「死、のち殺人」第12話

 私は西水谷中学校の社会科の教師で、地理部の顧問だった。
 休職明けの私は、人手不足を理由に担任を任され、地理部の顧問まで継続させられた。当時の私は家庭と仕事の両立に精一杯で、休職前のように熱心に生徒と向き合う余裕がなかった。
 そんなときに、地理部の遠原さり香から相談を受けた。
「紗来ちゃんが優乃ちゃんをいじめています」
 紗来とは札幌で出会ったあの女子高生の紗来。そして、優乃は私の腹違いの妹だ。優乃が中学に上がってから両親が再婚したから、同じ中学校にいた。
 顧問でありながらいじめの事実に気付けなかった私は、自分を激しく責めた。そしてすぐに紗来を呼び出して問い詰めた。身内という意識が働いていなかったといえば嘘になる。後々にその身内びいきが自らの首を絞めることになるとは思いもしなかった。
 それから紗来を注意深く監視していたが、優乃をいじめる気配はなかった。家で優乃にそのことを訊いても、「今はいじめられてない」と言うから安堵していた。
 だけど、優乃の表情が日に日に暗くなっていく時点で気付くべきだった。
 紗来は末永の言っていた通り、いじめのターゲットをさり香に切り替えていた。さり香が私に告げ口をした腹いせだろう。私はそのことに全く気付けなかった。
 ようやく気付けたのは屋上点検の当番になった日だ。職員室から鍵が消えていて、焦った私はすぐさま屋上に向かった。
 そこにいたのは全身泥だらけのさり香だった。ちょうど女子中学生の背丈ほどあるフェンスをよじ登っている最中だった。
「遠原さん!」
 私は無我夢中で彼女に近づき、フェンスをよじ登った。さり香は私の言動を歯牙にもかけず、フェンスを越えて屋上の縁に足をつけた。
「ねぇ、遠原さん! どうしたの!」
 必死だった。当時の私は、なぜ彼女が泥だらけなのか、なぜ死のうとしているのかわからなかった。だからその一言を聞いて、血の気が引いた。
「鈴木先生は、家族しか助けないんだね」
 私は自分の生活に精一杯で、優乃のときもさり香のときも紗来からのいじめに気付いてあげることができなかった。でもさり香は、私がいじめを知っていた上で優乃しか助けなかったと誤解していた。私のせいで、この世に絶望したのだという。
 必死に弁明を試みたけどだめだった。私は不安定な屋上の縁で、飛び降りようとするさり香に抱き着いて止めることしかできなかった。
 でも、止めることすらできなかった。
「助けてほしかった」
 さり香はそういうと、私の隙をついて宙へ身を投げた。
 だけど私は、さり香の手を離さなかった。
 無謀だとしても、優乃を守ってくれたさり香を助けたかった。
 さり香は目を見開いて、「ごめんなさい」とつぶやいた。
 そしてさり香と私は、死んだ。
 一年前のことだ。
 
 ***
 
「知らなかった……」
 末永は涙を流しながら茫然と立ち尽くした。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい」
「逆だと思ってました……」
 末永の言葉に耳を疑った。
「当時、警察は事故と処理しました。でも、生徒たちはそうは思わなかった。身内びいきで優乃だけを助けた鈴木先生が、その事実をさり香にばらされたくなくて口封じのために道連れにしたという噂までたっていたんです」
「そんな……」
 現実に殴られ、胸が激しく痛んだ。人は他人の不幸を好む。だからたとえ事実と異なっていても、警察が事故と断定した後でも、一番最悪なケースをまことしやかに吹聴する。
 まさか死後にそんなことになっているなんて、思いもしなかった。
「僕はさすがに、鈴木先生がさり香を道連れにしたとは思わなかった。鈴木先生には簡単に死ねない理由があったから。でも、さり香へのいじめは黙認したんだと思ってた。身内だけ助けることが許せなかった。だから鈴木先生のことも優乃ことも憎かった」
 末永は悔しそうに顔を歪めた。
「でも、鈴木先生が嘘を話しているようには思えません。救おうとしてくれてありがとうございます」
