(15) 貴子 ー ふたり
「ビルの店舗は空気の入れ替えも出来やしない」
貴子はいつものように独り言をいい戸口をいっぱいに開け、三機ある換気扇のスイッチを全部入れた。カウンター席を合わせて三十席程度の店内は、一時間もあれば一人で掃除は出来た。貴子はいつものように有線のJAZZにチャンネルを合わせると、手際よく掃除を始めた。父と二人暮らしの貴子は、高校を卒業の時、強く進学を勧める父の気持ちをよそに、父の店を手伝い始めた。父の広次は、大手証券会社に勤務するエリート証券マンであったが、支社長として仙台支社へ栄転の内示と同時に退社を申し出た。中学一年生だった貴子を一人残して転勤する訳にもいかず、また、二年周期ぐらいで転勤がある為、転校させることも可哀想でと、退社を決意したのだった。貴子はもちろん父と一緒に仙台に行くつもりでいたし、今後転勤族になっても仕方ないと覚悟していたのであったが、父の決意はそれ以上に固いものであった。
実のところ、妻の病死が大きな引き金になっていた。証券マンとして家族を顧みることも出来ず、帰宅はほとんど深夜であった為、病床にあった妻の世話が充分出来なかったことなど、広次としては深く心を痛めていた。特に貴子には、妻の世話と学校で随分と苦労を掛けたことに対し、すまないという思いから退社後は貴子の為にだけ生きようという強い思いがあった。
広次の店「串駒」は帰宅途中のサラリーマンや若いカップルでいつも賑わっていた。駅から近いということもあったが、貴子の明るさが何よりも客にとっては安らぎとなっている様であった。証券マン時代は、ほとんど口を開くことのない寡黙な広次であったが、串焼き屋のおやじとなってからは、人が変わったかのようによく喋った。どこで修行した訳でもないが、広次の焼き物は客に人気があった。それもそのはず、鶏は千葉から自然飼育の地鶏、豚は頭だけを使い、当然炭は紀州備長とこだわった。また、野菜は季節のものだけを扱い、ハウス物は使わない念の入れようだった。
「あっ、そうだ。レジのペーパー入れ替えないと。今日は金曜だから忙しくなるぞ」
掃除を終え貴子は身軽そうな様子で店内を跳ね、入口のカウンターに近づいた。
「こんにちは。串駒さんですか?」
来客のある筈のない時間でもあるし、突然の予期せぬ挨拶に貴子は飛び上がった。
「わぁー、驚かさないで下さいよ。びっくりしたなぁー。五時開店ですので申し訳ありません」
「いえいえ、そうではなくて、こちら串駒さんですよね。田中部長、いや田中広次さんのお店でしょうか?」
「はい、確かに田中広次は私の父ですが」
どこで身に着けたのか、貴子は確かに人の対応が上手かった。それに助けられてか、木村は安心したのか胸ポケットから名刺を取り出し、貴子に手渡した。貴子は両手で受け取りながら、
「木村様・・・。あぁ、元の父の会社の方ですか。申し訳ありません。今父は仕入れ・・・仕入れといっても銀杏だけですけど・・・。一時過ぎないと戻りませんが・・・」
「銀杏を?ご自分で?」
「無駄なこだわりなんですけどね。自分が納得いくまで業者さんを探すんですよ。銀杏だけ今のところ納得出来ないらしいんです・・・。木村様、忠告してやってくださいよ」
木村は貴子の上手い対応に緊張がほぐれていくのがわかった。
「部長らしいですね。流石です」
木村は感心しながら、通されるままに奥のカウンター席に腰を下ろした。貴子は手際よくドリップでコーヒーを淹れ、
「キリマンジャロですが・・・」
「どうも、お忙しい時に申し訳ありません。確か・・・貴子さんでしたよね?お母さんによくにていらっしゃる」
「母を?私の名前もよくご存じなんですね」
貴子は不思議そうに木村を見つめ、父が在職中は相当近い関係だったのだろうと想像した。
「貴子、決まったぞ」
突然の下品な声に
「大きな声出さないでよ。お父さん、お客様よ」
諫めるような口調で貴子は言うと、銀杏の箱を広次から受け取った。
「部長、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
「いやぁー木村君、久しぶりだなぁ。君こそ元気でやっているか?」
広次は懐かしさのあまり、目を潤ませ木村の手を握った。貴子は気遣って、
「お父さん、コーヒーここに置くよ。私、ちょっと用があって出掛けるわね。木村様、ごゆっくりなさって下さい」
広次は気のない返事を返しながら、教えた訳でもないのに上手く気を遣う貴子を自慢に思った。
閉店後の店内は賑わしかった余韻を残しながらも、何か緩んだ独特の安らかさがあった。広次はカウンター席に腰を下ろし、珍しく冷酒を呑み始めた。洗い場の貴子に目をやり、こちらに来ないかと促した。
「私にもちょうだい」
「そうか、お前も酒が呑める年なんだなぁ」
感心したかのように言い、何か言いたげに貴子を見つめた。
「木村さん、どこか深刻そうだったね。お父さん、何か言ってあげること出来たの?」
広次は冷酒を勧めながら、
「なぁ貴子、俺は良い時に仕事に区切りをつけたんだとつくづく思う」
潤んだ目をした広次に、
「お父さん、それ以上言わないことだよ。お母さんあれで幸せだったと思う
んだ。今、私お父さんとふたりだってことがとても良いことなんだと思っているんだから」
貴子は父を深刻にさせない為に精一杯のことを言った。
「照れるじゃないの。お父さん、娘にこんなこと言わせるなんて親父失格だよ」
「まぁな」
「たまにはさ、こうやって二人で呑むのもいいね。近頃お父さん呑まなくなったもんね」
「ふたりだってこと・・・が良いことか・・・なるほど」
広次は噛みしめるように独り言をつぶやいた。
「貴子、木村君は例のリストラってやつで窓際に追いやられて、辞めろと言われているものらしい。子供さんはまだ高校生だから大変だろうと思う。五十に手が届こうという歳で転職もなぁ」
黙って聞いていた貴子は、
「それでいいのよ。ひどい会社だけどね。でもさ、木村さんの生き方をこの機会に考えたらいいのよ。木村さんの人生を・・・。自分らしく生きられる人生を・・・ね」
広次は満足そうな笑顔で、少し興奮した様子の貴子を見つめていた。
「”ふたりっていいもんだ”、なるほど、そうだ。貴子、これはちょっと良いぞ、名言だ」
「お父さん、暖簾片付けるね」
「すまんな」
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