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ニンジンではなく走る楽しさを
つまらない小さな枷を作ることが多い。
この横断歩道は白しか踏まない。
次の電信柱まで息を止めてみる。
今日はテレビを見ない。
やってることはほぼ小学生だ。
しかし、決定的な違いは成功報酬を設定したり、その報酬を目的にはしないということである。
成功報酬と言っても大したものではない。
「白だけ踏んで渡れたら、今日は給食の牛乳ジャンケンで勝てる」とか、「息を止められたら、好きな人と話せる」とか。
しまいには「きっといい日になる」とか「勝ち」とか、とんでもなく曖昧なものにもなるが、それでも楽しかった。
朝のテレビの占いなんかより、自分の力量が結果につながる方が、ずっと信憑性が高い気がしていた。
しかし今は違う。
枷や制約そのものが目的で、楽しみのひとつなのだ。
・・・
遊びの基本は、制約と報酬だと思う。
"ケンケンパ"なんて、普通に歩きゃいいじゃんというのはナンセンスで、枠に決められた通りの着地点に飛ばなければならない制約と、その制約通りに飛びながら渡りきるという報酬によって、遊びとして成立している。
この手の原理は幼稚園の現場でも応用していた。
子どもはやれと言われてもやらない。
そこに、ゲーム性や楽しそうと思わせる感情があるかないかで行動決定をする。
例えば椅子を運ばせたい場合。
ただ椅子を運びましょうと言ってもつまらない。もちろん、言えば大抵の子は大人しく運ぶのだが、やはり中には嫌々やる子もいるし、嫌だとはっきり言う子もいる。
だからこそ、ゲーム性を持たせる。
男の子と女の子で競争をさせたり、「誰が1番軽そうに運べるか選手権」にすると、いつもなら嫌がりそうな子も満面の笑みでやったりする。
ここで、遊びの中の報酬について考えてみる。
ケンケンパでも椅子を運んだ例でも、運んだからと言っておやつがもらえたり、言うことを聞いてもらえるというような利益を与えることはない。
ただただ、その制約の中で達成したという成果そのものが報酬になっている。
だからこそ、制約づくりに工夫が必要。
そして、逆に考えれば、多少の嫌なことでも自らで枷を作って楽しむことは可能で、その方が賢いのではないだろうか。
・・・
今日玄関の掃除をしたら、きっとあの人からLINEがくる。
枷を楽しみにしていたはずなのに、今日は小学生に逆戻りしていたことに気づいてしまった。ただ玄関掃除をしなきゃいけなかっただけなのに。
「好きな歌を歌いながら、歌いきるまでに玄関掃除を終わらせる」とか、「終わるまではつま先立ちでやる」とか、そんなことでも十分やる気にはなったと思う。
私、結構チョロいので。
達成したいことがあった時、報酬をぶら下げるのではなく、小さな制約を作って楽しんでみてはいかがでしょうか。
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