記憶の扉を開く鍵
川沿いを、散歩した。
まだ少し肌寒かったけれど、優しく吹く風を全身に受けながら、川の流れる音を聴き、緑地で緑と土の香りを全身に取り込見ながら歩いた。
まるでMV撮影でもしているかのように、酔いしれていたに違いない。
ニヤニヤしながら、ゆっくりと歩く私は、側からみれば気持ちの悪いやつのように見えたと思うが、今は人目もあまり気にならないのも好都合だった。
家から出たのは3日ぶりだったとはいえ、洗濯をするときはベランダにも出るし、寒気のために日中はなるべく窓を3ヶ所は開けている。
でもやはり、まだ桜の残る川沿いをゆっくり歩くというのは、とても贅沢なことのように思えた。
雨が降ったせいで、やや土臭い歩道も嬉しかった。
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前の職場で、ある時から、不意に土臭さを感じるようになった。
しばらくの間は黙っていたのでが、どうしても我慢ならず、ある日隣の席の仲の良い先輩に話してみたところ、実はその先輩も不思議に思っていたという。
周囲に話すと、感じる人とそうでない人に分かれ、一体何なんだと話題にはなったが、その場では原因を特定することができなかった。
そしてまた次の日、土臭さを感じたところで、この匂いだと訴えたところ、向かいの同僚が目を点にしながら、ハンドクリームを塗っていた。
まさかとは思いつつ、そのハンドクリームに鼻を近づけた。間違いなく、土臭さの原因は、このハンドクリームだった。
しかし彼女は、いい匂いだと思って使っている。なんでも高麗人参エキスとはちみつが融合されたクリームだということ。そして、気に入っているとのこと。
隣の席の先輩とあれほど「土臭い」「草の生臭い匂い」と騒いでいただけに、あまり的を得たフォローもできず、彼女は次の日から職場ではそのハンドクリームを使うことはなかった。幸いにも、仲の良い同僚だったので、今となっては笑い話。
散歩をしながら、ニヤニヤしてしまったのはそのせいである。
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目で見えるものは、人にとって最も認識しやすい情報である。人が日常的に得る情報の8割以上は、目で見て得られる視覚情報だと言われている。
音や香りというのも、目からは得られないものを補完するためには欠かせないものだ。
しかし、やはり音や香りは記憶と密接に関わっている。
記憶の扉の内は、目で見た情報かもしれないけど、その扉を開く鍵は、音や香りであることが多いのではないだろうか。
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でも、言葉の力は偉大だ。見えないもの、聞こえない音、嗅いでいない香りを感じさせることができる。
いつか音や香りを纏わせた文章や言葉で、世界を描けるようになりたいものです。