「死、のち殺人」第6話

 あえぐように息を吸った。呼吸は荒く、拍動は乱れ、全身が小刻みに震えている。
 カッと目を見開くと、シーリングライトの眩しい光に瞳を犯された。カバーの中には虫の死骸が星のように点在している。
「助けて!」
 咄嗟に叫んで気付いた。声が男性だ。
 飛び起きると見知らぬ部屋だった。白い正方形の部屋の真ん中に、シングルベッドが一つ。あとは何もない。悪霊化した草心はおらず、静寂に包まれている。
 三人目に憑依したのだ。それに気付いた途端、全身の力が霧散して腑抜けた状態になり、安堵のため息が漏れた。しかし、暗澹たる気持ちは晴れない。脳裏には疑問が渦巻いている。
 鈴木萌桃の体はどうなった? 凛花はこれからどうなる?
 自分が何者になったのかよりも、そのことが気がかりでならない。枕元に置いてあるスマホを見ると『午前〇時三分』と表示されている。草心は毎回二十三時五十七分に憑依先が変わると言っていたから、彼に殺されかけてから十分もたっていない。このわずかな時間に生死をさまよっていたことが信じがたい。だけど今は、それを考えている場合ではない。
 まずは情報だ。鈴木萌桃の情報を集めなければいけない。早速スマホのロックを指紋認証で解除したが、視界がかすんで小さい文字がよく読めない。視力が悪いのだろうか。試しに画面を極限まで顔に近づけてみたけれど、見えなかった。しかし、ダメもとで画面を離してみると読むことができた。どうやら老眼らしい。
 早速リアルタイム検索で風俗店の店名を検索する。だが、卑猥な感想や下劣なレビューしかヒットしない。『モナミ』や『菊市草心』で検索してもダメだった。
 冷静に考えれば、事件が起こった直後に情報が出回る可能性は低い。通り魔なら目撃者もいるだろうけど、個室の事件なら露見しにくいし、事件の関係者がわざわざスマホでつぶやいたりなんかしないだろう。
 それならば、現場に赴くのはどうだろうか。猪熊店長や西宮マネージャーに私の状況を説明して、凛花を一時的に保護することはできないだろうか。
 いや、今は男性だから怪しまれるに決まっている。下手したら警察に連行されかねない。
 新たな人に憑依すると、以前の人生とは完全に分断されてしまうことを思い知った。友人や近親者でもない限り、関わりを持つことすらままならない。
 つまり、凛花とはもう会えない。
 絶望の底に叩き落とされた心境になった。同時に凄まじい自己嫌悪を覚えている。そもそも私があの時間に草心と会っていなければ、鈴木萌桃が危険にさらされることはなかった。凛花が不幸になることもなかった。
 人の人生を壊したのは、私だ。
「ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声が静寂に溶ける。藍色のシーツに涙が落ち、黒い染みになった。生前の未練を晴らすよりも先に彼女たちを救いたい。彼女たちに懺悔したい。彼女たちのために償いたい。
 でも今の私は、鈴木萌桃と凛花の無事を祈ることしかできない。
「ごめん、なさい……」
 不甲斐ない声をかき消すように、LINE電話が鳴った。表記名は『ロク』で、アイコンは非設定。それが誰なのかも、そもそも自分が誰なのかもわからない状況で出るべきではない。頭ではわかっているのに、『ロク』が鈴木萌桃の知り合いである可能性を捨てきれず、咄嗟に電話に出てしまった。極限の状況に陥ると、一縷の望みにも縋りたくなってしまう。
「もし、もし」
 なんとか声を張ってみたものの、短い言葉すら噛んでしまった。スマホを持つ手は依然として震えている。
「こんばんは、ロクです」
 響いてきたのは男性の声。柳楽直希と同年代だろうか。高くも低くもない、特徴のない声音だ。
「PC不調ですか?」
「え?」
「もしかして忘れてます? 今日のWeb会議」
 会議と聞いて、真っ先に仕事の可能性が思い浮かんだ。しかし、こんな真夜中に仕事の会議をするとは考え難い。
 二の句を継げられずにいると、小さなため息が聞こえた。
「今日はLINE電話で良いです。特にお見せするものもないですし」
「す、すみません」
「委縮しなくていいですよ。怒ってはいませんから。じゃあ、早速情報共有からお願いします」