 彼は深々と頭を下げた。さり香は戻ってこないのに、私は救ってあげることができなかったのに、それでも私にお礼を言う末永の行動に胸が締めつけられる。
 私は彼とは対照的に、絶望の中から動き出せない。
「……きっと私の生前の未練は晴らせない」
「どうしてですか?」
「きっと遠原さんを救えなかったことが未練だと思うから。それはもう、どうすることもできない……」
 死んでしまった人は蘇らない。それに、もしもさり香が草心に憑依していたのだとしたら、もう二度と戻ってこない。
 私は生前の記憶を思い出したけど、未練を晴らすことはできない。
 絶望のあまりその場にくずおれると、はち切れそうな感情が涙となって頬を汚した。
 困惑する末永を気に掛ける余裕もなく、流星群が降った後の静謐な星空に向かって慟哭した。
 心の中で、さり香と私の家族に謝った。
 きっと私のせいで、家族は――
「……生前の未練って、一つだけなんですか?」
「えっ……」
 予想だにしなかった言葉が、弓矢のように胸に突き刺さる。
「きっと、鈴木先生の未練って、さりちゃんのことだけじゃないですよね」
「みれん……」
 覚えたての言葉のようにつぶやくと、心の中にある思いが溢れてきた。
 さり香を救えなかったことへの罪悪感に押しつぶされていた感情が一気に迸る。
「鈴木先生、まだ間に合います」
 末永が差し出した手を、もういくばくも残っていない力で握った。すると彼は力強く握り返し、私を引き上げてくれた。
 どんなに絶望的な状況でも、人に頼れば、もう一度立ち上がることができる。
「教えてください。鈴木先生の未練」
「私の未練は――」
 
 残り時間はあまりない。それでも私と末永は必死に階段を駆け下りた。
 空きっぱなしの図書室に戻ると、末永は急いでパソコンを立ち上げた。
 私はスマホで順に大切な人たちに連絡をした。すぐに既読になる保証はない。でも、最後まで奇跡に縋りたい。
「インストールできました。ULRを発行します」
 末永はWeb会議のアプリをインストールすると、URLを発行してくれた。学校の規則上では恐らく禁止されている行為だけど、彼は気にする素振りもみせない。手際よく作業をこなし、私のスマホにURLを転送してくれた。私は先程連絡を入れた人たちに、もう一度チャットやDMを送った。
 即座に反応してくれたのは、吉永だった。
『わかりました。すぐに転送します』
 次に、優乃の母親――つまり私のお母さんから返信が来た。
『状況は分からないけど、今からURLを押すわね』
 私は最初にWeb会議の画面に映し出された不安げなお母さんに向かって、今の状況をなるべく丁寧に説明した。お母さんはこの世の終わりのような表情でさめざめと泣いた。実子の身を案じる彼女の気持ちを思うと心苦しい。お母さんの表情に翳が差すほど、自分が優乃の人生を犠牲にして生きていることへの罪悪感に溺れてしまいそうになる。
 しかしそんな状況でもお母さんは、私が話し終えたとたんに目尻を下げて口元を緩めた。
「凛梨ちゃん……会えてうれしいわ」
 きっとお母さんにとっては、実子ではない私よりも死んでしまうかもしれない本当の娘のことのほうが心配だろう。血のつながりは理屈では表せないほど強い結びつきだから、愛情が不平等になるのは当然のことだ。それなのにお母さんは、実子ではない私の気持ちを慮り、あたたかい言葉をかけていくれる。無償の愛を注いでくれる。
 私はそんなやさしいお母さんが、大好きだ。
「凛梨……本当に、凛梨なのか?」
 次にWeb会議の画面に現れたのは鈴木次郎――未明の鵺であり、私の実のお父さんだ。面と向かって顔を突き合わせるのは二年ぶりかもしれない。
「うん……」
 お父さんの質問に私はぎこちなく頷いた。画面越しでも彼の目に涙の膜が張っているのがわかる。
 お父さんには未明の鵺のSNSアカウントへDMを送った。他の人のコメントに埋もれてしまいそうで不安だったけど、急いで作ったアカウントの表示名を『鈴木凛梨』にしたためか、すぐに気付いてくれたようだ。
「凛梨……凛梨なのか……そうか……」
 狼狽しているお父さんに、私は探るように尋ねた。
