「死、のち殺人」第4話

 夜間託児所は雑居ビルの二階にあった。押しつぶされそうな心をなんとか奮い立たせ、階段を上る。
 錆びた鉄の匂いがする無機質な扉を開けると、子どもの泣き声が鼓膜に刺さった。
「鈴木です。すみません、遅くなって……」
「随分と遅かったですね。凛花ちゃんが最後です」
 女性の保育士はちくりと刺すように言った。あくびを嚙み殺しているように見える。接客業とはいえ、彼女がそういう反応を示すのは仕方がないだろう。
 剣吞な雰囲気を割くように、凛花がこちらに駆け寄ってきた。
「ママぁ」
 その瞬間、心の奥で何かが弾けた。先程までの不安を蹴散らすほどの高揚感。そして、涙腺を刺激するほどの感動。
 これはもしかしたら、母性なのかもしれない。昂る気持ちに身を任せて凛花を強く抱きしめた。
「ごめんね、待たせて」
「さびしかったぁ」
 凛花の体からあたたかな体温が伝播してくる。やわらかな肌に触れただけで、涙をこらえきれなくなった。
 中身は自分のはずなのに、鈴木萌桃の体に染みついている母性に扇動されてしまっているのだろうか。
「もう閉めますので」
「ごめん、なさい」
「……泣いてるんですか?」
 保育士は胡乱な目を向けてきた。大幅に遅れてきたうえに急に泣き出してしまったから、情緒がおかしい人間だと思われているだろう。しかしこの際、他人の評価はどうでもいい。
 指で涙を掬って凛花を抱き上げると、その寝ぼけ眼が愛おしく感じた。
 保育士に平謝りをして、託児所を逃げるように飛び出した。適当にタクシーを拾い上げ、途中でお金を下ろしてから自宅のマンションに帰った。今度の運転手は一言も雑談をしてこなかった。凛花がいたおかげかもしれない。
 自宅の中層マンションは高級感があり、エントランスにはシャンデリアが飾られている。柳楽直希のアパートとは大違いだ。新宿区内で立地もよいから、家賃は二十万円を軽く超えるのではないだろうか。
 エレベーターを降り、運転免許証の住所に書かれてある部屋に入った。間取りは二LDK。広くて綺麗だ。リビングにはカラフルなプレイマットが敷かれ、大量のおもちゃや絵本が棚に収納されている。
 一方で、見えるところに鈴木萌桃の私物が置かれていない。それどころか、子供用品以外は基本的な家具や家電しかない。その光景を見て察した。
 恐らく鈴木萌桃は、凛花を第一に考えて生きている。日中に仕事をしないのは凛花と過ごすためだろうし、マンションのセキュリティや充実した子供用品も凛花のことを考えて用意したのだろう。凛花を大切に育てていることは、凛花の懐きようからもわかる。
「ママぁ」
 たくさんのおもちゃがあるのに、凛花は鈴木萌桃の足にしがみついて離れない。きっと彼女が大好きなのだろう。
 間違いない。鈴木萌桃は、凛花のために風俗で働いている。
「もう遅いから、寝ようね」
「やだぁ。あそびたい」
「お日様がのぼったら、いっぱい遊ぼう」
「わかったぁ」
 子育てについてはまるでわからない。でも、一つだけはっきりしていることがある。
 私は凛花を守り通さなければいけない。鈴木萌桃の体から去る、そのときまで。
 
 それからの日々は怒涛のように過ぎていった。タクシーの運転手から聞いた話など考えている暇はみじんもなく、昼は凛花、夜は風俗のことで精一杯だった。
 大変だけれど、風俗に関しては精神的な負担は意外と少なかった。幸いにも性行為が一切ないし、中年男性に襲われそうになって以来、猪熊店長が客をかなり絞ってくれているから安心だ。常連客はやさしい人が多く、特に菊市草心きくいちそうしんという二十代の青年は毎日予約を入れてくれるのに、水着になることすら求めてこない。初めは緊張したが、今はため口で話すほどに打ち解けている。彼との時間は日々の息抜きになっていた。
 問題は育児だ。想像を絶するほどの壮絶さに疲弊している。当初は育児書を読み漁ったが、記述通りに行くことはほとんどなかった。朝ごはんはぐずって食べないし、絵本は七冊読んでも満足しないし、物は投げるわ網戸は破るわ、一体あの小さな体のどこにそんな力があるのだろうかと叫びたくなる。日中は丸々休みだから二人でのんびり過ごせるなと、一瞬でも考えた自分が浅はかだった。育児に休む時間などない。何日たっても、一向に慣れることはなかった。