 感情の読み取れない声が鼓膜を素通りしていく。極度の混乱状態で頭が真っ白だ。
 電話越しの沈黙ほど不安を煽るものもない。
「今日の鵺さん、変ですね」
 鵺。その一言が妙に引っ掛かった。
「何かあったことはお察しします。じゃあ、僕から共有しますね」
 ロクは私の反応を待たずに淡々と言葉を紡いでいく。
「この一週間は特に何もありませんでした。代り映えのない生活でしたね。新規でポゼッションした人も殺された人も身近にはいません」
 聞きなじみのない単語が耳に残る。意味はわからない。
「まぁ、中々遭遇できるものではないですし。あ、そういえば昨日の鵺さんの動画は面白かったですよ。さすが、有名動画クリエイターですね」
 適当な相槌を打ちながら考えを巡らし、ある推測をした。
 鵺、動画、有名、クリエイター。この単語に該当するのは未明の鵺ではないだろうか。『殺された人』という言葉は悪霊殺人の件を指している可能性が高い。
 まさか都市伝説の当事者である自分が、都市伝説を世に発信している動画クリエイターに憑依するなんて思いもしなかった。とんだ皮肉に、動揺がおさまらない。
 それにしてもロクという人物は一体何者なのだろう。近況を報告するということは、この人も憑依者なのだろうか。
「あと、僕の正体に気付く人もいませんでしたよ。まぁ、いたら困りますけどね。せっかく手に入れたシックスライフですから。穏やかに過ごしたい」
 この単語も聞きなれないが、シックスセンスが第六感だから、単純に考えれば『第六の人生』という意味ではないだろうか。
 でも、なぜ第六なのだろう。『手に入れた』という言葉も引っかかる。
「あの、鵺さん」
「は、はい」
「息してます?」
 彼の発言に狼狽え、聞こえよがしに深呼吸した。すると、電話越しに失笑が聞こえてきた。
「そういう意味じゃないんですけど。まぁ、生きていてよかったです。恐らく動画編集で寝不足なんですよね? 鵺さんからの情報共有は明日の同じ時間にリスケで。では、おやすみなさい」
 彼は一方的に言い捨てると、こちらの言葉を待たずに電話を切った。
 電話を終えてしばらく放心状態でいたが、自分の置かれている現状を理解すると、じわじわと不安が押し寄せてきた。
 もしこの体が本当に未明の鵺なのだとしたら、私はこれから動画を投稿したり、ロクに悪霊殺人の情報を共有したりしなければならない。果たして、何も知らない自分にそんなことが可能なのだろうか。
 焦燥感にかき立てられて起き上がり、部屋の扉を開けた。廊下にはさらに四つの扉がある。一つ目の扉を開けると、何の変哲もないトイレがあった。二つ目の扉はリビングダイニングにつながっていた。十畳以上ある広々とした空間なのに、生活雑貨がなにもない。冷蔵庫の中も、コンビニの袋がそのまま入れてあるだけで飲み物すらない。シンプルすぎて逆に違和感を覚えた。
 そして三つ目の扉を開けると、六畳ほどの空間が現れた。藍色のカーテンで閉め切られているせいで電気をつけても仄暗い。床には資料の山が直置きされ、つま先立ちしないと紙を踏んでしまいそうになる。本棚にはびっしりと本が収納されているが、単行本と文庫本が不規則に並べられ、所々から紙の束がはみ出している。何もない他の部屋と比べ、ここだけは異様に物が多くて汚い。
 デスクにはパソコンや撮影用機材が乱雑に置かれていてる。そしてキーボードの上の不気味な白い仮面を見て、未明の鵺のものだと確信した。
 だとしたら、この部屋には都市伝説にかかわる情報が集約されているはずだ。一刻も早く情報を収集するため、彼の個人情報を探るのは後回しにしてすぐさまパソコンを立ち上げた。起動を待っている間に机の上の資料を漁っていると、IDとパスワードが記載されたポストイットを見つけた。あまりにも原始的な記録方法を見て、もしかしたら若者ではないのかもしれないと思った。
 パソコンが起動した瞬間に、すぐにネットを開いた。早速動画の管理画面を開いてポストイットに記載されているIDとパスワードを入力すると、すんなりログインすることができた。管理画面には未公開の動画が七本もストックされている。これなら私がこの体に憑依している間に新規の動画を撮影する必要はなさそうだ。
