たかが散歩、されど散歩
散歩が好きだ。
目的もなく、ただフラフラと気が赴くままに足を運ぶのは自由を感じる。
自転車で走り抜ければ見逃してしまうような小さな路地を見つける。
あまり人が入らないであろう路地の両端にはアスファルトを打ち破って雑草が生い茂り、ひっそりと小さな花を付けている。
誰に見られるでもなく咲く花は可憐で美しく、けなげさを感じる。
また時間に縛られず疲れたら公園で腰を下ろしたてボウっとしたり、喉が乾けばコンビニでコーヒーでも買って片手に持ちながらブラブラと歩く。
気分が乗れば普段は通らない道を冒険気分でどんどん突き進む。
すると「こんな所に百均ショップがあったのか」とか「こんな所にお寺があるんだな」とか、今だに蔵が敷地内にある立派な日本家屋があったり、家の玄関周りの植木が素敵だなと思ったり・・・小さな発見が幾つもあって楽しい。
でもこの散歩が簡単にできるようで実は難しいのだ。
主婦という者は目的もなく外出できる程の自由な時間がたっぷりあるわけじゃないし、あったとしても外出前に「出かけてくる」と家族に一声掛けなくてはいけない。
いや、掛けるべきなんだろうと思っている。
なぜなら主婦は自分の所在を家族が把握できた方が些細な問題が起きた時に「もうどこ行ってんの、○○どこにあるの?」「おらんからご飯なに食べたら良いかわからんやん」など後から文句を言われなくて済むからだ。
家の中で母親はいつでも居て当たり前の便利な何でも屋さんという役割だ。
だから一言「散歩行ってくる」と言うべきなんだろうけど、これが面倒くさい。
せっかく出かけたいと思った気持ちに水を差す気がする。
自ら発した一言で「出かけたい」は「出かけなくちゃ」に変わってしまう。
私は気ままが好きなのだ。
その場の気分で行動したり、しなかったりする事に自由を感じるので自分の内側にある散歩行こうかなという思いを周りに伝えてしまうと、数秒後にやっぱり辞めたとは言えない。
実際に辞めないと判かっていても、もう辞める選択肢が消えてしまう事に不自由を感じてしまうのだ。
つまりこの瞬間に散歩の楽しさは、まるで用事の一つにでもなった様に急につまらなくなってしまう。
それともう一つ。
そもそも散歩というものは暇を持て余した老人のするイメージで、主婦にそんな時間が有るなら、階段に溜まった埃を掃除するとか天気が良ければシーツを選択するとか、つまりもっと優先してやるべき事があるだろうと思ってしまい、後ろめたさを感じるのだ。
こうして主婦としての立場が私をがんじがらめにする。
おそらく私が勝手に自分で自分を縛ってるだけなんだろうけど昭和生まれの私には、こうあるべき主婦像が無意識にあってそこから逸脱しないようにしているんだと思う。
ちびまる子ちゃんやサザエさんのお母さんの様に母親は家族のために常に家庭内で家族を見守り、サポートする存在なんだと洗脳されているのだろうか。
あぁ、昭和だなと思う。
そんな事は普段は意識しないから自分でも身体に染み付いた昭和の価値観に驚く。
でも自分の中の無意識を意識レベルに上げたのは前進かも知れない。
散歩ひとつ例にとっても私は私を窮屈な枠にはめていた。
まずここから変えないと気軽な散歩は実現しないんだろうなと思う。
読み返すと、すごく些細で恥ずかしい。
そんな文章を最後までお読みいただきありがとうございました。
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