 憑依してから六日目になると、体が鉛のように重くなっていた。凛花の夜泣きがひどいせいでほとんど眠ることができず、ひどい頭痛に悩まされている。気力だけで料理を作っていたら、機嫌を損ねた凛花がゴミ箱の中から使用済みおむつをひっぱり出して壁に投げつけた。あまりの大惨事に発狂しそうになる。
 暗澹たる気持ちで飛び散った排泄物を拭っていると、凛花が私に近づいてきた。
「ママごめん。なかなおりのあげる」
 彼女は私に絵を差し出した。色とりどりのクレヨンで描かれたたくさんの花だ。
「凛花……」
 涙腺が決壊し、涙をせき止められなくなった。私は汚れた雑巾を放り出し、無我夢中で凛花を抱きしめた。
 やわらかな体からぬくもりが伝わる。ひだまりのような匂いがする。本当の親子と錯覚してしまうほどの一体感を覚え、離したくないと思った。
 凛花のせいで辛い思いをしたのに、凛花のおかげで救われてしまった。
「ママ、くるちい」
「ごめんね……」
 急いで離れると、凛花は得意げに絵の説明をはじめた。赤いクレヨンで描いた花を指さしている。
「あかいのがね、ママ」
「へぇ、一番大きいね」
「だいすきだから」
 天使のようにまぶしい笑顔を見て、口角の緩みが抑えきれない。
「あおいのがね、パパ」
 無邪気な凛花を見るのは至福のひとときだ。でも、その言葉を聞いて胸がちくりと痛んだ。
「みどりがね、じいじ。おれんじがね、ばあば」
 心の奥底に亀裂が走る。
「ねぇ、みんなどこにいるの?」
「凛花……」
 私は先程とは全く別種の涙を流した。感情の起伏を制御することができない。だけど純粋な瞳を向ける凛花に対して、何も答えないわけにも嘘を言うわけにもいかなかない。
 不甲斐ない私は、話を逸らすという選択をした。
「こ、このピンクのお花もかわいいね。これはお友達?」
「うん。もんちゃん」
「へ、へぇ。じゃあ、こっちの黄色いお花は?」
「ゆーちゃん」
「凛花はたくさんお友達がいるんだね」
「うん! でも、ママがいちばんすき」
「凛花……」
「ずっといてくれる?」
「も、もちろん。ママは凛花とずっと一緒にいるよ」
「みんなも?」
「それは……」
 私が何も答えられずにいると、凛花は表情を歪めた。
「みんないっちょがいい!」
 凛花は絵を乱暴に放り投げて床にへたり込んだ。頭を撫でようとして手を伸ばすと、突然野良猫のように噛みついてきた。
「痛っ」
 右腕に歯形がくっきりとついている。凛花は悪びれることなく大声を上げた。
 絶望、感動、悲しみ、怒り……一体何種類の感情を何度ループすれば凛花は成長するのだろう。育児に携わってたったの六日なのに、心の芯が折れかけている。
 それでも私は凛花を叱るわけにはいかない。もちろん八つ当たりなんて論外だ。どんなに理不尽な目に合おうとそうすることは許されない。
 だって私は、凛花の母親じゃないから。
「みんないっちょがいいのぉぉぉ!」
 この部屋に、凛花の求める家族はいない。
 
 ふらふらの状態で出勤すると、猪熊店長から声をかけられた。
「モナミ、どうしたんだ。眩暈か? 貧血か? 脳卒中か?」
「……脳卒中だと、多分もう死んでます」
「死なないでくれ。お願いだ」
 西宮マネージャーの言う通り、猪熊店長はモナミに好意を寄せている。しかも露骨だ。普段は近寄りがたいオーラを纏っていて態度もぶっきらぼうなのに、モナミに対してだけは口調が柔らかくなり、感情の起伏がもろに声音に反映される。普段とモナミの前とでは、殺し屋と駄菓子屋のおじいさんくらいの落差があるといっても過言ではない。
「今日は予約が二件あるが大丈夫か? もちろん新規はいれない」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「無理するなよ」
 気遣いの言葉を受けて笑顔を向けると、彼の耳が紅葉のように真っ赤に染まった。
「モナミ……」
 猪熊店長は呆けたような口調でつぶやいた。それでも彼は、決して好意を暴走させたりはしない。告白はしてこないし、手も一切出してこない。上司と部下と言う関係にはきっちりと一線を引いている。
 ふと、西宮マネージャーの自嘲気味な笑顔が想起された。彼女も猪熊店長と同じく、吉永への想いを押し殺している。
