「死、のち殺人」第1話
あらすじ
主人公は目覚めると別人に憑依していた。記憶はなく、自分が死んだことしか知らない。体の持ち主であるバンドマンとして徐々に生活に順応していくが、十日後に突然風俗嬢に憑依してしまう。実は主人公のような死者は別人への憑依を一定期間ごとに四回繰り返し、その間に生前の未練を晴らさなければ悪霊化して殺人を犯してしまうのだった。
主人公は自分の生前の未練が何かを探り、晴らそうとするが――
第1話
私が自分自身のことで知っているのは、死んだことだけだ。
名前も年齢も性別も性格も仕事も家族も好きな食べ物も嫌いな人も、何一つ覚えていない。ただ、私はすでに死んでいて、自分の魂が別の誰かの体に憑依している。それだけはなぜかはっきりと認識することができる。
重いまぶたを開けると、シーリングライトの淡い光が目に飛び込んできた。最暗から二番目の明るさだなと咄嗟に思った。このことから察するに、自分に関する記憶は抜け落ちていても、死ぬ前の習慣や知識というのはある程度覚えているのかもしれない。試しに九九の七の段を空で唱えると、すんなりと言うことができた。どうやら死ぬ前の私は、少なくとも小学二年生以上ではあるらしい。
起き上がり、ベッドフレームに置かれているリモコンでシーリングライトの明るさを最大にする。部屋を見渡してみたが、整理整頓が行き届いた六畳ほどの空間に見覚えはない。急いで洗面所に向かって顔を確認したが、見覚えのない男が鏡に映っている。
この顔の印象を一言でいえば、塩顔の壮年。面長の顔に奥二重。鼻や唇に特徴はなく凡庸。髪はツーブロックで髭はほとんど生えていないから清潔感はある。しかし、際立った特徴がなく、人から「どこかで見たことがある」や「友達に似ている」と言われがちなタイプの顔だ。
視界の隅に入り込んだ温度計付きデジタル時計には、『午前〇時四分』と表示されている。温度は二十五度、湿度は七十二パーセント。湿度が高いから梅雨の時期ではないだろうか。ここまで考えて、死ぬ前の私は少なくとも十歳以上の分析力があることに気付いた。こうやってひとつずつ気付きを積み重ねれば、自分自身のことがわかるかもしれない。
部屋に戻り、こぢんまりとした円形のカーペットに腰を下ろす。寝起きでぼんやりとしていた頭が冴えていくと、自分の心境に違和感を覚えた。
恐らく普通の人間ならば、自分が死んだことにも、生前の記憶がないことにも、他人の体に憑依したことにも混乱してパニックに陥るだろう。だけど今の私は自分でも驚くほど冷静だ。脳内に疑問符は浮かんでいるものの、心はやけに凪いでいる。それはなぜだろう。
しばらく考えてある結論を導いた。恐らく私が冷静なのは、すでに死という人生最大の関門を突破したからだろう。人間は未知のものや事象に対して恐怖を抱くが、私の場合は死を経験済みだから死ぬことが怖くない。それに加えて生前の未練や苦しみを覚えていないから腐心することがなく、他人になったことにも抵抗感が薄い。この体の持ち主には悪いけれど、これはある意味ボーナスステージのようなものだ。もう一度人生をやり直せるのだから、この体の持ち主の人生に順応するのが得策だろう。
ベッドに戻って枕元のスマホを確認する。日付は六月十一日。読み通りの梅雨だ。取り急ぎこの体の持ち主の情報を仕入れるため、顔認証でロックを解除してLINEを開いた。
プロフィール欄には『なおき』と書かれている。アイコンは真っ赤なギターで、背景はモノクロの外国人が映っている洋楽のジャケ写のような画像だ。友達は七百三十人。目を瞠るほど多い。トーク履歴には男女の名前が半々ずつと、学生ノリをこじらせたようなグループ名がちらほら。あまりにも多いため、一つずつ確認することが億劫になってアプリを一度閉じた。続いてホーム画面を見ると、数々のソシャゲアプリの中にマッチングアプリがあった。開くと、『ルイナ』という女からメッセージが来ている。
