「死、のち殺人」第2話
夕方に家に着き、シャワーも浴びずにベッドに雪崩れ込んだ。疲労感に溺れてすぐに意識を手放すと、次に目覚めたのは翌朝十時だった。確か今日は昼過ぎからバンドの打ち合わせ、十八時からバイトの遅番があるため、急いでシャワーを浴びて家を飛び出した。
電車に乗って一息つくと、脳内でメンバーの情報を整理した。まず、所属しているバンド名は『今日シ』。『人は今日死ぬかもしれないから今を精一杯生きたい』という思いが込められているらしいが、字面だけ見るとセンスのかけらもない。メンバーは三人で、ギター兼ボーカルは柳楽直希。リーダー兼ドラムは銀河。アイコンの中の彼は銀髪のロン毛をひっつめ髪にした風貌で、顔の余白が多く威圧感がある。一方、ベースのHAKUAのアイコンは演奏姿のためはっきりとした表情は見えないが、女性にモテそうな顔というのだけはわかる。二人ともそれ以上の情報はなく、グループチャットも今日の予定を記した銀河の投稿以前の履歴がなぜか消されている。
最寄りで電車を降りると、駅から三分ほど歩いて指定のファミレスに入った。若者の姿が目立つ中、一番奥の席だけどんよりとした異様な雰囲気が漂っている。あの銀髪は間違いなく銀河だろう。低めの声で「待たせてごめん」と声をかけたが無視された。
二人は四人掛けテーブルの斜向かいに座り、それぞれスマホの画面に視線を落としている。どこに座ってよいのかわからず、隣の二人掛けテーブルのソファ席に身を縮めて座った。間近で見る銀河はアイコンの印象と違ってこぢんまりとした風体で、HAKUAは長い前髪から切れ長の目が垣間見え、ミステリアスだが地味な印象だ。二人をまじまじと観察していると突然HAKUAに睨まれ、思わず視線を逸らした。
「あの……」
やはり声をかけても全く反応がない。仲が悪いのだろうか。
剣吞な雰囲気に耐えられず、すぐさまドリンクバーを注文して席を立った。カップをマシーンにセットしてボタンを押すと、指がわずかに震えていることに気付いた。
初日は怖いものなどなかったのに、段々と感情が乱れてきている。いくら他人の人生とはいえ、人間関係の渦に身を投じることは想像以上に精神に負荷のかかる行為なのかもしれない。それとも、生前の自分が人間関係に何らかのトラウマを抱えていたのだろうか。
「ユリアって男に媚び売りすぎじゃね?」
棒立ちしていると、背後の席から甲高い声が響いてきた。おそらく学生だろう。
「ほんとそれ。女子の前では口悪いくせに、男子の前では猫なで声使いまくりだよね」
「そそ。深夜番組のあざとい女子のテクニックまんま使ってたわ」
そうだ、あの年頃の子は残酷なんだ。唐突にそんな考えが頭に浮かんだ。
「なにそれうける」
彼女たちの声を聞くたびに、金縛りにあったような苦しさを覚える。なんだろう、この激しい嫌悪感は。
「死ねばいいのに」
心臓が嫌な音を立て、胸の奥が朽ちていく。
「お前なにやってんの?」
突然、手首の骨に鋭い痛みが走った。視線を落とすと、銀河の骨ばった手が私の手首をがっちりと掴んでいる。
「クスリか?」
我に返って手元を見ると、スティックシュガーの中身が周囲に無残に散らばっていた。指先が震えている。彼女たちの話を聞いて無意識に取り乱していたようだ。
「はやく戻れ」
銀河が乱暴に手を振りほどいた。私はコーヒーカップを運ぶ余裕もなく、手ぶらで彼の後ろに続いた。荒い呼吸を必死に整えていると、彼女たちの凍てつく視線に晒された。余程私が不審に見えているのだろう。
席に着くと、眉根を寄せている銀河が口を開いた。
「バンドは今日で解散だ」