 しかしそこまで考えて、自分の残りの人生の期限を思い知った。未明の鵺の言葉を信じるとすれば、あと二回しか憑依することができない。さらに私は十日間ごとに憑依しているから、残された時間はあと二十日。それまでに生前の未練を晴らさなければ、私は人を殺してしまうかもしれない。
 タイムリミット、人を殺す可能性、鈴木萌桃と凛花の安否、ロクとの約束。悩みの種は尽きず、心が破裂しそうなほど追い込まれている。しかし、時間を無駄にするわけにはいかない。今私にできることは情報収集だけだ。
 淀んだ気分を抑え込み、パソコンに向きなおる。ブルーライトの眩しさに目を眇めながら動画の管理画面をスクロールしていくと、あることを思い出した。
 私は悪霊殺人の動画の最後を見ていない。草心にスマホを取り上げられたからだ。そして取り上げるということは、あのときの彼にとって不都合な事実が語られているに違いない。
 急いで『悪霊○人? 日本を震撼させる都市伝説の真相』がタイトルの動画を再生し、該当箇所まで早送りした。
【悪霊化はおそらく、本当に起こっています】
 画面に白い仮面が映し出された。この人物になったことへの実感はまだない。
【これは独自のルートで仕入れた情報ですが、死んでから人の体に憑依してしまう人が実際にいるそうです】
『独自のルート』というのは何だろうか。考えられるのは、何かを知っていそうなロクか憑依者本人だ。
【しかも一人につき四回、一定期間ごとに別の人に憑依するそうなんです。でも、生前の未練を晴らせないままタイムリミットを迎えると――】
 前回はここで草心にスマホを取り上げられた。一体この後、何が語られるのだろうか。自然と呼吸が浅くなる。
【悪霊になって人を殺してしまいます】
 新しい情報を期待したが、この話はタクシーの運転手から聞いた話と同じだ。動画内で過剰な演出がなされているということは、これがこの動画のメインの情報なのだろう。残り時間は二十秒だから、これ以上の情報は語られていないのかもしれない。心が落胆の色に染まりかけたとき、未明の鵺が口を開いた。
【そして、殺す対象は大切な人です】
「えっ……」
 思わず変な声が漏れた。
【憑依後に出会った人の中で、大切だと思った人を殺してしまいます】
 全身の血の気が引いていく。草心はこの事実を知っていたにもかかわらず、悪霊化するときにモナミと一緒に過ごすことを選んだ。ということは、生前の未練が晴らせなかった場合にモナミが犠牲になることは厭わなかったということだ。
 大切だと思う一方で、殺しても構わないと思っていた。この矛盾した感情を抱きながら彼はモナミと会っていたのだ。
 なんて利己的で無慈悲なのだろう。他人を大切に思う気持ちも、突き詰めれば自分のためでしかないのだろうか。それが人間の本質なのだろうか。
 じゃあ、私の凛花に対する思いは?
 このまま悪霊化すれば、私は凛花を殺してしまうかもしれない。下手したら吉永や西宮マネージャーのことも殺してしまうかもしれない。それを防ぐには生前の未練を晴らすか、物理的に殺人を封じるしかない。
 それはすなわち、自分を殺めることだ。自分だけではなく四人目の体も。
 極限状態に陥ったときに、果たして他人を殺さないために自分を殺めるという選択を取ることができるのだろうか。恐らく、できない人が多いから悪霊殺人が増加しているのだろう。
 それでも私は凛花を守るためなら、自死の可能性も辞したくない。
 ただ、未明の鵺の話を鵜呑みにすることも危険だ。もしかしたら巧妙な自殺教唆かもしれないし、ただ単に金を稼ぐための話題作りかもしれない。
 いずれにせよ、私は二十日の間に真相を突き止めなければならない。
 大切な人を、殺さないために。
【もし他人の体に憑依している人がいたら、SNSからDMを送ってください。いたずら防止のために、憑依者にしかわからない情報を冒頭に書いてください。もちろん、嘘は簡単に見破れます。本当のことを言っている人にだけに、メッセージをお返しします】
 動画はそこで途切れた。
「DM……」
 私は早速スマホを開いた。SNSのDMには百件以上のメッセージが溜まっている。試しに一つ開き、スマホを遠ざけて目を細めた。
