「死、のち殺人」第5話

 草心は私と外で会えることを喜んでくれた。行先を話し合う時間は嘘みたいに楽しかった。彼が時々思い詰めたような表情をするのは気がかりだったが、浮足立った気持ちが負の感情を相殺した。
 彼との約束は日常生活を明るい色に染め上げた。育児の辛さよりも、凛花と過ごせる幸せを強く感じるようになった。
「ママ、だいすき」
 凛花は毎日、私に愛情表現をしてくれる。こんなに愛おしい子がいるのに育児の苦悩ばかりに目を向けていた自分が恥ずかしい。
「私も凛花が大好きだよ」
 それは紛れもない本心だ。たとえ体は借り物だとしても、魂は紛れもなく私だ。だからせっかく与えらえた二度目の人生を無為にする必要なんかない。犯罪行為や非人道的な行動でなければ感情の赴くままに生きたほうがよい。人間は気の持ちようでいくらでも前向きになれることがわかった。
 一方、その考えを持ったことにより、育児の面である程度手を抜くようになった。それは凛花への気持ちが冷めたわけではなく、常に全力で育児をしていると心身のバランスが崩れてしまうからだ。たとえば完全に手作りしていた食事は一部既製品に頼るようになったし、凛花がぐずっていても本当に体がしんどいときは要求に応えずに休むようになった。絵本の読み聞かせも三冊までにした。草心のことを考えているときは、凛花の話にちゃんと耳を傾けてあげられていなかったかもしれない。
 だけど、それが完全に悪いことだとは思わなかった。西宮マネージャーの言うように心のバランスは大切だし、ネットの育児掲示板にも『手を抜けるところは抜くように』と書かれていたからだ。それに実際、手を抜いたことで心が軽くなり、凛花により深い愛情をそそげるようにもなった。
 すべてが好転しているように思いながら日々を過ごしていると、ついに草心と外で会う日を迎えた。この体に憑依して九日目だ。
 行先は新宿御苑。西宮マネージャーが鈴木萌桃の家で凛花を見てくれることになったから、何かあればすぐに駆けつけられるように近場にした。
 西宮マネージャーと凛花は初対面にもかかわらず、すぐに打ち解けた。だから私が「ちょっとだけお外に行くね」と言ったときも、凛花は「わかったぁ!」と言いながら上機嫌でダンスを踊っていた。西宮マネージャーも「一花咲かせてきいや」と言って(植物園とかけているのかもしれない)、鼓舞するように私の背中を叩いて快く送り出してくれた。
 浮足立ちながら入り口の門に着くと、すでに草心がいた。彼の姿を遠目から見ただけで心臓が高鳴る。彼はいつもと同じ格好なのに、青空の下にいるだけで別人のような華やかさを感じる。だけど近くで会うといつもの柔和な笑顔を向けてくれて、草心らしいと思った。彼の隣は居心地がいい。
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
 緊張で声が上擦る。
「モナミちゃん、すごくかわいいね」
 彼の言葉に心臓が跳ねた。普段は洗濯のしやすさ重視で特徴のない服を着ているが、今日は鈴木萌桃のクローゼットの奥に眠っていた一張羅のワンピースを着てきた。淡いピンクの花柄に、所々レースがあしらわれている女性らしいデザインだ。化粧も動画を参考にして時間をかけた。だから褒められたことが純粋に嬉しい。
「じゃあ、行こうか」
 草心の後に続き、券売所に向かう。彼がスマートに支払いをしてくれている横で『年間パスポート二○○○円』の表記が目に入った。
「一年に何度も行けて二○○○円って安いね。テーマパークの何分の一なんだろう」
「本当だ。お得だね」
「こっちにしてみる? もちろん私がお礼としてプレゼントするよ」
 半分冗談、半分本気で言ってみた。新宿御苑なら歌舞伎町から徒歩圏内だし、凛花を託児所に預けてから出勤までのわずかな時間だけでも通うことができる。それに、年間パスポートを口実に草心とまた外で会えるかもしれない。