彼の顔の余白に浮き出た血管が虫のように蠢いた。HAKUAは無言でフリック入力を続けているが、私の口から「なんで」という言葉が漏れた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「死ね」
どこから響いたのかわからなかった。混乱して視線を散らしていると、突然視界が揺れた。頭皮から首筋にかけて、得体の知れない生物に触られているような感覚に襲われる。実際にはそんなことはなく、HAKUAにコーラをぶちまけられていた。甘ったるい匂いと液体の冷たさに不快感を覚え、全身に悪寒が走った。
人から向けられる悪意に心身が劈かれる。臓腑が暴れ、肺腑が叫ぶ。
悪意は死よりも怖い。
「おま……やっぱクスリやってんだろ」
銀河は震える私を軽蔑の眼差しでねめつけると、両肘をテーブルにつけ、重石のような頭を抱えた。
「だから曲書けなくなっちまったのか」
彼は底なし沼に沈んでいくような声音で言った。空間を歪めてしまいそうなほどの重い空気が漂っている。近くにいた客は店員に耳打ちをして、窓際の席に移動した。
「才能をちんけな道楽で潰すんじゃねぇよ!」
銀河が声を張り上げる。
「……書けよ」
HAKUAはスマホを放り投げ、天井を仰いだ。切れ長の目の端に、安いビーズのような質感の透明な粒が付着している。HAKUAの悪意が涙へ昇華されたことを知ったら、漣のような悪寒が徐々に消えていった。
理不尽だと思っていた悪意にも理由がある。そのことに気付き、恐怖心が沈静化した。このバンドが解散の危機に瀕している原因が柳楽直希なのであれば、あの剣呑な雰囲気も理解できる。
「帰るわ」
銀河が立ち上がると、HAKUAもそれに続いた。伝票はテーブルに置かれたままだ。
結局何も言えないまま一人取り残された。呆然としていると、あっという間に一時間が過ぎていた。バイトの出勤時間は着々と近づいている。
もし今日で本当にバンドが解散になったら、いくら過去の柳楽直希の行いが原因だとはいえ、私の責任も大きい。自分のせいで他人の人生が壊れることは避けたいと思った。
ようやく腰を上げてドリンクバーへ向かうと、私が散らかしたスティックシュガーもコーヒーもなくなっていた。新たなコップを手に取り、コーラとメロンソーダとオレンジジュースを混ぜて席に戻る。映画館の飲み残しのような、甘ったるいドブの匂いがした。
そして闇鍋のような色の液体を一気飲みすと、LINEにメッセージを打った。
『クスリはやってない』
既読がすぐに二つ付いた。
『もう一度曲を書く』
それ以降、極度に精神が乱れることはなかった。バイトではコンセッション担当の日にも吉永とシフトが被ったおかげで事なきを得た。物事は慣れさえすればなんとかなるようで、時々西宮マネージャーに怒られながらも順調にバイトをこなした。
肝心の曲の方は、銀河から『出来たら送ってくれ。一週間なら待つ』というメッセージをもらってから本腰を入れ、バイト以外の時間をすべて作曲に費やした。メロディの作り方がわからなかったため、自分にもできそうな作詞に注力した。しかし、これが予想以上に難しい。生前の記憶がない私は、歌詞に使えそうなネタも、訴えたい想いもない。仕方なく、『今日シ』の動画サイトから柳楽直希が作曲した作品を古い順に全て聴いてみた。
『最愛の君へ』
何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌だった。ありきたりなタイトルに引けを取らず、歌詞も胸焼けするほどベタだ。好きだの愛してるだの、女遊び常習犯の彼の薄っぺらい戯言が詰め込まれている。
『君しかみえない』