「二人が離婚したのって、私のせい、だよね……」
 きっと離婚の原因は、私がさり香を道連れにしたという噂が原因だろう。せっかく再婚した二人の仲を引き裂いてしまったことを思うと、悔恨の念に苛まれる。
 しかし、お母さんはハンカチで口を抑えながら首を横に振った。泣いて話せない彼女の代わりに、お父さんが口を開いた。
「……凛梨のせいじゃない。優乃のためだ」
 普段は高めの声が、低く物々しく響く。
「離婚は優乃の高校進学を機に苗字を変えるためだけにした。それに、根も葉もない噂を流したのは心無い人たちだ。凛梨は何も悪くない」
 両親は、優乃が噂の当事者であることを高校で悟られないように離婚したのだろう。しかし、いくら形式上とはいえ、苦渋の決断であったことは間違いない。優乃自身も、自分のせいで両親が離婚したと考えていたら余計に思い詰めてしまったのではないだろうか。当時の両親の腐心と優乃の精神状況を考えると、胸が張り裂けそうになる。
「いじめに気付けなかったのは親である俺たちの責任だ。凛梨のせいじゃない。家族が大変なときに札幌転勤になってすまなかった。それに、あのことも……」
 お父さんが言葉に詰まった。『あのこと』というのは、私とお父さんの間にある蟠りのことだろう。
 そしてそれこそが、私の未練の原因でもある。
「とにかく、凛梨のことも優乃のことも助けてやれなくて、本当にすまなかった」
「ごめんね、凛梨ちゃん……」
 両親が悪いわけではない。でも、このまま互いに謝り続けることは誰のためにもならない。私はなんて返答すればよいのかわからなくなった。
 沈黙は残り時間を無残にもすり減らしていく。もう悪霊化まで三十分もない。だけど先程連絡した彼らがここに来る様子もない。このままでは何も解決しないまま、未練を晴らせずに大切な人を殺してしまう。
 絶望的な状況の中、末永が口を開いた。
「おじさんはあの未明の鵺だって、さっき鈴木先生から聞きました。あの……お仕事、変えたんですか?」
「……君は?」
「遠原さり香の恋人です」
「それは……すまなかった」
「鈴木先生のことは恨んでいませんよ」
 末永は私の代わりに、私の死の直前の記憶を語った。両親が複雑な表情を浮かべている。噂が嘘であることへの安堵と私の死への悲哀が綯い交ぜになっているのだろうか。
 両親はしばらく言葉を失っていたが、末永への警戒心が解かれたのか、お父さんが口を開いた。
「会社は依願退職した」
「どうしてですか?」
「その……情けないが、凛梨が亡くなったら仕事に身が入らなくなって大きなミスをした。仕事を辞めた後はしばらく抜け殻状態だった」
 かつては内外ともに峻厳な態度を取っていた父には考えられないことだ。私の死が彼を絶望に追いやってしまったことを改めて痛感し、胸が抉られるように痛んだ。
「一時期は凛梨を思い出すことも辛くて、札幌市内で引っ越しをしたときに私物をすべて処分してしまった。遺品を保持できなくてすまない」
 お父さんの仕事部屋以外の部屋が極端にシンプルだった理由が判明した。彼が繊細な心の持ち主であることを、当時の私は知らなかった。今更になって家族の意外な一面を知った。
「次郎さん……そうなんですか……」
 お母さんは瞠目している。仕事を退職したことは初耳だったのかもしれない。お父さんはきまり悪そうに「すまなかった」というと、一拍置いて再び説明を始めた。
「だが、憑依の話が耳に入ってきたとき、もしかしたら凛梨も蘇るんじゃないかと思った。いい年して馬鹿げているかもしれないが、あのときの自分は本気だった。情報を収集するために最善の方法を考え、インフルエンサーになる道を選んだ。マーケティング部にいたときの知識が生きた。知名度向上のために、動画制作と人脈構築を必死に行ったよ」
 未明の鵺が動画投稿を始めた時期が悪霊殺人の事例が出始めた頃と重なるのは知っていたけど、まさか私のためだったなんて思いもしなかった。
 きっと未練晴らしの成功者であるロクとの交流も、お父さんの努力の末に果たせたことなのだろう。
