう呟いた。緊張しているわけでもないのに、道子は身動きが出来なくなった。握った手は汗でびっしょりと濡れた。二曲目、三曲目と曲が進むにつれて、あのドラムの力強さと同様なリズムが、道子の身体から出始めている感じがした。自然と力が抜けていくような気もした。その歌声に共鳴でもしたのだろうか、得体の知れない、そう、光の直線が身体を走った。
「負けたわ、いつもそう思うの」
先程までの元気と強引さはどこへ行ってしまったのか、気抜けした表情で潤子がそう言った。二人とも放心した様子で会場を後にした。
道子は潤子に気を遣った。
「お茶でも飲む?」
「うん」
無言のまま、二人はゆっくりとした歩調で行きつけの店へ向かった。夜9時を回っているというのに、店は混んでいた。窓際の席に二人は無言のまま腰を下ろした。
「潤子、潤子ったら、コーヒーでいい?」
「あ、うん」
「コーヒーを2つ」
いつにもなく道子が仕切った。潤子は運ばれたコーヒーに手もつけず、腕組みをしたまま考え込んでしまっていた。道子は無理をするのはやめようと思い、自分も腕組みをして目を閉じた。今、観て来たばかりのステージが映った。強烈なパッションピンクの衣装が、黒い肌にフィットして浮き上がった。汗の滲んだ額、ほとばしり出るあの声、まるで訴える手の表情、何もかもが凄かった。道子は胸が騒ぐのを抑えきれなかった。熱いものが頬を伝った。右手が、そっと頬へ向かうのを感じた道子は、自らの意志でそれをしなかった。
「私はずっと憧憬れてきた。それが何だか自分でもわからなかった。心の深い所でずっとくすぶり続けてきたものが、何なのか少しわかった気がするわ」
道子はそう呟いた。
今、自分の目の前で腕組みをしながらうつむき加減で考え込んでしまっている潤子にしても、きっと自分と同じような事をおもっているに違いないと、道子は思った。
「潤子、潤子ったら・・・大丈夫?今日は誘ってくれてありがとう。私、憧憬れ続けてきたものがなんであったか、きっかけが掴めそうよ・・・」
二人は駅までの道のりを、ライブで感じたそれぞれの事を胸に抱きながら、ゆっくりと歩いた。涙なのだろうか、駅舎の明かりが滲んで見えたのを、道子は嬉しく感じていた。