 淡い期待を込めて表情を窺ったが、草心は浮かない顔をしている。
「ごめん。もう一日券買っちゃったから」
 言いながら、彼は私から目を逸らした。もしかしたら私の魂胆を見抜いて引いているのだろうか。途端に自分の発言に罪悪感を覚えた。
「ごめん、ずうずうしかったね」
「いや、そうじゃなくて……あ、そうだ、温室行こうよ」
 そういうと、草心は私の手を取った。突然のことに狼狽えてしまう。今まで指一本触れなかった彼がこうも大胆に手に触れてくるなんて予想外だ。鼓動が小動物のように速くなっていく。
 しかし、彼はものの数分で手を離した。
「ごめん、連れてこうと思ったらつい手が出ちゃって……あ、そういう意味の手が出るじゃなくて……物理的に」
 草心はたどたどしく言葉を紡いだ。風俗で逢瀬を重ねているくせに十代のように初心な自分たちがなんだかおかしい。
「モナミちゃん、笑うなんて意地悪だよ」
「ごめん、ごめん。なんか私たち、高校生みたいだから」
「案外そうかもしれないね」
「え?」
 聞き返す間もなく温室に辿り着いた。体育館ほどの広さがある全面ガラス張りの巨大な施設を前にして、思わず目を瞠った。ガラスには青空に浮かぶ雲が反射しており、芸術的な雰囲気を纏っている。
「大きさにびっくりした?」
「うん、外国の建物みたい」
「中には海外の植物がたくさんあるよ。熱帯や亜熱帯の植物を中心に二七○○種類も展示されてるんだって」
「すごい。草心詳しいね」
 純粋な気持ちで褒めると、草心は照れながらはにかんだ。その表情に心をくすぐられる。
 温室内はさながらジャングルのように草木が生い茂っていた。街中では見ないような不思議な形の植物がたくさん展示されており、見ているだけで楽しい。温室というからには暑いのだろうと身構えていたが、七月なのに快適な室温だ。草心曰く、この温室にある植物の中には暑すぎると生長に支障が出る種類もあり、空調に気を遣っているらしい。そこまで仔細に調べてくれているなんて思いもしなかった。そういう細やかな配慮が彼の魅力だ。
「これかわいい」
 何気なく植物を指さすと、草心がすかさず口を開いた。
「それはエアープランツ。着生植物といって、土に根を張らずに樹木や岩に張り付いているんだ」
「え、それじゃあ栄養が取れないんじゃない?」
「空気中の水分を吸収しているから問題ないよ。土が必要ないし手入れも簡単だから、観葉植物としても人気なんだ。瓶に入れて楽しむテラリウムとかね」
 植物は総じて土から栄養を吸収していると思っていたから驚きだ。
 その後も、気になった植物を指さすたびに説明をしてくれた。自分の知識がどんどん増えていく感覚が高揚感を高める。
「この真っ赤な花は?」
「これはベニマツリ。茎の先端に十数輪が密集して咲くんだ」
 目にも刺激的な赤い花をみて、ふと凛花が描いた花の絵のことを思い出した。私のことは赤いクレヨンで描いてくれていたから、ちょうどこのベニマツリに似ている。
 そして一度凛花を思い出すと、急に心配が押し寄せてきた。あの子は元気にしているだろうか。泣いていないだろうか。
「原産国は……あれ、ど忘れした。中南米の、えっと」
 草心が顎に指を添えて考えはじめた。今は彼と過ごす時間を大切にしなければと思い直し、彼の疑問へ答える。
「中南米の有名な国は、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、メキシコあたりかな」
「うーん、もうちょっとレアだった気が」
「グアテマラ、ホンジュラス、バルバドス」
「あ、や、もっと有名。かわいげのある感じ」
「キューバ、パナマ、コスタリカ」
「そう! キューバとパナマ。というか、モナミちゃんって地名に詳しいんだね。好きなの?」
「あ、えっと……」
