Doors 第10章 〜 交通事故
幸せはいつも逃げていく.とある大女優さんが人生を振り返ってそう言っていた言葉通り,扉の向こうで待っていた僕の幸せはいなくなってしまった.
それは19歳の時だった.車に轢かれ,人生の歯車は大きく大きく狂った.狂ったというより,歯がなくなって空回りしている感覚という方が近い.なんだかんだで順風満帆に進んできた道が突然消えて,暗闇に独り立たされ,扉には厳重に鍵が掛けられてしまった.
記憶というものは不思議なものだ.記憶を確かとするなら辻褄が合わないし,辻褄を合わせるとしたら,このはっきりとした記憶は何なのかが分からなくなる.事故は約0.72秒の一瞬の出来事だった.
見通しの悪い交差点で車を見た僕は思った.
(げっ!車!?ここでブレーキかけても交差点の真ん中で止まるだけ.避けようにもスピード出過ぎて曲がりきれないし…ここは突破一択しかないか…)
そして,強行突破を図りつつ車を目視で確認.
(思ったより車のスピードが出てるな.これはダメかもしれない.あと少しなんだけど…無理か.後戻りも無理…いや,最後まで諦めない!)
更にペダルを漕いで再度車を確認.(ぶつかる!)
車を凝視.(あぁ,ぶつかる…)
↑ ここは2コマの画像で記憶.2コマ目はゆっくりなフラッシュ.
その直後,左側にフワッとした優しい感覚があったとこまでは覚えている.痛くもなかったし,柔らかいネットに包まれたような感触だったので,一瞬避け切れたのかと思った.まるで夢から"醒める"ように心地よかった.ちなみに,ここまでの記憶に音は一切ない.超記憶だ.
後日聞いた話だと,暫く気を失っていたみたいだ.記憶の中ではフラッシュのままホワイトアウトして,すぐに起き上がって,目の前に自転車と散乱した自分の荷物を確認した.下半身の擦り傷がヒリヒリしていた.だから,僕は軽い怪我で済んだと安堵した.すると,恥じらいの気持ちが出てきた.そのまま立ち去ろうと荷物に手を伸ばした.その時,指を差された,自分自身の指に.
真っ直ぐ前に伸ばしているのに指はこちらを向いていた.恐る恐る自分の手を確かめると,3本の指の関節が脱臼していて皮膚を突き破り,それぞれ明後日の方向を向いていた.皮一枚で繋がっているような感じに見えた.開放骨折だ.初めて生で見る自分の関節は白く美しかった.出血はほとんどしていない.
このあまりにも突然訪れた非現実的な光景を直ぐに現実と思える人は少ないと思う.僕もこれは夢だと確信した.痛みもなかったし.悪趣味でタチの悪い夢だと,この夢の提供者を恨んだ.なかなか目覚めないことに痺れを切らし,僕は自分の頬をつねった.しっかりと痛かった.
正常性バイアスとでも言うのだろうか,ここまできてもまだこれが現実という発想はなかった.夢の中でも痛むんだという驚きだった.そして,もう一度頬をつねった時まさかと思った.現実なのか!?
ここで事故直前の記憶が蘇った.そして,事故が現実であることを悟った.しかし指の怪我だけは俄には受け入れられなかった.素人ながら状況は極めて良くないことが見て取れたからだ.切断となればドラムを叩くことは諦めなければならないかもしれない.運良くそうでなかったとしても,以前ほどのパフォーマンスが発揮できないことは明らかだったから.
ドラムの演奏において,指はみなが思っている以上に大事である.表現力の調味料や薬味と言うべきだろうか,味の決め手になるのは間違いない.尚且つ,そのほとんどが感覚により稼働しているので,一度感覚を失うと取り戻すのに苦労することは想像に容易い.結果的にそれ以降この問題に悩まされ続けることに.
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