「でも、まさか本当に凛梨が……戻ってきてくれるなんて……」
 お父さんが訥々と言葉を紡いでいると、背後の引き戸が勢いよく開いた。
「凛梨! 凛梨!」
 鼓膜を劈くほどの声量で私を呼んだのは、柳楽直希――私の元恋人だ。何年ぶりの再会だろう。ずっと会いたかった人物の登場に、感情が爆ぜた。
「直希……!」
 私は両親の目も憚らず、直希に駆け寄った。彼は勢いよく私を抱きしめた。懐かしい直希の匂いが鼻腔を満たす。
「会いたかった。会いたかったんだ……もう一度、凛梨に」
 まるで歌うように直希がつぶやく。
「私も、会いたかった……ずっと、ずっと」
 感情に身を任せ、私も本音を吐き出した。彼の体温が体の芯まで届く。苦しいくらいに全身で直希を感じている。
 私の耳元で、直希が泣きながら言った。
「吉永から聞いた。凛梨が俺の体に憑依していたなんて信じられない」
「女の子と遊んでたね」
 いじるように言うと、彼は慌てて取り繕った。
「違うんだ……凛梨が死んで、辛くて、寂しくて、自暴自棄になって、どう生きたらいいのかわからなくなって……」
 焦る直希も愛おしい。嫉妬心がないといえば嘘になるけれど、とっくの昔に別れた私にまだ会いたいと思ってくれていることが嬉しかった。
 直希の家に大量にあった低アルコールカクテルとチョコレートがそれを裏付けている。あれは女子受けのためじゃない。私の好物だ。お父さんが厳しくてあまり家では食べられなかったものを、付き合っている当時に直希が大量にストックしてくれていた。
 それを今でも続けてくれているだけで、気持ちは十分に伝わる。
「凛梨と吉永が作った曲、ずっと聴いてたんだ。最高だった」
 直希は焦りながら話題を変えたけど、その言葉に偽りがないことはわかる。彼はマッチングアプリのプロフィールではホラ吹きだったけど、本当の気持ちに嘘をついたことはない。
「『何の変哲もない、どこにでもあるような愛の歌』って言ったくせに」
「だから最高なんじゃないか……その、俺の歌、みたいで」
「自覚してたんだ」
「そ、それもひどくね?」
 少しだけ体を離して顔を見合わせる。際立った特徴がなく、人から「どこかで見たことがある」や「友達に似ている」と言われがちなタイプの顔は、私にとっては唯一無二で特別だ。
 二人の間に昔の空気感が漂う。泣きながら笑い合うと、得も言われぬ幸福感で満たされた。
「というか、俺の発言を知ってるってことは……ライブに来てくれたのか?」
「うん。復活ライブ、聴いたよ」
「本当か? じゃあ、『リリー』も――」
「私のために、作ってくれたんだよね」
 ――空にまぶした命の雫は どんな色をしていたのだろう
 今ならわかる。あの歌詞は、屋上から落ちた私のことを歌っていたのだろう。
 ――会わせてほしい あの日の君に
 別れてしばらくたっていたのに、ずっとそう思ってくれたことが嬉しい。
 ――ねぇ リリー もう一度だけ
「もう一度、会えたね」
「凛梨……凛梨……」
 私と直希は長年離れていた時間を埋めるように気持ちを確かめ合った。この場にいる誰の目も気にならなかった。
「お前たち……」
 お父さんが言葉を零した。私の体はぴくりと反応し、ゆっくりと直希から離れた。そして彼の手を取り、画面の前に立った。
 直希とはずっと前に別れていた。婚約までした仲だったが、結婚の挨拶のときのお父さんの猛然とした反対により、無理やり婚約破棄させられた。どこの馬の骨かもわからないバンドマンなど言語道断だ、と。
 もしかしたら、あのときに駆け落ちすればよかったのかもしれない。だけど当時の鈴木家ではお父さんの判断は絶対で、覆せないものだった。実の妹は度々反発していたが、職業までお父さんの判断で決めた私にとっては反発など考えられなかった。今思えば毒親だったと思うけど、幼少期から潜在意識に刷り込まれてきたお父さんの威厳には逆らうことができず、泣く泣く直希と別れることを選択した。
 でも、直希と別れることは想像を絶するほどに辛く、生き地獄だった。だから未練に引っ張られて苦しまないように、金輪際直希と会わないことにした。直希とは本当にそれきりになった。