歌詞をワードごとに分解して分析したら、『最愛の君へ』と七割も被っていた。ほぼ同じ曲と言っても差し支えない。驚くことに、他の曲も同じようにしか聴こえなかった。売れない所以が明白だ。
果たしてバンドメンバーは、柳楽直希のどこに才能を見出していたのだろうか。そんな疑念を抱きながらもようやく最後の一曲に到達した。他の再生回数が軒並み三桁なのに対し、最後の曲だけは一万回を超えている。投稿は一年前、映像はライブのものだ。アマチュアが撮ったのか手振れがひどい。
『リリー』
全く期待していなかったのに、この曲だけは明らかに異質だった。今までは凡庸で安っぽいメロディだったのに、この曲は人の心を揺さぶるような気迫の感じるメロディだ。全体的に暗い印象なのに、サビはキャッチーで一度聴いたら耳にこびりつく。歌詞にも独創性があり、心に響いた。
『空にまぶした命の雫は どんな色をしていたのだろう』
婉曲的な表現なのに、閉じたまぶたの裏に情景が思い浮かんだ。生前の記憶の片隅をつつかれたような気分になる。
『会わせてほしい あの日の君に』
切実な歌声に心が震えた。
『ねぇ リリー もう一度だけ』
柳楽直希の最後の叫びと、撮影者の鼻を啜る音が重なった。
約束の一週間後。柳楽直希に憑依してからは十日目。歌詞は完成したが、どうしてもメロディが作れない。試しにギターを弾いてみたけれど、Fコードでつまずいて話にならなかった。
歌詞だけ送ったらメンバーに幻滅されるだろうか。そう逡巡している間に日が落ちた。空はオレンジを絞ったような橙色。最近はこの時間帯でも蒸し風呂のように暑い。貯金が雀の涙ほどしかなくエアコンの使用をためらっていたが、焦燥感で体の奥が妙に熱くなり、耐え兼ねて冷房の電源を入れた。生乾きの雑巾のような匂いの風が押し寄せてくる。
中々涼しくならずに苛立ちを覚えていると、突然インターフォンが鳴った。特に警戒もせずに玄関扉を開くと、苦悶の表情を浮かべた吉永が立っていた。服装は映画館の制服のままで、目は真っ赤に充血している。
「吉永、どうし――」
「直希さぁぁぁん。聞いてくださいよぉぉ」
吉永はおもちゃを取られた幼児のような泣き声を上げながら、腰回りに抱きついてきた。突然の出来事に泡を食い、体のバランスが崩れる。臀部に激しい痛みが走って尻もちをついたことに気付いた。吉永はというと、私の胸に顔を埋めて号泣している。開きっぱなしの玄関扉のすき間から誰かにこの光景を見られることを恐れ、這うようにして吉永から逃げ出して扉を閉めた。
一体吉永に何があったのだろうか。こういう場合の対処法がわからず、とりあえず冷蔵庫に向かった。床と同化しそうなほど溶けている吉永を尻目に、まだ飲んでない低アルコールカクテルを二本取り出す。そのうちの一本を吉永の腕につけると、彼は「冷たっ!」と短く叫んで跳ね起きた。床は彼から排出された何らかの液体でぬらぬらと光っている。
「まずは落ち着いて」
部屋にあるローテーブルのそばに座ると、吉永が私の隣に腰を下ろした。彼の泣き声を右耳で受けながら缶のプルタブを開けると、フルーツの香りが鼻腔を掠めた。
「どうしたの?」
仄暗い缶の中身を眺めながら小さくつぶやくと、吉永は大仰に鼻を啜りながら答えた。
「由愛ちゃんにフラれました……」
「フラれたって……告ったの?」
驚いて視線を向けると、吉永が低アルコールカクテルを呷っていた。喉仏が生き物のように蠢く。彼は一缶飲み干すと、「ビールより苦い」と零しながらうなだれた。
「勢いで言っちゃったんすよ。好きって」
「な、なんの勢いで?」