『なおきくん、寝落ちちゃった? ルイナさびしい。あしたは来るよね?』
どうやらこの体の持ち主は、私が憑依する直前までルイナとやりとりをしていたらしい。メッセージを遡ると、赤面必至の戯言や目がチカチカする絵文字の数々が目に飛び込んできた。肌が粟立ち、激しい不快感を覚える。
ひとまず明日の集合場所と時間だけを記憶し、そっとアプリを閉じた。顔を上げて改めて部屋を見渡すと、瀟洒な間接照明やドライフラワー、そしてプロフィール画像に設定されていた赤いギターが飾られている。女性受けを狙っているのだろう。一見無害そうな風体のなおきだが、どうやらかなり遊んでいそうだ。背筋にねこじゃらしで撫でられたようなぞわりとした感覚が走る。生前の自分はそういう人種が嫌いだったのかもしれない。
さて、明日はルイナに会うべきなのだろうか。
一夜明けても状況は変わらなかった。昨晩は夜通し情報収集をしていたせいで眠りに落ちたのは朝八時。起き上がると頭の奥につんとした痛みが走り、体は水を含んだ衣服を着用しているときのように重い。こめかみを押さえながらスマホを確認すると、『十六時三十二分』の表示が目に入った。確かルイナとの待ち合わせは十八時のはずだ。ベッドから飛び起き、慌てて身支度を済ませて家を出た。
最寄りの地下鉄に乗り、吊革につかまりながら窓の外を見やる。一向に代わり映えしないトンネルの壁をぼんやりと眺めていると、焦点が定まらなくなった。
視界に紗がかかったような状態になってから数分後、突如として優先席側から鼓膜を劈くような泣き声が上がった。周囲の乗客が一斉に同じ方向に視線を向ける。私も乗じて視線を移すと、ミニスカを履いた赤髪の女が長髪の男にビンタを食らわせていた。てっきり泣き声の主は赤ん坊だと思っていたから衝撃だ。赤髪女はヒンドゥー語やラオス語の類かと思うほどわけのわからない言葉でまくし立てながら泣き喚いている。たまに『アクリョウ』や『サツジン』といった物騒な言葉が聞こえてくるのは気のせいだろうか。
いよいよ周囲の人にも実害が出そうになったころ、赤髪女の後ろに座っていた軍人のようにがっちりとした体躯の男性が彼女を取り押さえた。
「チカン! うったえる!」
彼女は金切り声を上げた。日本語として聞き取れたのはそれだけで、再び謎の言葉で喚き散らしている。最初は渋面を作っていただけだった軍人のような男の額に、血管がむくむくと浮き上がっていく。
「うるせぇ! 俺はメスガキなんかに興味ねぇ!」
男はそう吐き捨てると、赤髪女を突き飛ばした。ちょうど電車が止まり、軍人のような男は飛び降りた。呆然としていた周囲の人間も続々と降りていく。路線図を確認する限り各駅電車しか止まらないような知名度の低い駅名だから、恐らく多くの人がこの騒動を恐れて逃げ降りたのだろう。がら空きになった車内にいるのは、優先席で眠りこけている初老の男性と、床にへたり込んで幼児のように泣きわめく赤髪女、そして私しかいない。長髪男もいつの間にか消えている。
電車が再び動き出すと、誰もいなくなった座席に腰を下ろした。やはり一度死を経験しているからか、普通の人が恐怖を抱く事柄に対して何も感じない。逆に、あまりにも平然としている自分自身が少し怖い。
赤髪女の激しい慟哭を聞き流しながら窓越しに流れゆくトンネルの壁を見ていると、ふとこの体の持ち主と目が合った。どこにでもいそうな塩顔。これが今の自分であることを再認識すると、ルイナとの相見に備え、昨日部屋をくまなく捜査して得た情報を脳内で整理することにした。
彼の名は柳楽直希。冬生まれの三十一歳。三流大学卒業で、都内で売れないバンドをしながらフリーターで食いつないでいる。職場は映画館で、今日はシフトがないらしい。家は築十二年木造アパートの一階。都内のそこそこ家賃の高いエリアだが、駅からは十五分以上離れた場所に住んでいる。特定の恋人はおらず、マッチングアプリで出会った女にちょくちょく会っているようだ。