 それを機に、私とお父さんの仲は険悪になった。同じ家に住んでいるのに、顔を合わせないように避けていた。札幌転勤の話を聞いたときはほっとしたくらいだ。姉妹の中では優乃だけがお父さんに気を遣っていたけど、実の妹は私の婚約破棄の一件に猛反発して、大学生ながら家を出た。彼女はお父さんへの嫌悪感のせいで再婚相手であるお母さんともろくに話そうとしなかったから、実家にいることに耐え兼ねたのかもしれない。
 当時の鈴木家にはそういうしがらみがあった。
 だけど今の自分なら、決して同じ選択はしない。
 私にとって直希は、かけがえのない大切な人だから。
「お父さん、お母さん」
 画面の奥の家族に、私は長年の未練を打ち明ける。
「私は直希と結婚できないことが、ずっと心残りだった」
「俺も……僕も同じです」
 お母さんは涙を流し、お父さんは険しい表情をしている。
「あのときはお父さんに逆らえないと思ってた。でも、今は自分の気持ちに正直でありたい」
 心臓が早鐘を打つ。実の妹と違い、お父さんに反発するのは初めてのことだ。
 だけど直希が隣で手を握ってくれているから、大丈夫。
「お父さん、お母さん。私は直希と家族になりたい。だから――」
「僕に凛梨さんをください」
 直希は急に床に膝をつき、土下座をした。虚を突かれたのか、お父さんがあんぐりと口を開けている。私も信じられない気持ちだけど、直希の真剣な姿を瞳に映したら嬉しさが心の底から湧き上がってきた。
 お母さんは涙で顔を濡らしながら、「もちろんよ」とはにかんだ。お父さんはしばらく唇を噛んでいたが、やがて硬い表情を崩した。
「あのとき反対してすまなかった。そこまで本気だとは思っていなかった」
「お父さん、じゃあ――」
 直希が顔を上げた。思わず息を呑む。
「娘をよろしく頼む」
 お父さんの言葉を聞いた瞬間、万感の思いがこみ上げてきた。直希と婚約破棄してしまった後悔、お父さんとの蟠り、家族がバラバラになったことへの悲哀。そのすべてが輪郭を失って霧散し、代わりに幸福がくっきりと心に描かれた。澄んだ空のように晴れ晴れとした気持ちになった。
「ありがとうございます……!」
 直希は立ち上がると、先程よりもうんと強い力で私を抱きしめた。お母さんだけでなく、末永が鼻を啜る音まで聞こえてくる。
「鈴木先生は、生前の未練を晴らせたんですね」
 末永がそういうと、直希が「よかった!」と快哉の叫びを上げた。
 しかし、私の心にはまだ未練の棘が突き刺さっている。歓喜に満ちた雰囲気の中でそれを言い出せずにいると、お父さんが訝しそうにつぶやいた。
「おかしい……」
「どうしたんですか?」
「いや……未練晴らしに成功した人は、晴らした瞬間に新しい人生を手に入れると聞いていたんだ。だけど、凛梨には何も起こらない」
「えっ、凛梨……俺との婚約破棄が未練じゃないってこと?」
 直希が動揺の声を上げた。
「ううん、そうじゃないの。でも――」
 私にはまだ、直希に言ってないことがある。
「鈴木先生、あと九分です。大丈夫でしょうか……」
 末永の心配そうな声を聞いてすぐにスマホを確認した。
『いま行く』。彼女とのチャットにはその四文字が表示されている。送られてきた時間と距離からして、もうここに着いていてもいい頃だ。だけどまだ来る気配はない。何かあったのだろうか。
 不安に苛まれながらも必死に思考を巡らせていると、ある可能性が頭をよぎった。
「直希、学校にはどうやって入ってきたの?」
「えっ……」
 直希はまだ状況を呑み込めていない様子で、呆然としている。
「裏門……えっと……」
「鈴木先生、森矢台高校は部活をする生徒のために、夜でも内側から裏門が開くようになっています。もし夜の九時以降に生徒が学校を出たら鍵が開くので外からも入れますけど、今日は多分僕たちが最後なので鍵は閉まったままだと思います」
 言葉をうまく発せない直希の代わりに、末永がすかさず説明してくれた。
「ありがとう。直希は門を跨いだの?」
 直希は口をあんぐりと開けたまま頷いた。
「高さは?」
「胸……くらい」