「ポップコーンの機械が発火した勢いで」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。吉永は私を一瞥すると、大きなため息をつきながら低い天井を仰いだ。
「いきなり機械から火が出たから、由愛ちゃんを呼んだんですよ。他のスタッフが慌てる中で、由愛ちゃんは平気な顔で消火器をぶちまけて鎮火させてたんです。それもすごいんですけど、消火器って混乱してたら中々使いこなせないじゃないですか。万が一の火災のときに備えてやり方を覚えておくとか、そんな面倒なこと普通の人はしないっていうか。でも、由愛ちゃんは説明書も見ずにそういうのをきっちりできる人間なんだって知ったら、もう、僕の気持ちが発火しちゃって」
「だからって、緊急事態のときに告白しなくても」
「わかってます! わかってますよ……でも、直前まで生き生きと弾けていたポップコーンが黒焦げになって、異臭を放って、ゴミくずになったんです。本当は価値のあって、人を笑顔にもできるポップコーンが、一瞬でそうなったんですよ? しかもポップコーンに罪はないのに、おんぼろ機械のせいで。なんかその光景見ちゃったら、いつどうなるかわからないって急に怖くなって、つい由愛ちゃんに言っちゃったんです」
涙混じりのたどたどしい言葉に、なぜか少しだけ共感している自分がいた。たった一瞬の、それも外的要因で用済みになることは、たとえ死ぬことに対する恐怖がない自分でも怖さを感じる。
しかし、だからといってその告白はあまりにも唐突すぎる。どんなイケメンであろうと、緊急事態に告白したら玉砕するのは明白だ。普段は聡い吉永でもそんなことすらわからなくなってしまうのだから、恋愛は恐ろしい。
再びうなだれた吉永に向かって、私は尋ねた。
「彼女はなんて?」
「『それどころちゃうんはわかるやろ。わからんやつは論外や』って……あああああ」
吉永は奇声を発しながらローテーブルに頭を打ちつけた。その衝撃で、低アルコールカクテルの空き缶が落ち、床に転がった。乾いた音が鳴る。
慰めてあげたいけれど、気の利いた言葉が思い浮かばない。どうしてよいかわからず、冷蔵庫から追加で三本の低アルコールカクテルを取り出して卓上に置いた。吉永は三つのプルタブを連続で開けると、ものの数分ですべてを飲み干した。
吉永はしばらく机に突っ伏した状態でさめざめと泣いていた。しかし、突然むくりと起き上がり、私の目をまじまじと見つめた。涙の膜をまとった赤い目が、ルビーの原石のように見える。
「直希さん、歌ってください」
「えっ」
「今の傷だらけの心を癒せるのは歌だけっす。そうだ、あれ歌ってくださいよ。『リリー』」
「いや、それは……」
吉永の表情は真剣そのものだ。こんなとき、柳楽直希はどうするのだろう。売れもしないのに長年バンドを続けるくらい歌が好きなのだから、容易くリクエストに応じるのかもしれない。だとしたら、私が今ここであっさりと断るのは柳楽直希らしくない。
幸か不幸か、この一週間は作詞制作のために『リリー』を聴き込んでいた。さすがに歌ってはいないが、メロディと歌詞は覚えている。
傷心の吉永の頼みを断るにもいかず、腹を括って歌いはじめた。たった一週間しか聴いていない曲なのに、『本人の声だ』という芸能人に抱くような陳腐な感動が胸に押し寄せてくる。
吉永は目に涙を浮かべながら、静かに聴いていた。静謐な空間に響く柳楽直希の歌声はどこか神秘的な感じがして、自然と心が熱くなる。
『ねぇ リリー もう一度だけ』。最後のフレーズを歌い切った瞬間に、目と鼻の奥がつんとした。
「直希さん、最高っす。もはやプロっすね」