 ただ好きなだけなのに結ばれない運命を悟っている彼らは、その辛さとどう向き合っているのだろう。生活に手一杯な私には、その感情を推し量ることができない。たとえ生前に同じような思いを抱いていたとしても、思い出すことすらままならない。
 淀んだ気分のまま部屋で準備を整えていると、突然後頭部に激痛が走った。唸りながらベッドに雪崩れ込む。まさか本当に脳卒中なのではないかと考えたあたりで、意識が唐突に途切れた。
 
 夢なのか、死に際なのか、もう一度死んだのかはわからない。ただ、漆黒で塗りつぶされた空間に燐火のような怪しい光が浮遊している。
 炎はたちまち膨れ上がり、漆黒の空間を焼き尽くしていく。燃えたぎる青い炎がプロジェクタースクリーンのような役割を果たし、その中に人の映像が浮かび上がった。
「きゃはは」
 凛花だ。夜間託児所の情景だろうか。周りには数人の友達がいて、楽しそうにおままごとをしている。もしかしたら、もんちゃんとゆーちゃんも一緒にいるのかもしれない。だけど凛花の友達の顔は一人もわからない。私はそんなことも知らないのだと悟り、束の間でも親の気分でいた自分に激しい自己嫌悪を覚えた。
「ママ。ママ」
 あどけない声を聞いて反射的に手を伸ばそうとしたが、今の私に実体はなく、なにもできない。もがいている間に凛花が刻々と消えていく。
「『空にまぶした命の雫は どんな色をしていたのだろう』」
 今度は柳楽直希が映った。ギターを弾きながら歌をうたっている。あの日の記憶が蘇る。
「『会わせてほしい あの日の君に』」
 彼が歌い終わると、吉永の笑顔が映し出された。直希さん、最高っす。彼の心地よい言葉が私に向けられることはもうない。
 柳楽直希の歌声も、吉永との時間も、指の隙間から砂のように零れ落ちた。
 最初は人生のボーナスステージだと思っていたのに、失ったもののほうが大きく感じられるのはなぜだろう。
「『ねぇ リリー もう一度だけ』」
 もう一度だけ、生きたい。
「モナミちゃん」
 声が聞こえると、燐火が一瞬で消失した。漆黒の空間に亀裂が入る。
「大丈夫?」
 上から声が降ってきて、ゆっくりとまぶたを開いた。何度か見たことのある顔が心配そうに表情を歪めている。
「草心……?」
「ああ、よかった。無事で」
 常連客の菊市草心だ。平行で太い眉毛につぶらな垂れ目。控えめで落ち着いた雰囲気を醸しており、中身も見た目を裏切らない。草食動物のような男性だ。
「私……痛っ」
 起き上がろうとすると、後頭部に微電流が走ったような感覚があった。
「無理しないで。横になったままでいいよ」
 草心の言葉には甘えてしまう節がある。少し上げていた頭を再びマットレスにつけると、あることに気付いた。
 私はまだ生きている。そのことを実感しただけで、形容しがたい感情が心の中に灯った。
「時間になってもモナミちゃんが来ないからびっくりして、慌てて駆けつけたんだ」
「ご、ごめん。急に後頭部が痛くなって」
 この店では時間になったら部屋の外まで客を迎えに行かなくてはならない。それをしないと怒る人がいることを猪熊店長から教わった。しかし、草心は私の失態を一切咎めないどころかやさしい言葉をかけてくれる。
「もしかしたら、後頭神経痛かもね」
「こうとう……」
「うん。後頭部に電流が走ったような激しい痛みが走るんだ」
 私の症状と全く同じだ。
「ストレスが起因していることもあるんだよ。モナミちゃんは気絶しちゃうくらい体が弱ってたってことだから、ほんと、休んだ方がいいよ。そうだ、今から寝る?」
「え、そんな、悪いよ」
 ソープの値段は決して安くない。私が寝てしまったら、草心はただただ数万円を失うことになる。さすがにその厚意に甘えるのはプロとして失格だろう。
「大丈夫。僕はモナミちゃんが幸せなのが、一番幸せだから」
 その言葉を聞いて、心の奥がじんわりとあたたかくなった。
「……じゃあ、十分だけ。そしたら起こしてくれる?」
「もちろん」
 草心はやわらかな微笑みを湛えた。見る者を安堵させる力のある表情だ。彼にすっかり心を許している私は、すぐに意識を手放してしまった。
 今度は何の夢も見ないほど深い眠りに落ち、アラームの音で目が覚めた。
「ふぁぁ……」
 だらしのないあくびが漏れ、思わず手で口を覆った。草心は手元の文庫本から顔を上げてにこりと微笑んだ。