また、一人暮らし用の冷蔵庫には低アルコールカクテルの缶が敷き詰められ、菓子棚には高級志向なチョコレートがストックされていた。女受けを狙っている痕跡が多々ある一方、抽斗の奥にはアダルトグッズが雑然と収納されていた。見えるところは綺麗に、見えないところは適当に。そんな人間性が垣間見える。
性格は多分、王道の陽キャではないだろうか。学生時代にはクラスメイトを一人二人いじめ、大学ではヤリサーに所属し、新卒で入った会社を三か月でやめて自由に生きている(最後以外は想像だ)。そもそも本人の性格は他人のほうがよくわかっているケースも多いから、人に会う中で探っていくしかない。だからまずは場数を踏むために、初対面のルイナと会うことを決めた。
「ねぇ、あのデブのボーリョクみてたよね。ショーゲンして」
突然視界に赤髪女が現れた。見上げると、充血した目の下に黒い涙の跡が残っている。濃いメイクが崩れた様は、さながらゾンビだ。死臭のほうがましなのではないかと思うほどのどぎつい香水の匂いが鼻腔をなぶる。恐怖というよりも薄気味悪さで肌が粟立った。
「ねぇ、きいてんの? デブのボーリョクみてたよね!」
あれは脂肪ではなく筋肉だからデブではない、と心の中で突っ込みながら、「知りません」と抑揚のない声で否定した。すると赤髪女がいきなり私の胸倉をつかみ、物凄い力で引き上げた。第一ボタンまで締めたシャツの襟が首に食い込み、思わず変な呻き声が漏れる。痛みから解放されたくて立ち上がると、あれほど存在感のあった赤髪女が小さく見えた。身長が柳楽直希の胸辺りまでしかないのだ。柳楽直希の身長は思いのほか高いらしい。
赤髪女は腕がしんどくなったのか、胸倉から手を放し、代わりに鬼の形相で私をねめつけた。
「ハンザイみのがすのもハンザイ!」
「知りません」
「はぁ? ッざっけんな!」
耳まで真っ赤にした赤髪女は私の頬にビンタを食わらせた。痛みが波紋のように広がり、頬が疼痛に襲われる。いくら一度死んだからといって、痛みへの耐性はできないらしい。純粋な不快が募っていく。
「それも暴力ですけど」
私はスマホを取り出し、通報するふりをした。赤髪女は目を白黒させながら、這う這うの体で優先席横のドアをこじ開け、別の車両に逃げた。ドアが閉まる振動で目覚めたのか、初老の男性がむくりと顔を上げ、呆けた顔で周囲を見渡している。目が合うと意図が釈然としない会釈をされ、反射的に会釈を返した。この一連の出来事は、他人の体に憑依したことよりも奇想天外かもしれない。
しばらくして目的の駅で降りると、都会の汚染された匂いを内包したむせかえるような湿気が襲ってきた。都内は起伏の多い地形のせいで、地下鉄が地上に出る地点がある。まさにそれがここだ。そんな知識がふっと湧いてきたのだから、生前の自分は地理や電車に詳しいか、あるいは首都圏に住んでいたのかもしれない。
駅から五分ほど歩いて目的の飲食店の前に行くと、水色のノースリーブワンピースを着た仏頂面の女性が見えた。肌寒い気候にもかかわらず、無理をしてお洒落をしているようだ。
彼女は私を見るなり、にべもない表情を張り付けたような笑顔に変化させた。女性特有の嫌な部分を垣間見た気がする。
「初めましてぇ。ルイナです」
彼女が上目遣いをしながら猫なで声を発した。身長は私の肩くらいで全体的にほっそりしているが、胸のふくらみだけが強調されている。顔は記憶に薄っすらある女優に似ていて、明るい茶髪はよくわからない技法で複雑に結んである。男性がいかにも好きそうな女性だ。マッチングアプリのプロフィールには、二十三歳の保育士でライブハウスに行くのが趣味と書かれてあった。胸焼けしそうなメッセージのやり取りを読み飛ばしたため、それ以上の情報はわからない。
「初めまして。なぎ……なおきです」
「今、嚙みましたぁ? かわいいなぁ」
ねちっこい笑顔を浮かべるルイナに強引に腕をつかまれ、イタリアの国旗が飾られている店に入った。店内は柳楽直希の好きそうな瀟洒な間接照明が多数あり、カップルでにぎわっている。案内されたテーブルの上では、小さなロウソクの炎がゆらゆらと揺れている。