『こんにちは! 未明の鵺さんの大ファンです。わたしは憑依者です。なぜなら、一人目の体に憑依したとき、動画で紹介されていたことを全部知ってたんです』 
 そこまで読んで嘘だとわかった。動画で紹介していた内容を、私は柳楽直希に憑依したときに知らなかったからだ。
 別のメッセージも開いてみる。
『今日、四人目の最終日です! やばいので連絡ください! 憑依者しか知らないことは、異性に憑依することです!』
 これも嘘だ。恐らく面白半分で書いている。その後もいくつかメッセージを開いてみたけど、目ぼしい情報は何ひとつなかった。
 しかし、諦めかけていたそのとき、ある一文が目に留まった。
『私は死んだことしか知りません』 
 まさしく私と同じ状況だ。急いでチャットを開くと、『スピカ』という人物の長文が表示された。
『私は死んだことしか知りません。憑依した初日、自分がすでに死んでいて、他人の体の中にいることはわかりました。でも、知識や習慣以外の記憶は抜け落ちているし、ましてや四回憑依するなんて思いもしませんでした』
 あまりにも状況が酷似している。この人は多分、本物だ。
『だから、生前の未練を晴らさないと悪霊化して大切な人を殺すという論が信じられません。もし仮にあなたが憑依者と接点を持っていたとしても、悪霊とはどうやって話したんですか? 犯人の供述から推測するに、殺人後は体の持ち主本人に戻っているじゃないですか。未練を晴らせたか晴らせていないかの判断もできない。一般の人は、憑依者がそういう事実を予め知っていると思っているから疑問に思わないのだろうけど、私からしてみれば面白おかしくストーリーをでっちあげているとしか思えません』
 その考えは抜け落ちていた。確かに、憑依者が知らない事実を未明の鵺が知っているのはおかしい。スピカの言っていることは正論のように思える。
『憑依者があなたの話を信じ、未練を晴らすことに取りつかれて精神に支障をきたすから人を殺してしまうんじゃないんですか? 集団ヒステリーを真っ向から否定しているあなたが、自ら集団ヒステリーを起こして金稼ぎをしている。違いますか? こんな動画、早く削除してください。当事者の気持ちを考えてください』
 スピカの切実な訴えが文面から手に取るように伝わってくる。
『もし動画の内容が真実なら、他の憑依者も交えた話し合いの場を希望します。そうしなければ、あなたが嘘をついていることを世に公表します。しかるべき対処もします。期限は一週間です。それまでに他の憑依者たちと会わせてください。通話でも構いません。お返事をお待ちしています』
 半ば脅迫のような文章に肝が冷えた。他の憑依者を一週間で探すなんて、あまりにも酷だ。しかし、応じなければ未明の鵺が詐欺師として世に知れ渡る。最悪、殺人教唆と糾弾されかねない。仮に未明の鵺の話が嘘だったとしても、私が憑依しているときにそんな状況に陥ることだけは避けたい。
 もう人の人生を壊したくない。
「どうしよう……」
 情けない声が落ちる。その声に妙な違和感を覚えた。柳楽直希から鈴木萌桃に変わったときには違和感がなかったから、もしかしたら生前の自分は女性だったのかもしれない。
 しかし今は、生前の自分のことを考えるよりも先に憑依者を集めなければならない。同時に鈴木萌桃の情報も集める必要がある。
 意気込んで立ち上がったとたん、腹の虫が鳴いた。気が逸れると一気に疲労感が押し寄せてくる。俯くと、視界に手元が映った。未明の鵺の手は土色で、イトミミズのようなしわが刻まれている。声の印象とは異なり、それなりに年齢を重ねているのだろう。一旦休まなければ心身がくたばってしまいそうだ。
 部屋を出て四つ目の扉を開けると、洗面所と浴室につながっていた。鏡には落ち窪んだ眼の男性が映っている。肌はくすみ、シミが点在し、年季の入ったしわが刻まれている。正真正銘の中年男性だ。
 しかし、みすぼらしさはない。二重で鼻筋が通っており、若い頃はそれなりに整っていたことがわかる。ただ、疲労感が前面に表れているせいか健康的には見えない。動画クリエイターだから不規則な生活をしているのだろう。