 詳しいのは生前の私だ。ルイナに会ったときも、咄嗟にセントクリストファー・ネイビス連邦という地名が出てきた。だけどなぜ知っているのかはわからない。知識はあるのにその理由が釈然としないことがもどかしい。
 言い淀んでいると、草心が話題を変えてくれた。
「あの橋を渡ってみない?」
「う、うん」
 まるで親鳥についていくひなのように草心の背中に続き、橋を渡った。天井が近くなったせいか暖かさが増す。なにより見晴らしが最高だ。
「ほら、あそこ」
 草心の指さす橋の下には、青空を映した池があった。丸い草や黄色い花が気持ちよさそうに浮かんでいる。
「あの黄色い花かわいいね」
「あれは熱帯スイレン。花茎が水面より上にあるのが特徴なんだ」
「草心は本当に植物に詳しいね。どうして?」
 いくら新宿御苑について調べてくれていたとしても、膨大な種類の植物の特徴を覚えるのは至難の業だろう。私が指さす花をすべて説明できることが不思議でならない。
「うん、まぁ」
 草心は首を捻りながら答えた。質問の回答としては要領を得ない。だけど先程は私も地名に詳しい理由を答えられなかったのだからおあいこだと思い、深くは追及しなかった。
 温室を後にした私たちは、日本庭園を訪れた。異国情緒が溢れる温室とは対照的な日本独特の雰囲気は心が落ち着く。涼し気な緑の匂いにも癒された。
 庭園の池にかかるアーチ状の橋の手前に腰を下ろすと、生い茂る草の中で変わった植物を見つけた。
「これは何かわかる?」
「ん、どれどれ?」
 草心が私の隣に膝を折って座った。
「よく見つけたね。これはナンバンギセルだよ」
「変わった名前だね」
「うん。この長い茎の先に咲く花がキセルに似てるからつけられた名前だよ」
「キセルって、キセル乗車の?」
「モナミちゃんの発想面白いね。そもそもキセルは、西洋風の煙草パイプのことなんだ」
 草心はスマホで検索してキセルの画像を見せてくれた。
「ほら、形がそっくりでしょ」
「確かに似てるかも」
 それから変な植物をふたりでぼうっと眺めていたら、草心がいつもより少しだけ低い声でつぶやいた。
「ナンバンギセルは、寄生植物なんだ」
「きせい……実家に帰る方じゃないよね」
「うん。寄生虫の寄生。ようは、他の植物に寄生して養分を横取りする植物のことだよ」
「えっ」
 まるで他人の体に憑依して生きている自分のようだ。心臓が不穏な音を立てる。先程まで軽い気持ちで鑑賞していたナンバンギセルが、とんでもなく不気味に思えてくる。
「モナミちゃんどうしたの? 顔青いよ」
「あ、大丈夫……」
「寄生虫とか、デートに似つかわしくない単語を使っちゃってごめんね」
「そんな、全然」
『デート』という響きが鼓膜に張り付き、心臓がさらに忙しなくなる。
「実はナンバンギセルは、万葉集では『思い草』って記されているんだよ」
「『思い草』……」
「うん。この花を、恋に悩んで俯いている女性に見立ててそう呼んだんだって。別名は――」
 草心が殊勝顔で小さく深呼吸をした。思わず息を呑む。
「忍ぶ恋」
 草心の目が淡く潤んでいる。二人の間の心地よい空気が一気に張り詰め、緊張で口が乾いていく。自分の鼓動の音が彼に伝わらないかが不安でしかたない。
 草心は頬を赤くしながら口を開いた。唇の端がわずかに震えている。
「僕は、自分のことも生きる意味もよくわからなかった。そんなときにモナミちゃんの存在を知って、思い切って会いに行った。そしたらすごくかわいくて、いい人で……天使だと思った。だけど僕たちはあくまで客とキャストの関係だ。モナミちゃんがやさしいのは商売だからだと思っていたし、自分の気持ちが本当なのかも不安だった」
「草心……」
「だから外で会って、純粋な男女としての時間を過ごしてみたかった。そして今日確信したんだ」
 草心が私の瞳を真っすぐに見据えた。
「僕は、モナミちゃんのことが――」
 彼が言いかけたとき、突然私の電話が鳴った。緊張感が一気に霧散する。
「あ、えっと……気にしないで」