「わぁ、きれい。こんな素敵な店に来たことないですぅ。直希くん、センスいいね」
時折はさんでくるため口に苦笑いしながら、逃げるようにメニューに視線を落とした。一ページ目にはコース料理の説明、二ページ目以降にはアラカルトのメニューが書かれている。どれを頼んでよいかわからずルイナを一瞥すると、コース料理の写真に目を奪われているようだった。ここでアラカルトを注文したら幻滅されて柳楽直希の情報を上手く聞き出せなくなるかもしれない。露骨な彼女の態度は不快だが仕方ない。小さなため息をつき、洒落た瓶から水を注ぐウェイターに七千円のコース料理を注文した。
彼が去ってからしばらくすると、ルイナが口を開いた。
「直希くんありがとう。高いのにいいんですかぁ?」
「あ、はい……うん」
ふとマッチングアプリのチャット上で柳楽直希がため口を使っていたことを思い出し、軌道修正をした。中身が別人だと思われては元も子もない。
「さすがぁ、総合商社マン」
「え?」
「あれ、違いましたっけ? プロフィール……」
急に不安顔になったルイナが慌ててスマホを取り出した。私も焦りを感じ、柳楽直希のプロフィールを確認した。
『東大卒、総合商社勤務、年収八百万円』
その文字を見た瞬間、何かが胸につかえたような気持ち悪さを感じた。ちょうど運ばれてきた前菜の、生野菜の匂いが吐き気を助長した。瞳だけ動かしてルイナの様子を窺うと、安堵の表情をしている。もしかしたら、同時並行でやりとりをしている別の男性の情報と勘違いしたと思い込み、焦っていたのかもしれない。噓をついているのは柳楽直希のほうなのに。
いや、冷静に考えれば私も柳楽直希を装っているのだから、彼の食言に不快感を抱く権利はない。それなのに、心に黒い澱が落ちる感覚があった。
「あのぉ、総合商社ってどんなお仕事をするんですかぁ?」
それからは地獄だった。もとはといえば柳楽直希の情報収集の目的でルイナに会ったのに、上辺だけしか知らない彼のことについて根掘り葉掘り訊かれ、四苦八苦しながらなんとか答えることの繰り返し。しかも、彼のプロフィールは嘘で塗り固められており、事前に集めた情報を掠っているのはギターくらいしかなかった。そのギターの知識はあいにく持ち合わせておらず、返答に苦慮した。
初対面の人と会っても柳楽直希について知ることはできない。そんな初歩的なことに気付けなかった自分を恨んだ。
当てずっぽうな回答をしながらなんとか料理を胃に押し込み、ルイナがお手洗いに行ったタイミングで会計を済ませた。クレジットカードが一枚もないことにも、何となく察するものがある。お釣りの小銭を手のひらにおさめたタイミングでルイナが戻ってきて、私にぺこぺこと頭を下げた。ポケットに小銭を入れたあとの手のひらは臭かった。
「この後、どうしますぅ?」
店を出ると、シャンパンを飲んで酔い気味のルイナが腕に手をまわしてきた。悪い意味で背筋がぞくりとする。彼女の歩く方向に導かれ、いつの間にかホテル街の入り口まで来てしまった。節操のないネオンがチカチカと光っている。
「ルイナつかれちゃったなぁ」
彼女はあからさまな猫なで声を発しながら、私の腕に胸を押し付けている。生前の自分の性別は不明だが、少なくともこんなちんけな色仕掛けに惑わされるような人間ではない。咄嗟に体を離し、鳴ってもいないスマホを耳に押し付けて路地裏の闇に紛れた。あ、はい、柳楽です。ええ、そうなんですか? わかりました、すぐに行きます。
「ごめん、今、会社から連絡が」
「えぇー、休日に?」
「セントクリストファー・ネイビス連邦との取引にトラブルがあって。時差もあるし、急いで対応しないと」
「せ、せんす……なんちゃらは直希くんが対応しないとダメなの?」
「あそこの言語を話せるの、会社で私……俺だけなんだ」
正確には英連邦王国だから公用語は英語だが、ルイナには見抜かれないだろう。