 顔を洗ってキッチンへ向かうと、冷蔵庫を開いた。無造作に置かれているレジ袋にはコンビニ弁当が入っている。オーソドックスな幕の内弁当で、焼き鮭が載っている。それを電子レンジで温め、ケトルでお湯を沸かして白湯を作った。
 食生活は憑依相手によって大きく変わる。柳楽直希のときは何も気にせず脂っこいものを食べ、鈴木萌桃のときは食育のために健康的な料理を食べていた。未明の鵺は中年だから揚げ物はもたれるだろうし、食べてくれる相手がいないから料理も作らないだろう。コンビニ弁当生活が容易に想像できる。
 食事を食べ終えると案の定胃がもたれた。吐き気に襲われ、腰痛も酷く、頭も重い。情報収集どころではなくなり仕方なく眠ることにしたが、目を閉じても中々寝付けなかった。年齢のせいだろうか。結局浅い眠りを経て六時前に起きてしまった。憑依直後は気が動転して気付かなかったが、枕から枯草のような匂いが漂ってくる。加齢臭かもしれない。自分の体ではないのに気分が沈む。
 枕の匂いと口内の粘つきに顔をしかめながらスマホを手に取った。よく見るとベッドフレームに老眼鏡があったので潔く活用することにした。リアルタイム検索で思い当たるワードを順に検索すると、衝撃的なつぶやきが目に飛び込んできた。
『抱けない風俗嬢が襲われたらしい。犯人は店長に取り押さえられている最中に舌噛んで自殺だとよ。こえぇ』
 心臓が壊れたように激しく暴走する。猪熊店長が助けてくれたことに心の中で感謝しつつ、犯人が自殺したことがあまりにも予想外で肌が粟立った。
 しかし、肝心の鈴木萌桃の安否が書かれていない。急いで返信欄をタップしたけど反応しない。どうやら指に付着した汗のせいで画面が指紋を感知しないらしい。部屋着に指を擦りつけて汗を拭き取り、深呼吸しながら再び画面をタップした。
『うげぇ。オレ抱けない風俗嬢と添い寝したことあるわ。死んだ?』
『救急車に運ばれたのは見た。なんせ勤務先が目の前だからw』
『続報頼むわ』
 会話はそこで終わっている。ニュース記事にもまだなっておらず、結局安否はわからなかった。
 気もそぞろになりながら起床し、仕事部屋に直行した。続報が出るまでは情報収集をして待つしかない。早速床に積み上げられた紙の束に目を通すと、数々の都市伝説が書かれていた。文章と画像が半々くらいで、中にはグロテスクな画像もあった。血しぶきが飛んでいる画像を見てしまったときは思わずえずいた。
 五つくらいの紙の山にざっと目を通したが、悪霊殺人に関する情報は殺人の事例だけで動画で語られていたような真相に関する情報は一切なかった。仕方なくパソコンを立ち上げてもう一度動画の管理画面を見ると、あることに気付いた。
 未明の鵺が動画チャンネルを開設したのは十か月前で、悪霊殺人が確認された時期と被っている。やはり、彼は悪霊殺人と何らかの関係があるのかもしれない。
 続いてパソコンのフォルダを片っ端から調べると、『悪霊殺人』というフォルダが見つかった。開いてみるとほとんどが音声データで、他のフォルダの内容と明らかに異なる。もしかしたら憑依者との会話の記録されているのかもしれない。
 早速一つのデータをクリックしてみたけれど、ロックがかかっていた。ポストイットに書かれているパスワードを入力しても開かない。他も同様に開かず、自然に肩が落ちた。やけになって下までスクロールすると、『ロク』というファイルが大量に保存されていた。名前の後には日付が記載されており、三か月前の日付から数日ごとに記録がある。
 三か月前というのは、悪霊殺人が急増した時期だ。やはりロクは重要人物である可能性が高い。しかし、こちらもパスワードを解除することができなかった。他にもパソコン内のデータを片っ端から調べたが、やはり悪霊殺人に関する情報はなかった。これではロクに情報提供することは絶望的だ。
 悄然としながら仕事部屋を後にした。とりあえず生命維持のために食料を買わなければならない。玄関に置かれていた小さなウエストポーチを手に取って家を出ると、この部屋がマンションの三階にあることが判明した。
 外に出ると夏なのにやたらと肌寒かった。両腕をさすりながら路地を一本抜けて大通りに出ると、ビルやホテルが所狭しと建ち並んでいる。都会ではあるが馴染みのない景色だ。スマホで検索してみると、現在地が札幌になっている。これではどちらにせよ凛花に会いに行くことは絶望的だ。
