「死、のち殺人」第11話

 十日目の朝はよく晴れていた。入道雲が夏の到来を感じさせる。今日は夏休み前最後の登校日。多くの学生にとっては明日から人生の夏休みなのに、私だけは明日から永遠の夏休みが始まる。下手したら地獄行きかもしれない。
 極限まで追い込まれているはずなのに、心はやけに凪いでいる。それはきっと、夜中にきた鈴木萌桃からのメッセージのおかげだろう。
『返信できなくてごめん。生きてるよ』
 その一言だけで、破裂しそうなほど膨らんでいた不安が一気に萎んだ。彼女が生きているということは即ち、凛花も無事だということだ。それだけでもう、十分だ。生前の未練はわからなかったけど、憑依後の未練は晴らすことができた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 何も知らない柚木優乃の母親が、私を笑顔で玄関まで送り出してくれる。彼女と会うのも今日で最後だと思うと、心底からこみ上げてくるものがある。たくさんの心配や迷惑をかけたのに無償の愛で包んでくれた母親のことを、本当の母親のように思っている。
「いってきます」
 最後の挨拶をして扉を閉めたとき、頬を涙が伝った。
「おはよう、さりちゃん」
 玄関の前には末永が立っていた。相変わらずのストーカーぶりも、恋仲の状態ならば嬉しいのかもしれない。さすがに朝五時から玄関の前で待機していることには驚いたけれど(起床時にカーテンを開けたらすでにいた)、目を瞑ることにする。
 末永のマシンガントークを聞き流していたら、二時間半の登校はあっという間に終わった。鼓膜はすでに疲弊しているけど、不思議と嫌悪感はない。殺されかけたのが遠い昔のようだ。
「じゃあ、放課後また会おうね」
 彼は私を教室まで送り届けると、名残惜しそうに何度もこちらへ振り返りながら自分のクラスに戻った。あかりちゃんに「いい彼氏だね」と言われて、さりちゃんにとってはそうなのかもしれないと思った。
 今日の授業は昨日とは違い、やたら早く過ぎていく。いつも以上に私語の多い浮足立った教室で、私は一人でずっと最後の決断に腐心していた。
 悪霊化して大切な人を殺すか、人を殺さないために柚木優乃を殺すか。
 最後の最後は、幸せな日々を過ごすために逃げてきた命題に向き合わなければならない。
 だけどやっぱり、誰の人生も壊したくない。
 そう思った私は、最低最悪の、でも私にとっては最善の方法を選択することにした。
 きっとそうするしかないのだ。彼が、いや、もしかしたら彼女がそうしたように。
 
「さりちゃん!」
 放課後、私のクラスに喜色満面の笑みを湛えた末永が現れた。
「やっと夏休みだね。今日は何をしようか?」
 末永は私と過ごすのがさも当たり前のように言う。それが今は救いになる。
「やりたいことがあるの。協力してくれる?」
「もちろん! さりちゃんの願いなら何でも叶えるよ」
 末永が得意げに自分の胸を叩いた。
「じゃあ、屋上に行きたい」
「え?」
「今日、星を見たいの」
 それはただの口実だ。本当は別の目的がある。
「参ったな。うちの学校、屋上立ち入り禁止だったような……」
「何とかならないかな?」
「うーん……そうだね、さりちゃんのためだし。何とかしてみるから、ちょっと図書館で待っててくれる?」
「わかった。ありがとう」
 末永は白い歯を見せると、廊下を全速力で走った。私は図書室に向かい、机に突っ伏した。やはり柚木優乃の体はすぐに疲労がたまる。全身から血を抜かれたのかと思うほど怠い。
 それからすぐに意識を手放し、末永の声で目を覚ました。
「さりちゃん、大丈夫?」
「ん……ああ、うん、ごめん」
 目線の先の窓の外は真っ暗だ。カウンターにだけ明かりがついていて、仄暗い雰囲気に包まれている。閉室時間を過ぎているから驚いたけど、机に『帰るときは電気を消してね。鍵はわたしがごまかすから大丈夫だよ。秘密ね! あかり』という置手紙があって状況を理解した。図書委員だから気を利かせてくれたのだろう。まだ数日しか会っていないのにやさしくしてくれたことが嬉しく、心の奥がじんわりとあたたかくなった。
「さりちゃん、屋上に行けるよ!」
「本当に? でもどうやって? ピッキング?」
「僕はそんな犯罪めいたことしないよ」