「いや、出た方がいいよ」
 そんな押し問答を繰り返した後、やむなく電話を出た。
「もしもし、モナミ?」
「はい。西宮マネージャーですか?」
「そうや、取り込み中やったか?」
 口には出さず、こくりと頷く。
「どうされましたか?」
「一花咲かせているところ悪いんやけど、凛花が熱っぽいんや。体温計どこにある?」
「えっ!」
「あ、でも本人はすこぶる元気やで。まだ踊ってるしな。抱きつかれたときに体が熱かったから念のため。子どもってみんなこんなもんかもしれんし、うちは子どもおらんからわからんのやけど――」
「今から帰ります」
「でも、まだ二時間もあるで?」
「すぐに戻ります」
 急いで電話を切り、不安顔の草心に頭を下げた。
「子どもが熱を出したみたいなんです。本当にごめんなさい」
「う、うん、大丈夫。全然。お子さん第一……あ、お子さんいるんだね」
「黙っていてごめんなさい」
「ううん。それでも僕は……あの、今日の夜は出勤する?」
「子どもの具合がよければ……」
「わかった。そのときに言うね」
「本当にごめんなさい」
 そう言って、私はすぐに立ち上がって走り去った。
 そして今までの自分の行いを懺悔した。
 私は浮かれすぎていた。だから家を出る前に凛花の体調の変化にも気付けなかったんだ。
 心のバランスを優先して育児の手を抜きすぎてしまったのかもしれない。私の恋煩いのせいで凛花の生活リズムが崩れたのかもしれない。いつもより読み聞かせる絵本の冊数が少なくなったせいで凛花が動き回る時間が多くなり、体の疲労が蓄積していたのかもしれない。既製品の食事が体に合わずに体調を崩したのかもしれない。何より、草心に想いを傾けたせいで無意識に凛花にそそぐ愛情が減っていたのかもしれない。今日だって、初対面の西宮マネージャーと二人きりにさせたことが、凛花のストレスになってしまったのかもしれない。
 子どもは敏感なのに、私はどうかしていた。
 夢から醒めたら、淡い恋心は心底に引っ込んでしまった。それくらい私は凛花が心配で、大切で、愛している。たとえ本当の母親ではなくても。
 タクシーに乗っている間に今日の草心の言動が頭をよぎったが、あれほど華やいでいた感情は失われ、すでにセピア色に色褪せている。激しい自己嫌悪が草心への気持ちにも変化をもたらしてしまった。突然帰宅したことへの申し訳なさはあるけど、頭は凛花のことでいっぱいだ。
 タクシーを降りると、全速力で自宅へ走った。鍵を探す時間さえ惜しかった。
「凛花!」
 玄関扉を開けた瞬間に叫ぶと、満面の笑みを浮かべた凛花がこちらに駆け寄ってきた。
「ママー!」
「走っちゃダメ! お熱上がっちゃうよ!」
 気付けば、あれだけ躊躇していた𠮟るという行為を自然に行っていた。それだけ凛花の体調が心配だった。
「ママぁぁ!」
 凛花は私の胸に飛び込んできた。やわらなか肌、あたたかな体温。おでこに手を当てると、いつもと同じ体温が手のひらにじんわりと広がった。
「もう帰ってきたんか。そんで、熱は?」
「多分大丈夫です。感覚的にはいつもの体温ですが、念のために計ってみます」
「それはよかった。至らなくてごめんな。うちの平熱が三十五度代なのを念頭に入れとらんかった」
「いえ、私が悪いんです。急に頼んでしまってごめんなさい。親としての自覚が足りませんでした」
「そんな思い詰めたらあかんで。誰しも息抜きは必要やし、恋はする」
「でも、両立できなければ意味がなかったんです。私は……この数日間、凛花のことをおざなりにしていました。周りが見えていませんでした」
「周りが見えなくなることなんて誰にでもある。落ち込んでると凛花にも伝わるで」
「ママ、大丈夫?」
「ごめんね……」
 不安げに私を見つめる凛花を、私は思いきり抱き締めた。
 
 鈴木萌桃の体に憑依してから十日目。いつの間にか柳楽直希に憑依していた期間と同じになってしまった。もしかしたら今日彼女の体から消えてしまうかもしれない。そう思うと空恐ろしい。
