【掌編小説】バナナバードが飛んだ夜
4年ぶりに会った兄は、皺だらけのシャツを着ていた。相も変らぬ兄を見て、思わずため息が出た。安心なのか落胆なのかは分からない。けれど 、少しだけ懐かしさで心が震えたのは、きっと兄の後ろに不釣り合いな美しい夕日を見たからだ。少しずつ冷たくなってきた風と、暖かい夕日の中で、感傷的になっていただけだ。
兄は兄で、4年ぶりの私を見て 何か思うことがあっただろうか。けれど、お互い口にはせず、橙に包まれた街を歩き出した。
兄の指先はボトルグリーンに染まっていた。今 は何の絵を描いているのかを尋ねると、急に立ち止まる。右目を細めて、私の顔を疑うように見る 。少し笑って「まぁ、山のようなものだな。」と言った。
...まただ。
兄との会話はいつも雲を掴むようだった。山なら山で、どこの山なのか、見たことは、登ったことはあるのかと話のしようが ある。だが「山のようなもの」と言われると、そ れを聞いても私が理解できるのか自信もなかった 。なにより、聞くのを拒否されているようで、それ以上話は続かなかった。
赤と青のどちらが好き かと問われても「白」と答える、兄はそんな子どもだったと母が言っていたことを思い出す。聞かれている意味が分からなかった訳 でも、相手を困らせたい訳でもなく、赤も青も選びたくないほど「白」が好きだっただけなのだ。 兄は悟っているようだった。例えば赤だと答えると、いずれ「赤が好きでしょう」などと無理やり二択で選ばせておいて、赤を押し付けてくる可能性があること。その時に小さな不満を持つくらいならば、多少変わった子と思われることも仕方ないと幼いながらに思っていたのではないか。
「元気にしていたのか 気にはなっていたんだ 。
「嘘だね。それなら連絡くらいくれてもよかったじゃない 。メールも手紙も返事をくれなかったくせに。」
それもそうだな、ははは…と空笑いをして誤魔化すように兄は続けた。
「大学に入ったそうだな。楽しいか? 」
「どうかな。」大きく息を吸いながら、空を見上 げて答えた。
「相変わらず本は読んでるのか?」
「まぁね。今はサリンジャーを読んでるよ。」
「あぁ、ライ麦のやつだな。」
「そうそう。今読んでるのは『ナインストーリーズ』っていう短編集だけど。」
「あれか、バナナなんとか...読んだことないから 詳しくは知らないな。」
「嘘よ。読んだことあるでしょ?だってお兄ちゃ んの本棚から見つけたんだもの」
そう言って兄の腕を押した。とても細い腕だと思った。
「んー、そうだったかな…」
「そうだよ。最後のページには鳥の絵まで書いてあったわよ 。お兄ちゃんが書いたんでしょ?」
そういうと、兄は立ち止まった。優しく笑っていた兄から表情が消えた。どうしたのかを聞いても 、兄は何も答えず再び歩き出した。不安に思い、もう一度声をかけると少し不安げに振り返ったって言った。
「思い出したよ。俺にとってはバナナバードだっ たんだ。」
「どういう意味?」
「あの頃、バナナフィッシュは俺の心の中にもいたんだ。ただ魚じゃなかったんだなぁ。飛べなくなった鳥だった。でも、その絵は消したと思っていたんだけどな。」
「消した跡もあったわ。でもまたその上から鳥の絵があったのよ。ねぇ、お兄ちゃん。バナナ熱にでもかかったんじゃない?」
あまりにも無表情な兄を見て不安になり、少し戯けてそう聞くと、兄はまた立ち止まり、色のついた手を見つめて言った。
「すまん、用事を思い出した。家にはまた帰ると 母さんに伝えておいてくれ。大学頑張れ。俺みたいにサボるなよ。」
そう言って兄は、不格好に走りながら駅に戻っていった。
家に帰り、もう一度本を開く。不思議なことに 、見たはずの鳥の絵はなかった。消えた跡だけが 残っていたという方が正しいだろうか。確かに見たはずなのだけれども、私にはもうどんな色の鳥だったのかも思い出せなかった。
残っていたのは、ボルドーグリーンの指痕だけ。