「おはよう、モナミちゃん」
「おはよ……ってあれ、アラーム?」
 この店では十分前と終了時の二回アラームが鳴る。時計を見たら十分前だった。
「私、十分で起こしてって……」
「うん。十分前も十分でしょ?」
「もう……これじゃ草心に悪いよ」
「僕はいいよ。モナミちゃんの控えめないびきが聞けたから」
「え、私、いびきかいてた?」
「あ、言っちゃった。でもかわいかったから僕だけの秘密ね。他の人には見せちゃだめだよ」
 なんだ、この蜜のように甘い会話は。心の中で突っ込みながらも、まんざらではなかった。
 それから寝てしまった時間の埋め合わせをするかのようにたくさんの言葉を交わし合った。心地の良いテンポで、言葉がとめどなく溢れてくる。
 しかし、アラームは私たちを待ってはくれない。
「鳴っちゃったね」
「うん……」
 名残惜しい沈黙。草心は困ったような顔をしながら「でも、このあとも予約あるんだよね」と寂しそうにつぶやいた。
「なければ、延長するんだけどな」
「それはさすがに悪いよ」
「もしかしてもう喋りたくない?」
「そんなこと!」
「ごめん。ちょっと意地悪しちゃった。必死なモナミちゃんが見れただけでも元がとれたよ」
「草心……」
「次のお客さんまでは寝てなね」
 草心はそういうと、帰り支度を始めた。彼の貴重な時間とお金を費やさせてしまったことへの罪悪感で、咄嗟に言葉が飛び出した。
「草心!」
「ん?」
 ドアノブに手をかけている草心の動きが止まり、こちらへ振り向いた。
「あの……なにか、お礼をさせてほしい」
「いいよ、そんなに気を遣わなくても」
「気遣ってくれたのは草心のほうだよ。お願い。私にできることなら何でもする」
「そこまでいうなら」
 草心は腕組みしながらこちらへ戻ってきた。彼が近づくたびに鼓動が加速する。
「じゃあ……」
 草心はベッドの縁に座る私の隣に腰を下ろし、私の瞳をまじまじと見つめた。栗皮色の澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。体の芯からじわじわと体温が上昇し、のぼせそうだ。
「僕はモナミちゃんを――」
 抱きたい、と言われたらどうしよう。
 中年男性のときは体が拒否反応を示していたのに、草心に対しては違う。性欲が湧いているわけではないけれど、もし料金の対価としての性的行為を求められたとしたら応じない理由はないと思った。
 でも、この体はモナミの、鈴木萌桃の体だ。私が好き勝手にしていい訳がない。そもそも彼女は性行為を一切しないスタンスを貫き通している。風俗業界ではありえない話なのに、五十回面接で落とされようが諦めなかった。それはきっと、凛花との生活と自分の貞操の両方を守ろうとした結果だろう。その決意をないがしろにするわけにはいかない。
 だけど今この世界に生きている私は、感情のままに生きてはいけないのだろうか。凛花を然るべきときに叱れず、恩を感じている草心にお礼もできず、この先も自分の感情を押し殺し続けなければいけないのだろうか。
 そうだとしたら、私が今ここで生きている意味はなんなのだろう。
「確かめたい」
「……えっ?」
 自分の思考に囚われていたせいで、草心の言葉の意味を理解することができななかった。
「ご、ごめん。それって……」
「ああ……僕も言い方が悪かったね。上手くは言えないんだけど、つまり、えっと――」
 珍しく草心の発言が要領を得ない。何かを隠しているようにも思える。
「外で、会えないかな?」
「外で?」
「うん。実は僕、商売のフィルターを通してモナミちゃんを見るのが嫌だったんだ。だから性サービスを売りにしている風俗店であえて何もしなかった。あ、こんなこと言ったら嫌われちゃうかな」
「ううん、そんなことない」
「ありがとう。でもやっぱり、この空間にいるとキャストと客っていう括りが抜けなくて。だから最後の……というか見極め……ごめん、うまく説明できないや」
 草心はたどたどしく言葉を紡ぎ、緊張をほどくように息を吐き出した。
「つまり、僕は一日だけ、いや、数時間だけでも、モナミちゃんと外で会いたい。もちろん個人情報は何も教えなくていいから。ただ風俗という括りを外したいだけで……ごめん、気持ち悪いよね」