 まぶたを上げると、すぐ隣に凛花の健やかな寝顔があった。すぅすぅと控えめな寝息を立てて熟睡している。彼女の小さな手をきゅっと握ると、眠ったままなのに握り返してくれた。そんなささやかな日常の一片が愛おしい。
 昨日は西宮マネージャーが帰宅してから凛花と目一杯遊び、仕事は休んだ。猪熊店長は当日欠勤にもかかわらず、すんなりと了承してくれた。 
 しかし、さすがに二日連続で休むわけにはいかない。凛花との生活を守るためにも仕事はかかせない。その代わり、出勤までは全力で育児に取り組もうと決めた。
 まず、凛花が起きる前に手料理を作った。朝は体にやさしい和食、そして夕方に食べる煮込みハンバーグの仕込みまで終えた。凛花が起きてからは一緒に朝ご飯を食べ、少し遠くの運動公園まで遊びに行った。太陽の光に照らされた凛花の笑顔は輝いていて愛おしい。何にも代えがたいほどの幸福を感じた。
 家に帰ってからは凛花の大好きな絵本を十冊読んだ。お昼を食べ終え、凛花がお昼寝している間に家事をしていると、突然むくりと起きた凛花が「絵を描く!」と騒ぎ出した。凛花は絵本も、自分で絵を描くことも大好きなようだ。私は急いでクレヨンとスケッチブックを用意した。最初は抽象画のような大胆な絵を描いていた凛花だったが、最後に色とりどりの花の絵を描いた。この前の花の絵と構図は違うけど、なぜか花の数も使った色も同じだ。
「あかいのがね、ママ」
 凛花は真っ赤な花を指してそう言った。
「どうしてママは赤なの?」
 何気なく尋ねると、彼女はにこりと笑った。
「あかいから」
 無邪気な答えだ。赤いから赤い。青いから青い。楽しいから楽しいし、嫌だから嫌。幼児の理論は単純で、だからこそ奥が深い。そして単純だからこそ鋭い。
 ふと、凛花にとっては鈴木萌桃も赤いイメージなのかが気になった。この先本当の母親との違いがどんどん露見してバレてしまったらどうしよう。
 そんな私の不安には全く気付いていない様子の凛花は、意気揚々と絵の説明を始めた。あおいのがね、パパ。みどりがね、じいじ。おれんじがね、ばあば。ピンクがね、もんちゃん。きいろがね、ゆーちゃん。
「ねぇ、みんなどこにいるの?」
 この前と同じ疑問を受け、心がざわつく。先日回答をはぐらかしたら凛花がぐずってしまった質問だ。
 だけど、今ならちゃんと答えられる。
「みんなは凛花の心の中にいるよ。でもね――」
 純粋な瞳が不思議そうに私を見つめている。
「ママはここにいるよ」
 本当の母親じゃなくても、私は凛花のママだ。
 
 名残惜しさを感じながらも夜間託児所に凛花を預けて出勤した。一日とはいえ、休みを挟むと途端に仕事が億劫になってしまう。それに加えてもう一つ心を重くする理由がある。草心との一日ぶりの再会だ。謝罪できていない上に昨日は欠勤までしてしまったのだから、幻滅しているに違いない。
 それに私は、昨日の一件で草心に対して完全に心変わりしてしまった。今は凛花のことで頭がいっぱいだから、恋心が戻ることはないだろう。こんな状態で男女の甘い言葉の応酬をする気にはなれない。
 鬱々とした気持ちで猪熊店長に予約状況を尋ねると、やはり草心の名前が挙がった。しかも最後の時間帯での予約だ。風俗店の営業は法律で午前〇時までと決まっているから(入り時間によっては多少後ろ倒しになることもある)、おおよそ真夜中に会うことになる。時間的にも気が滅入る。
 しかし、決して草心を嫌いになったわけではないし、むしろ助けてくれたことには今でも感謝している。この気の重さはあくまでも自己嫌悪が端を発していた。恋心に踊らされて育児をないがしろにしてしまったこと、そして一瞬で恋から冷めてしまった自分の無慈悲さへの自己嫌悪だ。
 暗澹たる気分のまま二人の接客を終え、ついに草心と会う時間になってしまった。迎えに行くために扉を開けると、草心が立っていた。神妙な雰囲気に気圧され、背筋に冷たい汗が伝う。