吉永の言葉はお世辞には聞こえなかった。照れくささを隠すように首を横に振ると、彼は突然立ち上がり、部屋の片隅に飾ってある真っ赤なギターを手に取って私に差し出した。
嫌な予感がする。
「ギターありバージョンも聴きたいです」
動揺が全身を駆け巡る。Fコードで挫折してから一度も弾いていないのに、できるはずがない。
「ここ、壁薄いから」
「苦情が来たら僕がなんとかします」
苦し紛れの言い訳もあえなく玉砕し、仕方なく嘘を上塗りすることにした。
「記憶喪失、まだ治ってなくて」
「え、でも歌は歌えるんすよね?」
「あ、や、運動機能のほうに問題が」
「飲み残しのバケツを軽々と持ち上げてたじゃないっすか」
吉永は妙に食い下がってくる。いよいよ言い訳のストックが切れてどぎまぎしていると、彼は何かを察したような表情をしてギターを引っ込めた。代わりに自分でギターを抱え、弾く体勢を整えている。
「吉永弾けるの?」
「前も弾いたじゃないっすか……あ、記憶ないんすよね。それもなんか寂しいな。僕の周りの人がどんどん離れていく感じがして」
吉永は悲哀を振り切るようにギターを奏でた。『リリー』のコードだ。テンポも強弱も力任せで柳楽直希の弾き方とは全然違うが、音が心にすっと入っていく感覚がある。
聴き入っていると、吉永が目配せをしてきた。歌えという指示なのはすぐにわかった。私は小さく息を吸い、先程よりも大きな声で歌った。気を許せる相手と一つの音楽を作り上げることは心地よい。快感が全身を駆け巡る。
曲が終わった後の余韻は、アルコールよりも心地よかった。吉永の表情も晴れている。
「最高っすね」
「そうだな」
「もっとやりたいっす。新しい曲ないっすか?」
吉永の瞳は爛々と輝いている。きっと、何かに熱中することで心の空洞を埋めたいのだろう。私がその手助けをできるなら嬉しい。
だけど、今の私は彼の期待に応えることはできない。
私は柳楽直希じゃないから。この心地よい時間も、全て私のものではないから。
急に心に靄がかかる。それが表情に出てしまったのか、吉永が口角をゆっくりと落とした。
「直希さんが一年新曲出してないのって、イップスだからっすか?」
慮外な言葉を受け、息が詰まる。
「最高傑作の『リリー』が出来て、燃え尽き症候群みたいになっちゃったのかなって、ずっと思ってました。あ、失礼だったらすんません」
「違……いや、その通り」
もしかしたら本当にそうなのかもしれないと思い、吉永に話を合わせることにした。
「それこそ、今日のポップコーンみたいに燃え尽きてた」
「ああ、由愛ちゃんんん……」
笑いを取ろうとして空回りした結果、せっかく晴れかけていた吉永の心に西宮マネージャーを召喚させてしまった。
現状を打破しようと咄嗟に口をついた言葉は、もっと余計だったのかもしれない。
「歌詞は書いたんだ」
言った途端に後悔した。吉永の興味の矛先が急カーブして再び私に向く。結果質問攻めにあい、歌詞を見せる羽目になった。
幻滅されたらどうしようという不安は、吉永の言葉に一瞬でかき消された。
「なんですかこれ! 最高っす!」
「ほんと?」
「マジっすよ。お世辞抜きに。『リリー』もいいけど、それ以上かもっす」
自分の創作物が手放しに褒められると、得も言われぬ高揚感が胸に押し寄せた。もしかしたらこういう瞬間を求めて、柳楽直希は音楽を続けていたのかもしれない。
「メロディは決まってるんすか? あ、イップスすもんね……すんません」
吉永はきまり悪そうに視線を背けた。人の傷に触れたことに罪悪感を抱いているのかもしれない。私はそんな彼に嘘をつき続けていることに、罪悪感を抱きはじめている。柳楽直希の体に憑依した初日はなんとも思っていなかったのに。