 今度は一息で言ってうなだれた。珍しく草心の感情の起伏が激しい。その姿がほほえましく感じ、心が浮遊している感覚に陥った。
「気持ち悪くないよ」
「本当?」
「うん、だって、私も会いたいから」
 言ってから顔が上気した。でもそれが、紛れもない本心だ。
 草心の不安顔がみるみる溶けて微笑みに変わっていく。
「すごく、嬉しい。あのじゃあ……いつなら、いいかな」
「えっと」
 具体的な日時を訊かれてから真っ先に思い浮かんだのは凛花だ。昼間に会うなら彼女をどこかに預ければならないが、今の私に頼れる人はいない。
 せっかくお礼をできるチャンスなのに早くも暗雲が立ち込めている。きまりが悪くなり、草心から視線を逸らした。
「やっぱり、ダメかな?」
 彼のしょげた声を聞き、胸の奥が激しく痛んだ。シーツをぎゅっと握りしめると、ある人物の言葉が耳の奥で再生された。
 ――困ったことがあったら、いつでも連絡してええよ。
「ううん、大丈夫。でも、すぐには答えられないから、少し待ってもらえるかな?」
「ありがとう。もちろん大丈夫。でも三日以内には会いたいな、なんて」
「わかった。じゃあ、都合がついたら連絡するね。えっとLINE……」
「あ、個人情報はいいよ。明日も明後日も予約を入れるから、そのときに教えてくれたら嬉しい」
 草心は何でもないことのように言ってくれたけど、それだと結局またお金と時間を奪ってしまうことになる。会えることは嬉しいが、それではお礼にならない。
「でも――」
 言いかけたとき、電話が鳴った。咄嗟に電話の元へ駆け寄って受話器を取る。
「モナミ。時間だいぶ過ぎてるけど、大丈夫か?」
 心配そうな猪熊店長の言葉に答えようとしたとき、草心が私の横を通り過ぎた。視線を向けると、小さく「ごめんね」とつぶやいてすぐさま部屋を出てしまった。
 なんだか名残惜しい。
「もしもし、モナミ?」
「あ、すみません……」
「心ここにあらず、か」
「え?」
 電話がぷつりと途切れ、静寂が落ちる。もういない草心が自然と頭に浮かぶ。
 心の中には、恋に似た淡い感情があった。

 翌日、凛花が昼寝をしている最中に西宮マネージャーに電話をかけた。映画館のシフトによっては仕事中の可能性も大いにあったが、彼女は二コールで出てくれた。
「ゆすりちゃうやろな?」
 開口一番の台詞としては物騒だが、西宮マネージャーはまだモナミを警戒しているらしい。
「違います。実は困ったことがあって」
「早速やな。どないしたん?」
 口調は荒いけど、彼女はなんだかんだやさしい。私は草心のことについて誤解のないように丁寧に説明した。
「つまり、男との密会のために子どもを見てほしいっちゅうことやな?」
 どうやら繊細なニュアンスまでは伝わり切っていなかったらしい。
「密会ではないですが……彼にお礼をするために、二時間……いや、一時間だけでも見ていただけないかな、と」
「そうしないと、職場に言いふらすんやな?」
 西宮マネージャーは茶化すような口調で言った。否定しようとした私の言葉を遮るように話を続ける。
「この前の食事代、一万超えたんやけどなぁ。高い口止め料払ったんやけどなぁ」
 それは多分、西宮マネージャーのお酒代が大半を占めている。だけど頼みごとをしている分際でそんなことはいえない。
 二の句を継げずにいると、「冗談やて」と明るい声で言われた。
「そんなことなら全然ええよ」
「本当ですか?」
「もちろん。そんで、いつがええんや?」
「時間帯はできれば日中がいいです。あと、彼が昨日、三日以内にって言ってました」
「よっぽどあんたに会いたいんやなぁ。うーん、明日はきついから、明後日の十四時から十七時はどうや?」
「え、三時間もいいんですか?」
「逆にそんくらいないと何もできんやろ」
 西宮マネージャーが女神のように思える。
「そろそろ休憩終わるから行くわ。当日の集合場所はLINEで」
「本当にありがとうございます。今度、お礼をさせてください」
「じゃあ、酒がおいしいところ頼むわ」
 西宮マネージャーはそう言うとすぐに電話を切った。風俗店の同僚という間柄なのに、なんだか距離が近く感じる。
 そして何より、草心と会う日を考えると心が淡い色に染まった。

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