 平然と言う末永に唖然としてしまった。殺そうとしたくせに、と心の中で突っ込みを入れる。
「天文部とバトッて……交渉してきたんだ」
 末永は本当にさりちゃんのためなら何でもやるのだなと、一周まわって感動すら覚えた。狂気的なやさしさを持つ末永は、さりちゃんにとっては王子様に見えたのかもしれない。恋愛はきっと、当人同士が幸せならそれでいいのだろう。外野がとやかく言ったり阻んだりするのは良くない。犯罪はさすがにだめだけど。
「さりちゃん、星を見に行こう」
 末永が差し出してきた手を、今日だけは特別に掴んだ。
 
 屋上から見る星は、想像を遥かに超えて美しい。深い藍色の空に氷の粒のような星が散りばめられ、幽玄の世界を創造している。自然にかなうものはないと思うほどに圧倒された。
「今日の何時何分かに、何年かに一度のなんちゃら流星群が見られるみたいなんだ。天文部の人が言ってたから間違いないよ」
「えっと……全然わかんないや」
「ああ、頭に血が上ってたからよく聞き取れなくて」
 はは、と空笑いする末永は空恐ろしい。きっと天文部はこの日のなんちゃら流星群のために色々と準備をしていたに違いない。急に申し訳なさを覚えて出入り口に戻ろうとすると、末永が私の手首をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫。僕が懸命に調べて、もっと星がよく見える場所に移動してもらったから」
「そ、そうなんだ」
「今日はここにいよう、さりちゃん」
 星を映した末永の瞳を見て、私は足を止めた。最後の夜を屋上で、末永と過ごすと決めたのは私だ。心の中で天文部の人に謝りながら、私は再び夜空を仰いだ。
 あと数時間で、私も星になる。
「明日から夏休みだね」
 末永は現実から私を逃がすような明るい声で言った。
「二人でどこに行こうか」
 何も知らない末永は、楽しそうに私たちの未来を語る。花火、夏祭り、海水浴、プール、芋掘り、富士山登山。真夏に芋堀りできるのかはわからないけど、彼と出かけに行くことに対する嫌悪感は消えている。しかし、それらが実現することはない。
「新宿御苑はマストだよね」
「えっ?」
「二人の初デートの場所だったんだ。植物好きのさりちゃんの、大好きな場所だよ」
 彼の言葉を訊いて、心に稲妻が走った。ナンバンキセルに新宿御苑。ただの偶然かもしれないけど、もしかしたらさりちゃんは草心に……だけど、それ以上は考えたくない。
 だってもし本当にそうなら、さりちゃんは悪霊になって自殺してしまったから。
 恨んでいる相手を恋人と思い込まなければ心が折れてしまう末永に、これ以上絶望を与えるわけにはいかない。
 それに私も、自分がさりちゃんである可能性をここで捨てるわけにはいかない。これからする残酷な決断を、末永に突きつけることができなくなってしまう。
 私はさりちゃん。私はさりちゃん。
 心の中でそう唱えながら、屋上の縁に近づいた。転落防止のフェンスは腰くらいの高さまでしかない。そこを越えれば、夜の底だ。
 しばらく下を眺めていると、背後から来た末永が私の隣にぴたりとくっついた。
「さりちゃんは、こんな暗い場所に落ちたんだ……」
 フェンスから身を乗り出した末永が、悲痛な声でつぶやく。
「辛かったね……痛かったね……」
 彼は喉から絞り出した言葉を夜の底へ落とした。まるでさりちゃんがそこにいるかのように。
「僕が一緒に落ちてあげたかった……あいつじゃなくて」
「え、どういうこと?」
「……ううん。さりちゃんは何も知らなくていいよ」
 末永は縋るように手を差し出してきた。手をつなぎたいという彼からの意思表示だ。だけど、それに応えるのはさっきの一回で終わり。私は息を呑み、スカートのポケットからあるものを取り出して彼の手のひらに置いた。
「さり、ちゃん?」
 末永は瞠目した。彼の口が洞穴のようにぽっかりと開いている。
「私があなたを殺そうとしたら」
 心の底に溜まった澱が舞い上がる。
「私を殺して」
 震える声で言い放った。彼の手のひらの果物ナイフが、星を映して煌めいている。
「殺すって……ぼ、僕はそんなことできない!」
「あなたは柚木優乃を殺そうとしてた」
「でも、それとこれとは……だって君はさりちゃ――」
「お願い」