「そ、そうなんだ……すごいね。でも、ルイナさびしいなぁ」
もじもじと体をよじるルイナを尻目に、私はホテル街を抜け出して駅まで走った。「埋め合わせは必ずする」などという気のきいた言葉は一切言わずに。
電車に飛び込んで一息ついた瞬間、私はマッチングアプリをアンインストールした。
翌日は朝から土砂降りの雨。こんな日に朝九時から出勤とは堪える。アルバイトとはいえ、柳楽直希が二年勤務している職場でヘマをすれば怪しまれるため、昨晩は映画館バイトの仕事内容をネット検索し、グループラインに入っているバイトメンバーの名前を覚えることに必死だった。結果、三時間しか眠れず寝不足だ。どうやら自分には変に真面目な一面があるらしい。
地下鉄で六駅先まで行き、駅前のショッピングセンターに裏口から入った。小汚い通路では従業員がバタバタと駆け回っており、ショッピングセンターの華やかさと裏方の雑然とした様子の落差に驚いた。
従業員エレベーターで四階まで上り、映画館のバックヤードに入る。やけに心臓が騒がしいのは、柳楽直希の知り合いに別人であることがバレることを恐れているからだろうか。いや、一度死んでいる私に怖いものなどないはずだ。
「お、おはようございます」
「ああ、柳楽くんおはよう」
デスクに座っている関西なまりの女性がこちらへ振り向いた。平行二重とぷっくりとした唇が特徴的な端正な顔立ちだ。ちょうど腰まで伸びた明るい茶髪を黒ゴムで結んでいる最中で、スーツのジャケットから見える胸元が強調されている。
「あれ、制服は?」
彼女は怪訝そうに言った。よく見ると、事務所の端の方で札束を数えている女性二人が同じ服装をしている。
「制服、着なきゃ、ですかね」
「どうしたん? 記憶飛んだ?」
図星を突かれ、思わずたじろぐ。
「あ、えっと……昨日バンドメンバーにギターで頭をぶたれて」
柳楽直希の特徴を意識しすぎたせいで稚拙な回答を口走ってしまい、冷たい汗が頬を伝った。
「なんやそれ。はよ着替えてきぃ」
「は、はい、すいません」
私は彼女に背を向けて扉に手をかけた。
「なんか柳楽くんらしくないなぁ」
扉を閉めかけたときに彼女が放った一言で、一気に心拍数が上昇した。早速しくじってしまったようだ。逃げるように『更衣室(男)』と書かれた部屋に飛び込むと、男の汗臭が凝縮されたような匂いが鼻腔に飛び込んできた。窓がないから換気すらできない。朝のうちにこんなに匂うのなら、遅番のときはどうなっているのだろう。
壁にずらりと並んだロッカーを一つずつ確認していったが、ネームプレートには数字しか書かれていなかった。どれが柳楽直希のロッカーなのか皆目見当もつかない。出勤まで残り七分しかないことに気付き、全身に汗がだらだらと流れはじめる。混乱を振り切るようにロッカーを一つずつ開け、柳楽直希と同じ匂いのするロッカーを探した。しかし、どれも柳楽直希の匂いではない。
「ちわー……って、え、直希さん?」
反射的に扉の方を向くと、短髪をワックスで遊ばせている童顔の男性が立っていた。頬には豆粒ほどの大きさのほくろがある。確かこの男性はLINEで自分の写真をアイコンにしていた大地吉永のはずだ。苗字と名前が逆の方がしっくりくるなと考えていたから、妙に印象に残っている。ひとこと欄には某有名大学三年生と書かれてあったから柳楽直希の年下だろう。なるべく平静を装ってため口で言葉をかけた。
「お、おはよう、大地。どうした、そんな顔して」
「それ、僕のロッカーなんすけど」
「えっ」
彼は訝しげに視線を送ってきた。慌てて野球部の部室のような匂いのするロッカーを後ろ手で閉め、表情を取り繕った。
「ご、ごめん」
「泥棒に転職っすか?」
口角は上がっているが眼光は鋭い。逃げるように視線を逸らし、「寝ぼけてた……」と頭をかきながらとぼけてみた。「俺のロッカーどこだっけ」語尾が上擦る。
「直希さん大丈夫っすか? 僕の左隣っすよ」