 コンビニで適当な弁当を手に取ってレジで財布を出した。免許証の端がちらりと見え、今更ながら本名を確認していないことに気付いた。以前の二人のときはすぐに本人の情報を調べたのに、今回は二の次になっている。それだけ切羽詰まっている状況だ。
 会計の合間に免許証を引き抜くと、『鈴木すずき次郎じろう』というありきたりな名前が記載されていた。一瞬だけ鈴木萌桃と同じ苗字であることに驚いたが、確か鈴木は全国に十八万人もいる。ここは札幌だし、家には家族の痕跡が一ミリもなかった。親戚であれば合法的に凛花に会いに行けたが、どうやらその可能性はなさそうだ。気分がさらに沈んでいく。
 それから夜になるのはあっという間だった。一日中家を探してわかったのは、鈴木次郎が四十九歳ということだけ。悪霊殺人の情報どころか、鈴木次郎本人の過去の写真や思い出の品なども一切出てこなかった。意図的に物を処分しているとしか思えない。まるで過去と無理やり決別して忘れ去ろうとしているような、そんな意図すら感じる。
 そしてついに、ロクとの約束の時間になった。情報はこちらが知りたいくらいで、提供などできる状況ではない。パソコンで顔を合わせると余計にボロが出る可能性があるため、自分からLINE電話をかけることにした。そういえばこのLINEの登録名も『未明の鵺』で、トーク履歴はすべて削除されている。プライベートで使用している痕跡もない。情報漏洩を防ぐために管理を徹底しているのだろう。
 電話をかけると、二コールでロクが出た。
「もしもし、鵺です」
「あれ、今日も電話ですか?」
 訝しむような声音に冷やりとする。
「体調が悪くて……」
「いつも仮面を被ってるので体調の変化なんてわかりませんけどね。でもお大事に」
 棘のある言い方が鼻についたが、緊張がそれを上回った。口の中が乾いている。
「それで、今日は新しい情報はありますか?」
 心臓がうるさいほど高鳴る中、私は慎重に言葉を選んだ。
「二件あります」
「お、いいですね」
 ロクの声が明るくなる。
「まず一件目は、脅迫めいたクレームが届きました」
「へぇ。ポゼッションした人ですか?」
「……そ、そうです」
 前回理解できなかった単語が、憑依を意味しているのだと何となく察した。恐らくロクと未明の鵺の間には共通言語があるのだろう。
「読み上げますね」
 そういって、スピカの長文をゆっくりと読み上げた。
「なるほど、それはビンゴですね。うーん、でも困りましたね。この人は放っておいたら厄介だ。対策を考えないと」
「そ、そうなんです」
 電話越しにロクの唸り声が響いている。もしかしたら情報提供といっても相談程度でいいのかもしれない。ロクが解決してくれるなら一石二鳥だ。少しだけ気が軽くなる。
「とりあえず今回は、スピカの要求を呑みましょう」
「……というと?」
「Web上でポゼッション当事者を集めた緊急集会を開くんですよ」
 一瞬で気分が逆戻りし、それに乗じて体も重くなっていく。いくらLINEやメールにたくさんの連絡先が登録されていても、表示名だけで誰が憑依者なのかを判断することは難しい。DMも以前の履歴は消去されており、確認できた最新のメッセージもスピカ以外はいたずらのため、新規で憑依者を見つけるのは困難を極める。
「……い、一週間じゃ難しいかなと」
「鵺さんの人脈なら余裕でしょう。だから僕もこうやって定期的にあなたと連携を取っているんですから。自分の能力に自信を持ってください」
 上から目線なことは癪に障るが、それだけロクからも認められているということなのだろうか。だとしても、今の私に人脈はない。
「もちろん僕も出席しますから安心してください。スピカが納得しない場合は僕が真相をすべて話します」
「ありがとうございます……」
 とりあえずお礼は言ってみたものの、果たしてロクに本物の憑依者でありクレーマーのスピカを納得させるだけの力はあるのだろうか。彼の正体が不明である以上、それを判断することは難しい。
「開催日時が決まったらメールで連絡してください。それと、二件目は?」
 話の主導権は完全にロクに握られている。