「会いたかった」
 草心はいつもよりも情熱的な言葉を放ち、粘度の高い視線を送ってきた。
 今日の彼は危ない。本能的にそう思った。
 もしかしたら、抱かれてしまうかもしれない。
「この前はごめんなさい」
 男女の雰囲気になるのを遮るために深々と頭を下げた。頬まで流れていた汗がこめかみまで逆流していく。
「そ、そんなに謝らないで」
 草心は焦ったように言った。私が一向に頭を上げないからかもしれない。
 何度も謝罪を制されてようやく顔を上げた私は、草心の表情から毒気が抜けていることに安堵した。しかし、気を抜くことはできない。なんせこれから長い時間を草心と密室で過ごさなければならないからだ。
 早々に視線を逸らし、先にベッドに座るように促した。私から先に座ると、距離を詰められる可能性があるからだ。
「レディーファーストだよ」
 そんな紳士的な言葉も聞こえないふりをした。普段ならやさしさと捉えるのに、今日は抱くための作戦としか思えなくなっている。自分の気持ちが変化しただけで他人の見方がらりと変わってしまうことに愕然とした。もしかしたら草心は何も変わっていないのかもしれないのに。
 諦めたようにベッドの縁に腰かけた草心の隣に、人二人分のスペースを開けて座った。いつもは拳一つ分しか開けていないから、この距離感を彼は訝しんでいるかもしれない。
 しかし、草心は平然とした様子で話しはじめた。
「昨日は楽しかったね。一緒にいられて」
 恋人と会話をするようなテンションだ。同意するのも憚られ、代わりの言葉を探した。
「あ、あれからどうしました? すっぽかしてしまったから……」
「何で敬語なの?」
「あ、や……」
「もしかして、僕がモナミちゃんを抱くと思ってる?」
 図星をつかれ、心臓が壊れたように激しく鳴った。彼の探るような視線が私の真意を掘り出そうとしている。慌てて目を逸らし、髪の毛を拾うふりをして床に下りた。
 いよいよ強引に抱かれるかもしれない。そう思って身を固くしていると、草心は気まずい雰囲気を一蹴するように空笑いした。
「やっぱりモナミちゃんは面白いね。たった数時間プライベートで会っただけで、急に抱こうなんて思わないよ」
 草心は床に蹲る私の肩を背後から撫でた。触れられた瞬間に肌が粟立った。牽制するように振り向くと、彼は口角を上げた。
「ただ、確かめたかっただけだから」
 草心はベッドから下り、私の前に回り込んできた。ちょうど目線の高さにある彼の顎にはところどころ苔のような髭が生えている。今までの草心の肌は艶やかだったから、もしかしたら昨日は身だしなみを整える余裕がないほどに落ち込んでいたのかもしれない。
「大丈夫?」
 やさしい声音が鼓膜を震わせる。髭を見ただけなのに、怯えていた心が徐々に元に戻っていく。自己嫌悪に囚われて彼を危険人物扱いしたことを自省した。
 草心は根っからの純粋でやさしい人だ。毎日会っていたからわかる。そもそも私は、勤務時間中に寝るこを許してくれた心の広さに惹かれたのだ。凛花への母性や自己嫌悪で消えてしまった恋心は戻らなくても、勝手な思い込みで怖がるのは失礼だろう。
 草心は間違いなくいい人で、信頼に値する。そう思ったら少しだけ心が軽くなった。
「うん。少し立ち眩みがあっただけだから大丈夫。ごめんね」
「子育てもあるし、無理もないよ」
「子どものことも、黙っていてごめん」
「プライベートなことを話さないのは当たり前だよ。それより、少し横になったら?」
「でも、悪いよ……」
「ううん。実は大事な話がしたいから、元気なモナミちゃんでいてほしいんだ。だから少し休んでほしい。予約が終わる十五分前には起こすから」
「わかった。本当にごめんね」
 やはり草心はやさしい。彼への信頼感が舞い戻り、ベッドに横たわってからからすぐに意識を手放した。