 原因はそれだ。その高さでは、ここまでたどり着けない。
「私、裏門まで行ってくる」
「えっ、どうして――」
 私は質問に答える間もなく、図書室を飛び出した。
「直希も来て!」
 叫んだときにはもう、直希は並走していた。口下手でもすぐに行動に移してくれるところが頼もしい。
 私たちは息を乱しながら全速力で裏門に向かった。間に合うようにと、心の中で繰り返し願った。
 湿っぽい空気を切り裂いて末永に殺されかけた裏庭を抜けると、黒々しい裏門が現れた。
 その向こうに、実の妹――萌桃がいた。首には包帯が巻かれている。
「萌桃!」
 私はありったけの声量で叫んだ。
「お姉ちゃん! ごめん、入れなくて」
「今開ける!」
 錆びついた鉄の棒を横に引くと、門扉が耳障りな音を立てながら開いた。
 目の前にはいる萌桃は、ちゃんと生きている。殺されなくてよかった。それに――
「ママぁ?」
 萌桃の腕の中には、寝ぼけ眼の凛花がいる。
 再会した瞬間、ずっと堪えていた感情が決壊した。溢れる涙のせいで凛花の輪郭がぼやけてしまうのがもどかしい。
 私は必死に目を擦り、萌桃の腕の中にいる凛花を抱き上げた。ひだまりのような香りが鼻腔を満たす。凛花の体温が全身に伝播する。
 どうしようもなく愛おしい――私の子ども。
「ママ、ママ!」
 すっかり目を覚ました凛花は、私の胸に顔を埋めて甘えだした。
 萌桃は小さくため息をついた。
「あれだけ大事に育てても、私のことは一回もママって呼んでくれなかったのにな」
「え?」
 耳を疑う言葉だった。私が萌桃に憑依しているときは、凛花は確かに私を「ママ」と呼んでいたのに。ということは――
「私のことは『もんちゃん』だもん。頑固親父から守るために意地でも引き取ったけど、本物のママにはかなわなかった。嬉しいけどね」
「ママ! もんちゃん!」
 凛花は――私が萌桃に憑依したときから私が母親だということをわかっていたんだ。
 見た目は萌桃なのに、私の魂を感じ取って、私の記憶が蘇る前から気付いてくれたんだ。
 凛花だけは私を私だと、最初から認識してくれていた。
 私は誰にも知られることのない、孤独な存在なんかじゃなかった。
「凛花……ごめんね……」
 離れ離れだった時間を埋めるように、私は凛花を思い切り抱きしめた。笑顔の凛花に頬ずりして、さらさらな髪をやさしく撫で、愛で包みこんだ。
「凛花、大好きだよ」
「ママだいすき!」
「……凛梨、子どもいたのか……」
 振り向くと、直希が呆然と立ち尽くしている。説明不足のままだったことを思い出し、慌てて言葉を紡いだ。
「凛花は、私と直希の子だよ」
「えっ……ええええ?」
「黙っていてごめんなさい」
 あのときの私は婚約破棄の未練に押しつぶされて、直希と会うことができる精神状態ではなかった。
 だけど今は激しく後悔している。たとえどんな状況でも、直希が凛花に会う機会を強制的に奪っていいはずがなかった。
 これが私の、最大の未練だ。
「……凛花、パパだよ」
 泣きながら凛花に呼びかけた。
「パパ? パパ!」
 凛花は私の腕の中で、必死に直希に手を伸ばしている。直希は信じられないというような顔で凛花に近づいた。
 二人の手が触れた瞬間、直希は嗚咽を漏らした。
「俺と、凛梨の子……凛花……」
「ま、間に合った!」
 突然、末永が息を切らしながらこちらに駆け寄ってきた。
「鈴木先生の両親……スマホに接続して……はぁはぁ……」
 末永は私たちにスマホを差し出した。小さな画面の中に、お父さんとお母さんが映し出されている。
「じいじ! ばあば!」
 凛花が腕の中で興奮している。
「みんないっちょだね」
 その言葉で、凛花の描いたお花の絵を思い出した。
 ――あかいのがね、ママ。
 ああ、そうか。
 ――あおいのがね、パパ。みどりがね、じいじ。おれんじがね、ばあば。ピンクがね、もんちゃん。きいろがね、ゆーちゃん。
 凛花はずっと、家族みんなで一緒にいたかったんだ。
 そして私は、凛花の未練を晴らしてあげたかったんだ。
 それ自体も未練だったんだ。
「鈴木先生、あと十秒です!」