「あ、ああ、そうだった。だから間違ったんだった」
場所が近いという偶然に感謝し、何食わぬ顔で左隣のロッカーを開けた。かすかに柳楽直希の部屋の匂いがする。
「急がないと遅刻ですよ。今日フロアの早番、俺たち二人だけなんすから」
フロアと聞いて、昨日ネットで調べた情報を思い出した。確か、館内を清掃したり、映画が時間通り上映されているかを確認したりする担当のことだろう。他にもコンセッションという売店の担当になることもあるらしいが、作業が複雑そうだからそちらでないことに安堵した。
「ユメちゃん怒ると怖いっすから。『君ら、なんでやねん!』って。怒ってるのにそのツッコミしてるのがなんでやねんっていうか」
天井を仰ぐ大地の頬がわずかに赤らんでいる。関西弁の口真似から、ユメちゃんというのが事務所にいたあの女性であることがわかった。昨日調べた情報によると、映画館ではマネージャーと呼ばれる社員がアルバイトスタッフを統括しているらしい。恐らくユメちゃんという女性はマネージャーなのだろう。
「もうほんと、思い出すだけでユメちゃんかわいいわぁ~」
大地が熱に浮かされているうちに、そそくさと制服に着替えた。胸ポケットには名札がついている。匂いではなく名札で判断すればよかったと、今更ながら後悔した。肺にたんまり吸い込んでしまった汗臭を吐き出すように深呼吸をする。
「じゃ、行きますかっ」
いつの間にか着替えていた大地の快活な言葉に促され、暗澹たる気持ちで事務所へ戻った。
朝礼が終わると、ユメちゃんこと西宮由愛マネージャーから紙を渡された。上映中の映画の時刻表に、ゴマ粒ほどの細かい文字で謎の暗号が書かれてある。ところどころに柳楽直希の名前も。それが担当を意味していることはわかるが、何の業務を示しているのかは解読できない。紙を凝視しながら硬直していると、大地が顔を覗き込んできた。
「どうしたんすか?」
我に返って顔を上げると、もう事務所には私と大地しかいない。彼の胡乱な目を見た瞬間に心臓が跳ね、ぽろりと言葉が零れた。
「……ごめん、読み方教えて」
きっとどうあがいてもこうするしかなかったのだろう。単なるアルバイトだと高を括り、ネットの知識だけで何とかなると考えていたことが浅はかだった。世にあるどんな仕事も、ある程度の経験値がなければまともにこなすことはできない。職業に貴賎なしという言葉が戒めのように胸に刺さる。
「直希さん、朝から変っすよ? 泥棒したり、僕のこと苗字呼びしたり」
「あ、え、お、ごめん、吉永くん……」
「いつも呼び捨てっすけどね。ほんと、直希さん変」
ああ、終わったな。そんな諦念の嘆きが脳内でこだまする。仕事と同様、嘘を重ねることにも技術と経験がいる。きっと生前の自分は嘘が苦手な清い人間だったのだろう。そう思っていないとやっていられない。
「直希さん?」
もはや吉永の前で取り繕うのは難しい。それに、今業務内容を教えてもらわなければ他の人たちにも疑われかねない。逡巡の末、苦し紛れの言い訳をした。
「ごめん。実は……き、記憶喪失なんだ」
「き、記憶喪失? 映画でありがちなあれっすか?」
「あ、や、そんな大層なもんじゃないし、医者は短期で良くなるって言ってた。あ、でも、大事にはしたくないから、秘密で」
訥々とした喋り方になってしまい、言い終わった後に唇を噛んだ。また別種の嘘を重ねる自分にも嫌気がさす。聡そうな吉永にはこの言い訳すら見破られてしまいそうな気がして心臓が早鐘を打ったが、彼は案外すんなり受け入れたようだった。
「しゃーないっすね。今日は僕が一緒に回りますよ。その分仕事も二倍になるんで急いでくださいね?」
「あ、ありがとう」
「その代わり、また直希さんちのジュース酒、呑ませてください」
吉永は眩しい笑顔のまま翻り、歩き出した。彼の背中がやけに頼もしく見えた。