 夢は見なかった。深い眠りに落ちたのは、育児の疲れが体を蝕んでいたからだろう。
 どれくらいの時間が経ったのかはわからないけど、草心の呼びかけで目が覚めた。ぼんやりとした意識の中まぶたを上げると、目の前に草心の顔があった。キスをするときの距離だ。驚いて身をよじり、彼の視線を回避する。今のは明らかに距離感がおかしい。
「よく眠れた?」
「う、うん、ありがとう」
 ミミズのように這いつくばって壁際まで移動し、草心と十分な距離を取って起き上がった。
「じゃあ、大事な話をしてもいいかな?」
「う、うん」
 草心は腕時計をちらちらと確認しながらスマホを取り出し、素早く操作して私に差し出した。
「まずはこれを見てほしい」
 渡されたスマホには見覚えのある画像が映っている。目と口と鼻穴の部分がくりぬかれた白い仮面を被った短髪の男性と、真っ赤な文字で構成された安っぽいサムネイルだ。
『悪霊○人? 日本を震撼させる都市伝説の真相』
 オカルトじみたタイトルが薄気味悪い。悪霊と書いてあるから霊的な現象のことだろうか。ありふれた内容のように思えるが、再生回数は一か月で五百万回を超えている。
【こんにちはごきげんようこんばんは。未明の鵺です】
 聞き覚えのある挨拶を聞いて、記憶が蘇った。これはモナミを『抱けない風俗嬢』と紹介した男性と同一人物だ。
【さて、今回は全世界で大量発生している悪霊殺人の真相に迫りたいと思います】
 〇は数ではなく『殺』の伏字だということに気付き、身の毛がよだった。
 それに悪霊殺人なら思い当たる節がある。ルイナを殺した犯人だ。
【悪霊殺人は二か月前から急激に増加しました】
 この動画が撮影されたのが一か月前だから、時期的には三か月前から悪霊殺人が増加したのだろう。そこまで考えて、タクシー運転手の言葉が想起された。
 ――おかしな殺人が全国各地で流行ってるんですよ。
 もし未明の鵺の発言が正しいのなら、あのときのタクシー運転手は話を盛っていなかったということだ。胸の内がざわつきはじめる。
【日本で最初に悪霊殺人が確認されたのは十か月前です。当時はほとんど認知されていませんでした。しかし、半年前には月に五件、二か月前には月に五十件、今では週に百人もの人々が悪霊に殺されています。パンデミックと同じで、恐ろしいペースで広がっているのです。日本よりも拡大スピードが速い国もあります】
 世界がそんな状況に陥ってることをまるで知らなかった。育児や仕事に忙殺され、ニュースを見ていなかったことを悔やむ。
【それでは、具体的な悪霊殺人の例をご紹介します】
 未明の鵺はそういうと、数々の悪霊殺人の事例を紹介した。しかしその内容が頭に入ってこないほど、脳内は凛花のことで埋め尽くされている。
 凛花は今大丈夫だろうか。悪霊殺人に巻き込まれていないだろうか。都市伝説の真相よりも彼女の安否が心配だ。
「モナミちゃん、殺人の紹介はそんなに関係ないから飛ばしていいよ。十四分二十一秒からまとめに入る」
「え、でも」
「時間がないんだ」
 草心がやけに焦っている。私は言われるがまま動画を飛ばした。
【悪霊殺人のことを愉快犯や一種の集団ヒステリーと分析する専門家もいますが、本当にそうでしょうか?】
 先程よりも声がワントーン下がっている。未明の鵺は集団ヒステリーの矛盾を指摘し、真っ向から否定した。
【悪霊化はおそらく、本当に起こっています】
 BGMが、より不穏な音楽に変わった。
【これは独自のルートで仕入れた情報ですが、死んでから人の体に憑依してしまう人が実際にいるそうです】
 私のことだ。急に当事者意識が芽生え、鼓動が恐ろしいほど加速しはじめる。手汗のせいでスマホを落としそうになった。
【しかも一人につき四回、一定期間ごとに別の人に憑依するそうなんです】
「四回……」
 驚きのあまり思わず言葉が漏れ、慌てて唇を噛んだ。
