(49) 等身大
宝塚のファンではない。
しかし、感心することがいくつかある。その第一は、女役・男役をなるほどと思えるように選んである点だ。その人物を学生の頃から十分に観察をして、適性を見極めてのことであろう。その人がよく活かされている。こういうことが、なかなか世間でざらにあることではないから嬉しくなる。
二ツ目(真打の一つ手前の階級)だった頃の、柳亭小痴楽さん、瀧川鯉八さん、神田松之丞さん(講談師/現 神田伯山)の三人会に何度か足を運んだことがある。今では三人とも真打になられ、 ”師匠””先生”(講談師の敬称は「師匠」ではなく「先生」)とお呼びすることとなった。三人共に、唯一無二の芸風で実力のある芸人さんで随分前からファンなのだ。その柳亭小痴楽師匠はとても愛嬌があり、小柄であるがパワフルで、私服でいたら渋谷系の若者だ。なのに「古典落語」を得意とする落語家さんであり、そのアンバランスさが何とも言えない魅力になっている。小痴楽師匠が前座の頃から、今は亡き桂歌丸師匠に大変可愛がられていたと聞く。歌丸師匠は前座時代の小痴楽師匠に「いいか!お前は落語家として良いものを持っている。子供みたいな可愛い顔をしているが・・・そんなお前さんがいくら努力しても、今は隠居さんや大店の旦那の役は”ニン”に合わないだろう。いいか、お前さん自身を自覚して手の届く自分を活かす落語をやるんだぞ。年と経験を重ねて精進するんだぞ」
歌丸師匠の言葉は深くて重い。なるほどなのだ。
「身分相応であれ」であり、「”ニン”に合う」であり、「自身を活かせ」なのだ。なかなか難しいものである。人はつい背伸びして、自分を大きく見せたがるものだ。今の自分では足りないなぁと思っているから、そのままの自分は見せられないとなる。つい人前で、背伸びした自分を見せようと企んでしまう。
公園のあのハトまでが、カラスに出会うと羽を膨らませ、空気をいっぱいに溜め込んで、体を大きく見せようと企んでいるのをよく見かける。「おいおい、お前はハトだろ。カラスにはどうしたって勝てないし勝たなくていいから逃げろ逃げろ」と、声を掛けたくなるほどだ。まぁ、自分は”弱い”と知っているだけでハトは上等だ。背伸びしようとする私たちよりも上等だ。自身を知っていることが第一なのだから。
ひとりのママがいた。
ママとは例の孫娘とチビ坊のママのことだ。いつもショートヘアでよく似合っている。その髪型に合わせた服はいつもオシャレだ。そのママだが、以前からずっと自身がクセ毛であることが大きなコンプレックスだったらしい。
それが、本物で凄い美容師さんに出会い、転機となった。「この髪質をどう活かして、お客様に似合う、喜んでいただける髪型をデザインするかが楽しいんです。それに簡単に整ってしまう髪質や髪型は、切っていても面白くないんですよ(笑)」
制御出来ないものを出来ないと認め、そのままを活かす道を考えるというわけだ。これは凄いデザイナーであり、本物に違いないのだ。深くて重い。大正解である。ママのコンプレックスは見事に解消した。この出会いを活かせるママもまた凄い。外部からの新たな刺激を活かしきっている。その以前に、コンプレックスにしている自身を認めているのだ。
米国メジャーリーグで活躍した、イチロー選手の凄さも本物である。「身分相応」「”ニン”に合う」を貫いたスポーツマンの一人である。バッターとして完全な肉体コンディションを作り、あらゆる球を打てる練習を欠かさない。頭が下がる。それを整えた上、ピッチャーの投げる球の中で一番打つのに難しい球を狙うのだ。それをヒットに出来てなんぼと考えるからだ。そこまで鍛えたことの証明である。”自身を知らなければ”出来ない”技”であり、”哲学”でもある。(制御出来ないだろうものを制御しようとする例である)
凄い人達がいるものだ。
たかだか宝塚・落語・美容・野球などと決して軽く扱ってはならない。どの世界でも、私たちの人生はそれらと同列であり、機会さえあればお互いに学び合うことが大切である。「”ニン”に合う」をぜひ目指したいものだ。落語の世界でよく使われる言葉だが、元々は歌舞伎用語であるらしい。私たちの日常では縁のない言葉である。”仁”と書いて”ニン”と読むらしい。”役柄がその人にぴったりと合う様”を言うのだそうだ。その為には、第一に役者本人が自身の芸の深さをはじめ、役者である前の自身が何であるのかを熟知していることが前提であろう。私たちは落語家でもなければ役者でもない。役になり切っての演技など元々求められていない。だから言えるのだが、一切演じなくていいのだ。背伸びをしてありもしない自分を演じることもいらないし、カラスに出会ったハトのように羽にいっぱい空気を溜めることもしなくていいのだ。落語家や役者のように求められていないのだから、もっと楽にあるがままの自分で居続けたらいいのだ。
「見られていない」
「要求されていない」
等身大の自分で、相応に生きたらいいのだ。「観客」がいて見つめられてはいない。もっと自由で肩の力を抜いたらいい。
私たちは幻想を抱いている。
大きくは二つの幻想だ。一つは、自身のありのままを不足に思い否定し、ありもしない”幻想の自分”を描いている。二つは、そんな”私”を見つめている何かがあるような幻想。その”眼”に怯えている。それらに応えようとして日々、あのハトのように大きく見せようとか、背伸びをすることを企まなければならなくなる。あなたは”自身の評価”は自身ですることを覚悟したら、もっと楽で怯えることから解放されるはずである。”ニンに合う”、”等身大でいい”それを目指したいものだ。