人と関わるたびに、私の感情は大きく揺れ動く。
「じゃあ、試しに僕がコード弾いてみてもいいっすか?」
「えっ、吉永って作曲できるの?」
「いや、初めてっすけど。弟がよく曲作ってるんで、なんとなく」
言い終わる前に、吉永はギターを弾きはじめた。最初は何の規則性も感じない和音が響くだけだったが、何度も弾き直すうちに曲っぽくなってきた。
「あ、これよさげっす。この順にコード弾くんで、適当にメロディ口ずさんでみてください」
「俺が?」
「何言ってんすか。直希さんの曲でしょ」
私の曲。それを自覚しただけで、急に気持ちが乗ってきた。何度も繰り返されるコード進行に鼻歌を合わせてみる。すると、あるメロディが浮かんできた。歌詞と音符の数も符合している。
ちらりと吉永を見ると目を輝かせていた
「じゃあ、次はBメロっすね」
こうして私たちは曲作りに没頭した。自分がどんな青春時代を過ごしたのかは覚えてないのに、懐かしい感情が蘇ってくる感覚があった。
途中で隣人が苦情を言いに来たが、吉永は宣言通り上手く対処してくれた。彼の行動力は西宮マネージャーに引けを取らないような気がする。
その後も音量に気を配りながら作り続け、ついに曲が完成した。気付けば二十三時四十分になっていた。約束の期限まであと二十分。気持ちを整える余裕もなく、すぐに曲を通しで録音した。終わった直後の吉永の喜色満面の笑みが目に焼きついている。
「いやー、最高っした。これでプロデビューしたらどうします?」
「バイト辞めて専念するかも」
「それは困りますよ。直希さんがいなくなったらバイトつまらないっす」
かわいげのある後輩だ。まだ出会って一週間だけれど、彼と過ごす時間は心地良い。
「ふぁ……なんか眠くなってきた。一瞬だけ、寝ていいっすか?」
「もちろん。ちゃんと一瞬で起こすわ」
「勘弁してくださいよ。ふぁ……」
吉永は大きなあくびを連発すると、カーペットの上に寝そべった。猫のように背中を丸め、ものの数分でいびきをかきはじめた。
私もしばらくはぼんやりしていたが、我に返るとLINEを開いた。履歴が数行しかないバンドのチャットに、出来立てほやほやの曲を送る。
一体どんな反応が返ってくるのだろうか。気もそぞろになりながらLINEを凝視する。しかし中々既読がつかない。恋人ができたばかりの高校生のようにそわそわし続ける自分に羞恥の念が湧いてきて、スマホを床に放り投げた。
しかしそれでも落ち着かず、気を紛らわせるためにテレビをつけた。端正な顔立ちの女子アナウンサーがこちらを見つめている。テレビで目線が合うのはアナウンサーだけだなと、取り留めもないことを思った。
【今日の午後五時二十分に、渋谷の道玄坂付近で女性が刺されました】
物騒なことをはきはきと喋るアナウンサーに薄気味悪さを感じる。
【女性は緊急搬送されましたが、先程都内の病院で死亡が確認されました】
犯罪者の身勝手な行動で理不尽に命が奪われることは、他人事とはいえ心苦しい。怒りにも似た感情が心底からぐつぐつと湧いてくる。
【死亡したのは広多留依奈さん――】
その一言を耳にした瞬間、心臓が歪な音を立てた。
ルイナ。つい先日に会った女性と同じ名前だ。まさかそんなはずはない。そう思いたいのに、テロップに表示された『(二十三)』と言う年齢を表す数字が焦りを助長する。
【現行犯逮捕されたのは無職の男で――】
そんなはずはないと、信じたい。
【二人はマッチングアプリを通じて知り合い、トラブルになったとのことです】
そんなはずは――
【男は『やったのは悪霊だ。自分ではない』などと供述しており、容疑を否認しています】
その言葉を最後に、意識がぷつりと途切れた。