 末永の表情から感情が抜け落ちた。悲しみや混乱が閾値を超え、考えることを放棄したのかもしれない。
「お願い……」
もう、こうするしかなかった。
 私はどうしたって未練を晴らすことはできない。ロクは偶然誰かに生前の名前を呼んでもらったからシックスライフを手に入れることができたけど、そんな奇跡、何年かに一度のなんちゃら流星群よりも滅多に起きないだろう。この広い世界で記憶のない私が、生前の私を知っている人を探すなんて端から無謀すぎた。だから柳楽直希の歌を聴いて、諦めることができた。残りの時間を絶望ではなく幸福に変え、大切な人と時間を過ごすことを選んだ。
 そうなると問題なのは、悪霊化することだった。悪霊化すれば大切な人を殺してしまうし、自死を選べば柚木優乃が死ぬ。人の人生を左右する選択を、最後まで選びきれなかった。
 だから私は、草心に憑依した人と同じ行動をとることにした。
 それは、私がさりちゃんであると仮定して、最後まで末永と過ごすことだ。もし私が本当にさりちゃんなら、大切な人、つまり末永と時間を過ごして心を通わせることで未練を晴らすことができるかもしれない。だから草心がモナミにそうしようとしたように、私も末永にキスをしようと思っている。
 馬鹿馬鹿しい理論だけど、人は極限まで追い込まれたら一番近い可能性に縋るしかない。
だけど、草心に憑依した人とは決定的に違う点がある。彼、ないし彼女は、モナミを殺してしまう可能性を私に告げなかった。だから私は悪霊化を予測できずに殺されかけた。でも私は、事前に末永に果物ナイフを渡した。私がもし悪霊化して末永を襲ってしまったら、果物ナイフで刺してもらおうと決めた。
 しかし、本当に殺してもらうつもりは毛頭ない。末永には「私を殺して」なんて言ったけど、末永が人を殺せないのはわかっている。仮に彼が人を刺したとしても、確実に急所は外すだろう。初めて会った日に果物ナイフを持った両手が極度に震えているのを見て、彼が人を殺せない人間であることは知っている。
 だからせめて、悪霊化した私を刺して動きを止めてほしいと思った。体のどこかを刺されば動けなくなるし、運よく気を失えば自死する前に病院に搬送される。そうすれば柚木優乃は助かるし、末永も正当防衛で済む。私の大切な人も殺されなくて済む。死ぬのは私だけだ。
そんな夢物語に縋ってしまうのは、もうそれに縋るしかないからだ。
 だけどこの一縷の望みを叶えようとするなら、最後に末永に伝えなければならない。
「私、今日の午前〇時に悪霊化するの」
「今日って……な、なんで、そんな、急に……先に……教えて……よ……」
「ごめん。あなたをがっかりさせたくなかった」
 それは本心だ。
「悪霊化したら人を殺してしまう。だからその前に私を刺して」
「そ、んな、で、も……さりちゃんを……」
「私がもし本当にさりちゃんなら悪霊化しないよ。きっと生前の未練はあなただと思うから。でも、もしさりちゃんじゃなければ悪霊化してしまう。そのときの私はさりちゃんじゃないから、あなたが殺される前に私を刺してほしい」
 末永は頬に涙をすべらせながら、喃語のような言葉を発している。
「こんなことを頼んでごめんなさい。でも、それしかないの……」
 それから私は、言い訳をするように悪霊殺人の全容を話した。ほとんどロクの受け売りだけど、知ってることはすべて話したつもりだ。
 末永は我ここにあらずという表情をしていたけど、次第に生気が戻ってきた。特に、生前の名前を他人に呼ばれると記憶を思い出すことを伝えたときには、表情が大きく動いた。
 すべてを話し終えると、永遠にも感じる沈黙が続いた。もちろん私の夢物語に無理やり末永を巻き込むつもりはない。彼が断わるのなら、私は別の選択をしなければいけない。
 しかし、末永の答えは慮外なものだった。
「なんで諦めたの?」
「……え?」
「なんで、記憶を蘇らせることを諦めたの?」
 責めるような口調に、思わず身が縮こまる。
「それは……だって七十億人以上いる人の中から、私の知らない生前の私の名前を呼んでもらうなんて、天文学的――」
「でも、成功者がいるんでしょ? なんで自分にはできないと思ったの?」
 言葉に詰まる。
「そもそも誰かに頼ったりした?」
「……ううん」
「どうして人を頼らないの? そんなに深刻な状況なら、最初から僕に頼ってよ!」
