泣きたい時に読む小説「追憶の彼方」
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プロローグ
私は今日も8時半に会社に到着し、いつものように自分のデスクに向かった。
転職してから半年、だいぶこの会社にも慣れてきたところである。
私は斎藤加奈子、27歳のOL。イラストデザイン関連の会社に勤めている。
パソコンを起動するとすぐにメールチェック。
主任からの返信はまだない。
ふと時計を見ると、もう9時を回っているというのに、主任である白川拓海の姿が見当たらない。
いつもなら30分前には出社しているのだが。
「おはよう、加奈子」
振り返ると、佐藤美咲が明るい顔で近づいてくる。彼女は私の大学時代からの親友だ。同じ職場で働けるようになったのは嬉しい限りだ。
「おはよう、美咲」
「拓海さんはまだ?」
「うん、変だよね。まだ来ていないわ」
私がそう言うと、美咲が大きな瞳を丸くした。
「えー!そんなの初めてでしょ。あの人が遅刻なんて。大変だわー」
「そうね...」
不安になりかけたその時、エレベーターが開き、拓海の姿が見えた。
「あ、来た来た!」
急いで自分の席につこうとする拓海だったが、つまずいて机にぶつかってしまう。
バタン!という大きな音が部屋中に響いた。
「大丈夫ですか!?」
私が駆け寄ると、拓海はうなだれて謝罪した。
「ごめん。ちょっと身体の調子がよくなくて」
そう言う拓海の顔は真っ青だった。
主任が具合悪いなんて、部下の私としては気が気ではない。
「大丈夫ですか...?顔色がよくないですね。休憩室で休みませんか?」
「うん...そうだな。ごめん、ちょっとそうするよ」
拓海は謝るように頭を下げると、休憩室に向かって歩き出した。
ドアが閉まるまで、私はその背中を見つめていた。
「あれ?拓海さん、具合悪かったの?」
美咲が怪訝そうに尋ねる。
「うん、全然顔色がよくないもん。休憩室行ったわ」
「こりゃ大変。仕事大丈夫かなぁ」
「まぁでも、私がフォローするから大丈夫。顔色が戻るまでゆっくりしててほしいわね」
そう言うと美咲が私に向かい、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
彼女ならきっと気づいているはずだ。
私が拓海のことを特別な目で見ていることに。
「ふふふ、好きでしょ? 拓海さんのこと」
「な、なに言ってるの!そんな...」
慌てて口ごもる私に、美咲がクスクスと笑う。
「好き好きー。バレバレでしょ」
「だ、黙ってて!」
顔を真っ赤にした私を見て、美咲は満足げにうなずいた。
「わかったわかった。秘密にするから」
そう言う彼女の姿は、まるで私を応援してくれているように見えた。
それから数時間後、拓海から、仕事を代わりにしてほしいというLINEが入った。
身体の具合が思わしくないので、残りの予定をキャンセルすることにしたとのこと。
私はどきっとした。拓海はあんなに仕事に打ち込む人間なのに、体調不良で仕事を押しのけるなんて異常事態だ。
「拓海さん、大丈夫かしら...」
心配になった私は、彼が退社するまで気になって仕方がなかった。
それから数日後、私は拓海から呼び出しを受けた。
「すまないね、加奈子。あの日は心配かけて」
謝る拓海の表情が歪んで見えた。あの日以来、彼の顔色はよくなっていない。
「大丈夫ですか...?顔色がまだあまりいいように見えません」
「うん、調子はまだ戻ってないんだ」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
拓海が深刻な表情でそう告げると、私は強く胸騒ぎを覚えた。
なぜか、胸の奥で何かが迫ってくるような気がした。
第1章 過去と始まり
拓海からの呼び出しを受けて、二人きりの空いている会議室に通された私は、ドキドキしながら彼が話し出すのを待った。
「ごめん、ちょっと重い話になる」
そう前置きして拓海が口を開く。
「実は、先日の具合の悪さは、ちょうど亡くなった妻の三回忌だったからなんだ」
「え...」
思わず漏らした声に、拓海は苦笑した。
「びっくりしたか。前にも言った通り、事故で妻を亡くしている」
