年老いた親を見て思うこと
私の母は88歳で最近はかなり衰えてきた。
耳が殆ど聞こえないから意思の疎通が難しい。
加えて幻聴もある。
毎朝「起きろー、いつまで寝ている!」と𠮟られて起きるらしい。
ところが本人はこれを幻聴だと理解できなくて誰の声だろう?と不思議がっている。
あと物忘れが激しいのと買い物の計算は出来なくなった。
それでもまだ自力で歩けるし、簡単な家事はこなせる。
在宅で仕事をしている弟が母と暮らしてくれているので本当に有り難い。
母は会うたびに「足が痛い」「腰が冷える」「もう死にたい」とこぼす。
確かに思うようにいかない自分の身体に振り回されて辛いのだろうけど、ネガティブな言葉を聞くと私も気が滅入るしイラつく。
私のメンタルだって常に落ち着いてるわけじゃない。
日々の波風に耐えながらなんとか生きている。
だからつい「私だって死にたい」と言いたくなってしまう。
「もう少しやん、ここまで生きてんからもう少しで死ねるから辛抱してや」と心の中で呟く。
でも私は思う。
こうして日々、衰える人間の姿を目の当たりにするのは私の将来の身に起こる事を見ているんだなと。
今から心の準備をさせてもらっているんだなと。
親は子供が生まれたら世話をするのが当たり前だ。
でもこうして親が死に行く姿を見せるのも親の最後の役割かも知れない。
小さい子供にとって親は正しい存在だった。
親の言う事は無条件で正しいに決まっている。
そう思いながらも少し大きくなると矛盾が見えてきて、更に大きくなると親もただの人間なんだと悟る。
自分の価値観を押し付けてくる厄介な存在に変わる。
うっとおしいと思いつつ、でも親を心配させるのは悪だと思い人並みに生きるため努力を続けた。
そうした私の人生は全て自分の人生だったのかと悩む時もあった。
密かに親の顔色を伺う人生ではないのかと思う時もあった。
でも今ではそれも全て含めて私の人生なのだと思う。
今こうして目の前に年老いて不自由を訴える姿は、刻々と死へ近づく者の姿だ。
リアルな死だ。
死は私にとって未知で得体の知れない恐怖がある。
母が歩く死への道をいつか私もたった一人で歩くのだろう。
でもその道を母が歩いたと思うとなぜか死への恐怖がほんの少し和らぐ。
一人で歩く真っ暗な道を先に歩く母が明かりを灯してくれている気がするからだ。
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