 末永は怒っていた。でもそれは、自分のための怒りじゃない。さりちゃんの身を案じた末の怒りだ。
「日付が変わるまでに、まだ時間があるよね」
「……うん」
「じゃあ、やるしかないよ」
 末永はそういうと、果物ナイフを星空に投げつけた。それは弧を描き、夜の底にあっけなく落ちた。
「こんなものいらない」
「でも、私が悪霊化したら――」
「死んでもいいよ」
「えっ」
「さりちゃんのためなら、僕は死ねる」
 彼の狂気的な純粋さが胸に突き刺さる。
「でも、私、さりちゃんじゃないかもしれない……」
「そんなのわかってる」
 末永の瞳が涙で揺れた。彼の瞳に映る星々も揺れる。
「そんな奇跡、滅多に起きない。バカな僕にでもわかる。でも、ナンバンキセルのことを言う君は、本当にさりちゃんに見えたんだ。だから縋りたくなった。君はそんな僕のためにさりちゃんを演じてくれた。僕に希望を与えてくれた。僕を助けてくれた」
 そんな風に思っているなんて、考えてもみなかった。末永は本気で私をさりちゃんだと思い込んでいるのだと考えていた。
 末永は、生きるために縋りたかったんだ。
 そして私は、末永に頼られていたんだ。
 末永はさりちゃんだけじゃなく、実体のない私をしっかりと認識していたんだ。
「だから今度は僕が君を助ける。僕にとっての君は、一瞬でもさりちゃんだったから」
 彼はそういうと、大きく深呼吸をして言葉を紡いだ。
遠原とおはらさり
 その一言は、一瞬で闇夜に溶けた。
 何も起こらない。
 記憶が蘇る気配はない。
「……さりちゃんじゃなくて、ごめん」
 隙間風のような私の声をかき消すように、末永が嗚咽を漏らした。さっきはあんな風に言ってくれたけど、やはり私がさりちゃんである可能性を信じたかったのだろう。
 末永は赤子のように泣き喚くと、突然ぴたりと泣き止んだ。
「……悲しむのは、明日にする」
「え?」
「今は君の記憶を蘇らせることが先決だ」
 そういうと、末永は再び口を開いた。
「タナカマサシ、サイトウミチナリ、アンドウキヨスギ、ワタナベイチヤ……」
「え、あの、それは……」
 いきなり人の名前を連呼しはじめた末永に泡を食った。
「今から僕が知ってる人の名前を全部言うよ」
「えっ」
「もしかしたら、君の本名があるかもしれない」
「だ、だけど――」
 私の言葉には聞く耳を持たず、末永はお経を読むように人の名前を唱えはじめた。彼が真剣なのはひしひしと伝わってくるし、私のために必死になってくれるのはありがたい。
だけど、笑いを堪えることができなかった。
「ヒラウチサラ……え、なんで笑ってるの? もしかして記憶が蘇った?」
「ううん、ごめん、そうじゃなくて……私はもう死んでるんだよ」
「あっ」
「生きてる人の名前じゃ、永遠に当たらない」
 末永は頭を抱えてフェンスに寄っかかった。恥ずかしさを隠しているように見える。その姿がなんとも彼らしくて、可愛らしいと思った。
 私を殺そうとした末永は今、私を必死で生かそうとしてくれている。その事実があるだけで、胸の中があたたかくなる。
「ごめん、役立たずで……」
「ううん、気持ちだけで嬉しい」
「僕の周りで死んだのは、さりちゃんとおじいちゃんくらいで……」
「そうだよね」
 末永は申し訳なさそうにおじいちゃんの名前をつぶやいたけど、やはり記憶は蘇りそうにもない。
 何とも言えない気まずい雰囲気が漂う。
「……果物ナイフ、拾ってくるね」
 私はそう言って入り口へ向かった。やはり当初の夢物語に縋るしかない。
 錆びついたドアノブに手をかけたとき、背後で末永が「あっ」と叫んだ。
「ねぇ、君」
「何?」
 振り向くと、末永が私をじっと見据えていた。
「地理、得意だよね?」
「うん、そうだけど……」
 彼との会話の中でそんな話をした気もする。確かに私は、なぜか地理が得意だ。
「そっか……うん……そっか……そうだ」
 末永は呆然と立ち尽くしたまま、ぶつぶつと何かをつぶやいている。
 満天の星空に呑み込まれてしまいそうな彼を見ていると、心の中に得も言われぬ予感が渦巻いた。
 もしかして――
「鈴木凛梨りり
 彼の背後で、流星群が迸った。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?