「そうでしたね...」
私の歓迎会でその話をしたことがあった。でも詳しい事情までは聞いていなかった。
「三回忌の日に妻の面影を見た気がしてね」
「目の前から姿が消えた時は、本当にショックだった…」
話をする拓海の表情は曇っている。私はそっと自分の両手を握り締める。
「大変でしたね...」
「ああ、想像以上につらかった。頭がグーっと締め付けられるようで、何も覚えていないんだ」
拓海は深くため息をついた。
「普段から妻のことはずっと気にかけているつもりだったんだけど、仕事の忙しさもあって三回忌を忘れていたとはね」
「後悔したよ…」
そう言って拓海が唇を噛んだ。私はなにも言うことができずにいた。
「ありがとう」
「君にこうして話せてすっきりした」
「いえ、私の方こそ。話を聞かせてもらって」
拓海がにこりと笑顔を見せる。ほっとした表情でよかった。
「ちょっとこれ見てくれる?」
そう言うと、拓海がスマホを操作し、ひとつの写真を見せてくれた。画面には拓海と笑顔の女性が写っている。
「これが亡くなった妻の美優なんだ」
「君とは正反対のタイプだったかな」
「なんとなくわかります。全然似ていない気がします」
笑顔を見せる拓海に、私も微笑んだ。
その後、拓海は美優のことや過去の事を色々話してくれた。
そして私は、そんな彼を支えていきたいと思った。
数日後、私たちはレストランで二人きりの食事をすることになった。
「あの日は話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、私も話を聞かせてもらって」
照れくさそうに頭をかいている拓海がとてもかわいらしく見えた。
その頃から、私たちは公私ともに接点が増えていった。拓海からのLINEの頻度が高くなり、食事に誘われることも多くなる。
「加奈子、この前の店っておいしかったよね」
「うん、とても!また行きたい」
「じゃあ次の休みにまた行こうか」
「えっ、じゃあそれは...」
ドキドキしながらそう聞き返すと、拓海がにっこりと笑った。
「そうだね、デートだよ」
はっきりそう言われて照れる私に、拓海は優しく頬をなでた。
これが恋と呼ぶものなのだろうか。胸がいっぱいになる思いだった。
こうして私たちは交際を始めたのだった。
第2章 距離を縮める日々
交際を始めてから数ヶ月が過ぎた頃のことだった。
ある日のランチタイム、拓海から誘われ二人で外食することになった。
「ここのパスタ、すごく人気なんだ。絶対美味しいと思うよ」
店をすすめる拓海に導かれ、古びた建物の二階にある小さなイタリアンの店に入った。
「おぉー、いい雰囲気!」
レトロな内装に明かりが優しく当たる。大人の隠れ家のような居心地がよさそうなお店だ。
食事を注文すると、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「なんか、ワクワクするね」
「そうだな、なんだか楽しい気分だね」
会話も弾み、料理も美味しかった。楽しいひとときを過ごせた気がする。
それからというもの、拓海はよくこうして二人きりの外食に誘うようになった。
「今日はどこがいいかな」
「うーん、迷う! 拓海のおすすめある?」
「そうだなぁ...じゃあここどはうかな」
指で示された場所を地図で確認すると、ちょっと遠くのお洒落な街にあるカフェだという。
「おー、行ってみたい!」
「じゃあさっそく行こう」
その日もまた、会話は尽きることなく楽しいひと時を過ごせた。
こうして次第に二人の距離は縮まっていき、ますます仲睦まじい関係が築かれていったのだった。
第3章 わたし
数か月間の交際を経て、私たちの仲は益々深まっていった。
ある連休の初日、拓海から呼び出された。
「ごめん、ちょっと付き合ってほしい用事があるんだ」
「別にいいけど、なんの用事?」
「実家に帰省しようと思うんだ」
拓海は都会からはそう遠くない田舎で育ち、ずっと田舎暮らしをしていた。
そして、拓海は一呼吸置いたあとに言った。
「美優のお墓参りをしようと思うんだ」
拓海が深刻な表情でそう言うと、私は少し驚いた。
前妻である美優のことを想起させられる場所だ。
「そうですか...大切な用事ですものね」