それから吉永は業務のやり方を丁寧に教えてくれた。フロアスタッフは、映画が時間通りに上映されているかを確認するために、上映前、予告終了後、上映終了後にスクリーンチェックをするらしい。暗号だと思っていた表記は、予告の時間などを表していたようだ。複数のスクリーンを担当するため分刻みで確認しに行く必要があり、走らないと間に合わないこともあるらしい。合間には清掃やチケットもぎりを行わなければならず、意外と重労働だ。特にバケツ一杯に溜まったジュースの飲み残しを運ぶのは苦行で、砂糖とドブを混ぜて煮詰めたような匂いに鼻が潰れそうになった。四十分同行しただけで息が上がっている。
「じゃあ、次は本編チェックっすね。こっからは直希さんが主体的に動いてください。間違ってたら指摘するんで」
「ああ、えっと、次は四番スクリーン。予告時間が十六分二十秒で、あと一分後に本編……え、こんなに予告長い映画ってあるの? 表記間違い?」
「いや、予告が長い映画も普通にありますよ。ほんとなんも覚えてないんすね。急ぎましょ」
「ご、ごめん」
吉永に急かされて広い館内を走り、四番シアターに入った。二千円近いお金を払って十六分も予告を見せられるのかと思うと、映画を観てもいないのに腹が立ってくる。
劇場内は暗く、冷房の風が肌を容赦なく冷やす。両手で自分の腕をさすっていると本編が始まった。叙情的なBGMが流れる中、日差しの照りつける屋上で高校生の男女が再会するシーンが映し出されている。
【一年ぶりに出会った君は、僕の記憶を無くした幽霊でした】
若手俳優の心の声を聞いた瞬間、心臓が歪な音を立てた。流し目で横を見ると、スクリーンの光に照らされた吉永の喉仏がわずかに動いた気がした。勘づかれたかもしれない。逃げるようにスロープを下って重い扉をこじ開けると、目の前に西宮マネージャーがいた。
「なんで柳楽くんが大地くん担当のとこにおるん?」
「あ、や……」
西宮マネージャーの眉間に薄いしわが寄っている。彼女からすれば私たちの行動は不可解極まりないだろう。目ぼしい言い訳が思いつかずに困惑していると、背後の扉が開いて吉永が現れた。彼女と私に交互に視線を向け、わざとらしく咳払いした。
「僕の時計が壊れたんで、時間見てもらうために直希さんを呼びました」
「そうなん? そういうときはシーバーで共有して」
「すんません。もう時計直ったっぽいので大丈夫です」
吉永がぺこぺこと頭を下げると、西宮マネージャーは腑に落ちない表情をしながらこの場を去っていった。吉永が思いを寄せている相手の前で恥をかかせてしまったことに罪悪感を覚える。頭を下げて「ごめん」と小さくつぶやいてみたものの、反応はなかった。
恐る恐る一瞥すると、吉永の鼻の下が伸びている。
「怒った由愛ちゃんもかわいいなぁ」
「ええ……」
ここまでくると重症だ。苦笑いしながら時計を確認すると、柳楽直希担当の本編チェックの時間が差し迫っていた。
「次、八番シアターに一人で行ってみる。色々ありがとう」
簡潔に伝えて走り出した瞬間、背後から声が飛んできた。
「あの、短期記憶喪失って」
泡を食って振り向くと、神妙な面持ちの吉永がこちらを見据えていた。
「都市伝説のアレじゃないっすよね?」
「とし……伝説?」
何のことかさっぱりわからず、思考が停止する。気まずい沈黙に狼狽えていると、吉永がふっと表情筋を緩めた。
「あの都市伝説自体を知らないんじゃ、違いますね。あ、あと三十秒で始まりますよ。止めてすんません」
その言葉を聞いてすぐさま身を翻した。吉永の意味深な言葉よりも、ヘマをして西宮マネージャーに怒られることのほうが気がかりだ。これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
全力疾走をして無事に八番シアターに着いた瞬間、ちょうど本編が始まった。乱れる息を必死に潜めて顔を上げる。
【お前もいずれ、人を殺す】
スクリーンに映し出された血みどろのゾンビの一言が、心を搔き乱した。
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