 末永の声が遠くに聞こえる。
「私――」 
 自然と言葉が零れた。凛花の笑顔が涙で揺れる。
「家族みんなで、一緒にいたい」
 最後に私は、凛花を強く抱きしめた。
 
 
エピローグ
 
 私が自分自身のことで知っていることといえば、死んだことだけだ。
 名前も年齢も性別も性格も仕事も家族も好きな食べ物も嫌いな人も、何一つ覚えていない。ただ、私はすでに死んでいて、自分の魂が別の誰かの体に憑依している。それだけはなぜかはっきりと認識することができる。
 起き抜けにスマホを確認した。『憑依 死んだ後 記憶喪失』で検索すると、悪霊殺人という都市伝説が大量にヒットした。その中で検索順位が一番高い未明の鵺という人の動画を開いた。
 再生回数は八百万回。視聴してみると、悪霊殺人の恐ろしさを知った。
 どうやら私は、生前の未練を晴らさないと大切な人を殺してしまうらしい。
 他人に憑依して新たな人生を送れることをボーナスステージくらいに思っていたのが浅はかだった。心は不安に蝕まれ、気が気ではなくなる。焦燥感に駆られて未明の鵺の動画を漁っていると、つい二時間前に投稿された悪霊殺人の動画が目に飛び込んできた。
『悪霊殺人を防ぐには』
 拍子抜けするほどシンプルなタイトルだ。他の動画とは違って安っぽいサムネイルではなく、綺麗な女性が一人で映っている。私は藁にも縋る思いで動画を再生した。
【こんにちは。鈴木凛梨です】
 こういう動画にしては珍しく、彼女は本名を名乗った。
【私は一度死んで、別の人に憑依をしていました】
 彼女はそう切り出すと、先程の動画と同じように悪霊殺人の概要を話しはじめた。芯のある透き通った声なのに、焦燥感のせいで内容が耳に入ってこない。心臓はけたたましいくらいに高鳴っている。
【……によって、私は絶望に呑まれていました。だけど周囲の人たちのおかげで、生前の未練を晴らすことができました。今は全く新しい人間に転生して、新しい名前を持って生きています。だけど、たとえ新しい人生を得ても、私はやっぱり鈴木凛梨です】
 彼女の話を理解するのには時間がかかったけれど、どうやら生前の未練を晴らせば別人として生きていくことができるらしい。
 絶望感を抱いていた矢先に希望の光を与えてくれた彼女の話を、食い入るように傾聴した。
 彼女の話によると、生前の名前を誰かに呼んでもらうと記憶が蘇るらしい。シンプルな方法だが、七十億人以上いる人間の中で生前の知人に名前を呼んでもらえる確率は極めて低いだろう。再び絶望感を覚えた。
【きっと今、世界では多くの人が憑依や悪霊殺人に対して不安を抱いているでしょう。私はそんな人たちを一人でも多く救いたい。悪霊殺人をなくしたいんです。だから今、こうして顔を出しをして真実をお話ししています】
 彼女の真剣なまなざしが瞳に刺さり、鼓動が忙しなくなった。
【憑依者の皆さんは、生前の自分の名前を呼んでくれる人など現れないと思って絶望しているかもしれません。だから私は、そんな皆さんの不安を取り除くために一番大切なことをお話しします】
 彼女は一拍置くと、凛とした声で話した。
【あなたが今憑依している人物は、生前のあなたが大切にしていた人です】
 思わず自分の体をまじまじと見つめた。骨ばった腕が瞳に映る。
【そして私は今、その大切な人たちと一緒に新たな人生を送っています】
 動画を見終えると、私は洗面所に直行した。
 短髪で童顔の高校生くらいの男子。やわっこい目が温和な雰囲気を醸している。この人が誰なのかはわからないけど、少なくとも私は二つのことを知っている。
 一つは、死んだこと。
 そしてもう一つは、この人が自分の大切な人だということ。
「また会えたんだ」
 私の大切な人が鏡の中で笑った。
 大丈夫、私はきっと、未練を晴らせる。
                       (了)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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