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レイキと内なる源
確かなものなんて何もないけれど。
胸の奥からこんこんと湧き出る、この力の音に耳を傾ける時。
自分の中心はここだという確かな感触がある。
ああ、この感触。いいものだな。
掃除機をかけながら、そんな感触を丁寧に味わっていると、胸の内の豊かな森の中にこんこんと湧く泉のイメージが広がる。
久しぶりにゆっくりと。
なじみの風景の中を歩いてみれば、樹々の梢の重なりあう向こう側に輝く光。
思わずカメラを向ける。
いい感じで光が撮れた。
今朝の泉のイメージにぴったり!
源は内側にも存在する
源というものが、自分の内側にも存在することが実感できると、各段に心が安らぎます。
難しい時にも、この音に意識を合わせることで安らぎとともに歩むことできます。
内なる源を発見していくこともまた、レイキの学びにとって欠かせない通過点だと思います。
「通り道」の次がある
レイキという力については、色々なとらえ方があると思いますが、わたしたちの内外に存在しているこの世界を形作る力だというのがわたしの理解です。
その力はどこにでも偏在していて、あると思えばいつでも使えるものです。
その力の通り道となることが、レイキの使い手となる第一歩なのですが、その「通り道」ということがまた奥深い。
レイキを始めたばかりの「通り道」と、同じ人が経験を十分に重ねた後の「通り道」とでは質の違いは明らかでしょう。
その「通り道」であるためのより良き在り方について模索していくことは、レイキを探求していく上で欠かせないことですが、それだけでは十分ではありません。
「通り道」だけでは、ふらふらしてしまうからです。つまり弱いんですね。
もちろん、はじめはそれだけでも十分素晴らしいのですが、ちょっと真剣に数年でもレイキを続けて見れば、それだけでは十分でないことにいずれ氣がつくでしょう。
わたしにも、もちろんそうした過程がありました。
そうして、ある時氣がつくのです。
そうか、わたしという存在の中心にもその源はあるのだ、と。
自分の外側の光(=力)の「通り道」であるだけでなく、その光の源は自分の内にもあって、それは宇宙の源でもある。そうしてはじめて、「源=自分=宇宙」となるのです。
そうした理解がレイキを探求する一つの到達点だと思います。(その次に大事なことは、闇に対する理解ですね。)
体が教えてくれること
これはお勉強してもわかることではなくて、レイキという力にたくさんたくさん触れていって初めてわかることです。
わたしの場合は、体に生まれるイメージがそのことを教えてくれました。(人さまに手を当てさせていただくという経験をたくさん積んでいるのでそれも大きいと思います。)
もちろん、読んだり聴いたりして、こうした話を知っている人も多いでしょう。
しかし、それではダメなのです。
自分の内側から生まれる感覚でこれを捕らえて初めて、その本質を知ることができます。
それが、一時しのぎではない深い心のやすらぎへとつながります。
そうして初めて真の喜びとともに生きていくことができるのです。
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