「うん。ずっと行けてなかったから、ちょうどいい機会だと思って」
「付き合ってくれるかい?」
私の心の中に少しもやもやする部分もあったが、笑顔で答えた。
「はい、喜んで」
その日は二人で電車に乗り、拓海の実家がある田舎町へと出かけた。
拓海の両親は温かく迎え入れてくれた。
「ただいま。お邪魔するよ」
両親は優しい表情で微笑んでくれた。
そして、美優のお墓参りへと向かった。
道すがら、拓海が昔を懐かしむように話しかけてくる。
「美優とはこうやって手を繋いであるいてたんだ」
ふと立ち止まり、拓海がそう言った。
「ここでよく喧嘩もしたよ。お互いわがままだったからね」
私はなぜか、そう話す拓海のことを愛おしく思った。
「そうだったんですね」
微笑みを含んだ拓海の目に、懐かしさが滲んでいる。
お墓に着くと、拓海は墓石に向かって両手を合わせた。
私も習って手を合わせる。
その時であった。私を奇妙な感覚が襲う。
胸の奥底からこみ上げる想い。涙が止まらない。
「そう…………..だったんだ………..」
私は呟きその場にしゃがみこんだ。
エピローグ 3年前
美優が事故で他界する数時間前の出来事だった。
その日の朝、二人は口論を始めていた。
「いつもそうよね、約束を守れないんだから!」
立ち上がる美優に向けて、拓海が大声で言い返した。
「俺が悪いのかよ!仕事だろうが!」
「仕事があるなら最初から断ればいいのに...」
美優の声は張り詰めている。今にも泣き出しそうなのを必死でこらえている。
「急に仕事が入ったんだ。仕方ないだろ...」
拓海が理不尽そうに言うと、美優は口を噤んだ。
「...わかった。じゃあ用事もあるし出かける。気分よくなったらLINEするから」
ドアを閉める音がして、美優の姿は消えた。
「はぁ...」
拓海は大きくため息をつくと、仕事の準備にとりかかった。
それから時は過ぎ、日が傾きかけた頃の出来事だった。
拓海が美優からの連絡を待っていると、代わりに父親から電話がかかってきた。
通話したその内容が、拓海の人生を狂わせることになる。
電話に出て
「もしもし、父さん?」
と言った瞬間だった。
『事故が...美優ちゃんが...』
それだけの短い言葉だった。
美優が交通事故に遭い、病院に運ばれたがもう手遅れだったことを知らされた。
慌てて駆けつける病院。そこで待っていたのは、微かに呼吸だけをする美優の姿だった。
拓海は自分を呪った。
今朝、自分が仕事より美優を優先していれば。
「美優…..」
「美優………..」
その手を取る拓海。
だが美優の意識は戻ることなく
やがて生命反応が途絶えた。
拓海はその場に崩れ落ちた。
優しい言葉も
二人で過ごそうとしていた未来も
すべて奪われた。
それから半年も経たずに
拓海は美優との思いでが詰まった地元を離れることを決意した。
そして
イラストデザイン関連の会社に就職する。
そこへ新たに入社してきたのが加奈子だった。
エピローグ2 追憶の彼方
斎藤加奈子という人間は元々存在しなかった。
そして、私は白川美優なんだと悟った。
これが自分の使命なのだと気づいた瞬間だった。
過ぎ去った日々や、言葉にできなかった思いが走馬灯のようによぎる。
私は再び立ち上がりながらつぶやく。
「ねぇ、拓海」
「私はずっと一緒にいたかったよ」
声を震わせながらつぶやくと、拓海は振り返った。
「毎朝、目覚めた時に顔を見られるように。おやすみのキスがほしかった...」
「喧嘩も多かったけど、ずっとあなたの事を大切に思ってた...」
思い出すたびに痛みがよぎる結婚指輪。
美しかったウエディングドレス姿。
幸せなはずだった新婚生活を想い、拓海の瞳に涙が浮かぶ。
「本当はずっと言いたかった」
「…愛してる…」
「こんな私を、愛してくれてありがとう」
そして私は
微笑みを浮かべながら、ゆっくりと光へとともに消えていった。
これで思い残すことはもうない。
すべてを伝えることができた。
「ごめんね、拓海」
「また一人にさせて」
そう言う私の言葉はもう、拓海に届くことはなかった。
おわり。
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