「昨日歌舞伎町の風俗店で悪霊殺人がありました」
「ありましたっけ? 僕も悪霊殺人に関するニュースはすべて確認していますけど、見当たらなかったな」
 ロクの言葉を聞いて、墓穴を掘ったことを悟った。悪霊殺人の場合、犯人は『やったのは悪霊だ。自分ではない』という類の供述をする。しかし今回の場合は草心が自殺をしているから通常の事件として処理されているのだろう。それを悪霊殺人だと知っているのは当事者だけ。
 つまり、今の発言は自分がその悪霊殺人で殺されかけた被害者であることを匂わせているようなものだ。
 深く掘られたらバレてしまうため、焦燥感に駆られながらもなんとか軌道修正を試みた。
「……いや、独自のルートで仕入れた情報です」
「なるほど、さすがだ。でも、なんでお決まりの供述がないんですか?」
「は、犯人が舌を切って自殺しました」
「おお!」
 驚嘆の声が鼓膜に刺さり、思わずスマホを耳から離した。耳の奥がじんじんと痛む。やむなくスピーカー機能に切り替えた。
「いやあ、お手柄ですよ、鵺さん」
「え?」
「ほら、前に語った説があったでしょう? 事例がなかったから確証が持てずにいたんですが、鵺さんの話が事実なら説は立証された。すばらしい!」
 ロクが快哉を叫んでいるが、何のことだかさっぱりわからず、冷たい汗が背筋を伝う。
 適当な相槌を打つと、ロクが興奮気味に滔々と語り出した。
「悪霊殺人の最大の謎の一つが、悪霊化して人を殺せなかった場合にどうなるかでした。僕は前から、『代わりに自分を殺す』という仮説を立てていましたが、死人に口なしですからね。それが悪霊殺人なのかどうかの区別がつかなかった。だけど、予めポゼッションした人だと判明していた上でその事件が起こったのなら間違いない」
 ロクが確信めいた口調で断言した。
「悪霊化後に大切な人を殺せなかった場合、自殺する」 
 その説は、私の心を荒波のように揺さぶった。
 
 ロクとの電話を終えると、疲労感が全身を支配して動けなくなった。しかし、ベッドに横になっても一向に眠り落ちる気配がない。頭の中はロクの説のことでいっぱいだった。
 もし彼の説が正しいのなら、鈴木萌桃は生きている。彼女が死んでいたら草心は自殺せずに逮捕され、お決まりの供述をしていただろうから。
 だけどその説が完全に正しいかというと、そうとは言い切れない。事例が一例しかないから、草心が偶然死んだ可能性や悪霊が去った後に絶望して自殺した可能性も否めない。だから鈴木萌桃が確実に生きているとも限らない。
 ようやくアップされたネットニュースには、被害者が救急搬送されたことしか記載がなかった。リアルタイム検索でつぶやいていた人もそのあとに更新していない。事件というのは一瞬で消費されて忘れ去られていく。当事者以外には。そのことを思い知った。
「はぁ……」
 嘆息しながら、私が未練を晴らせずに悪霊化した場合のことも考えた。もしロクの説が本当だとしたら、わざわざ自殺を試みずともタイムリミットのギリギリまで生前の未練を晴らすために奔走することができる。もし達成できなかったとしても、脱出不可能な場所に閉じこもって悪霊化を待てば、人を殺さずに死ぬことができる。凛花や吉永や西宮マネージャーを守ることができる。
 しかし、それは即ち、四人目の憑依相手の人生を同時に終わらせることにつながる。大切な人を犠牲にして憑依相手を殺人者にするか、大切な人を守って憑依相手を殺すか。どちらにせよ人が死ぬ惨い状況だ。他人の命がかかわっているのに、極限状態の自分が究極の選択を決断することができるのだろうか。
 あとはスピカの言葉を信じて未明の鵺の狂言だと思い込んでやり過ごすか、生前の未練を晴らして殺人を食い止めるしかない。
 しかし、仮に未明の鵺の説が本当だとしても、生前の未練を晴らしたらどうなるのだろうか。
 謎が多すぎて同じ思考を何度もループしているうちに、夢か現実かわからないような浅い眠りに落ちた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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