 私も四人に憑依するのだろうか。もしそれが本当なら、凛花に会えなくなってしまう。考えただけで胸が詰まった。
【でも、生前の未練を晴らせないままタイムリミットを迎えると――】
 そこで突然草心がスマホを取り上げた。
「時間がないからこの辺で」
 彼の表情は能面のようで、声は暗い。先程までベッドの縁に座っていたのに、いつの間にか私の隣に座っている。
「信じてもらえないかもしれないけど、僕はこの都市伝説の当事者の一人なんだ」
「えっ……」
「僕はもう死んでいる。自分については、死んだことしか知らないんだけどね」
 青天の霹靂だ。まさか草心が私と同じ状況だなんて思いもしなかった。閾値を超えるほどの驚きに呑み込まれ、息すらまともに吸えない。
「実はこの体が四人目なんだ。僕は十六日ごとに憑依しているから、もう二か月以上誰かの体の中にいる」
 草心の言葉が耳を滑っていく。理解が追いつかず、頭が真っ白になった。
「それでね、僕は自分の未練についてなんとなく察している」
 私の反応など歯牙にもかけず、彼は淡々と語り続ける。
「たぶん、愛に飢えていた。愛することにも、愛されることにも」
 ルイナを殺した犯人の話が想起される。彼は童貞であることが未練だと語った。草心も犯人も、一体どうやって生前の未練に見当をつけているのだろう。
 少なくとも私にはわからない。生前の記憶がないなら不可能ではないか。
「モナミちゃんのことは『未明の鵺TV』で知ったんだ。二人目の体のときにこの悪霊殺人の動画を知って、その後彼の動画を全て視聴した。モナミちゃんに関する動画を見て、『抱けない風俗嬢』を突き通す芯の強さに惹かれてからずっと気になっていた。この体の前は女性だったからさすがに風俗には行けなかったけど、四人目で男性の体になったから会いに来たんだ」
 彼が過去を懐かしむように語った。
「モナミちゃんには一目惚れした。見た目はもちろんだけど、中身があまりにも素敵すぎて」
 一目惚れと聞いて心に翳が差しはじめる。草心は十六日ごとに憑依先が変わると言っていたから、彼が一目惚れしたモナミの中身は私じゃない。本物の鈴木萌桃だ。
 つまり、草心は私のことを好きなわけじゃなかった。中身が好きだと言ったくせに、私の正体にはまるで気付かなかったのだ。その事実が心を殴る。
「だけど、風俗店だといつまでたっても客とキャストの関係だ。だからデートをしてフラットな目線で確かめたかった。もし自分の気持ちも相手の気持ちも違っていたら、ちゃんと未練を晴らせずに悪霊化してしまうからね。だけど昨日確信したんだ。僕はモナミちゃんが好きで、モナミちゃんも同じ気持ちでいてくれるってことをね」
 彼は何もわかっていない。
「だから大丈夫。僕は絶対に悪霊化なんかしない。二十三時五十七分、僕がいつも憑依する時間にキスをして愛を誓ってほしい」
 だめだ。彼の未練が誰かと愛を誓うことだとしたら、それを晴らすことはできない。
 私はもう、彼のことが好きではないから。
 それに彼だって、私のことを好きではないのだ。
「愛してる」
 そう言った瞬間、彼の表情が豹変した。この世のものとは思えない、般若のような形相だ。全身から憤怒の感情が迸っている。
 何かを考える余裕すらなく、彼の両手が私の首を締めあげた。
 絶望的な状況の最中、ルイナを殺した犯人の言葉が想起された。
 ――前世の未練を晴らさないと、人を殺してしまうかもしれない。
 私は、殺される。
「ヴォォオオ」
 獣のような雄たけびが部屋中を埋め尽くす。
 抵抗すればするほど息が苦しくなり、もはや虫の呼吸さえできない。
「ヴォォオオ」
 彼は草心じゃない。
 悪霊だ。
「やめ、て……」
 部屋の電話が鳴った。恐らく猪熊店長からだ。
 でも、もう間に合わない。
「コロス」
 私はもう一度、死ぬ。
 凛花――

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?