エヴァと父恋とオトナをやれない僕らの話

『エヴァンゲリオン』という作品は、煎じ詰めると「父恋」の物語だったような気がする。と、今さらながらに思ったので、とりあえず書き残しておこうと思う。

なお、私は筋金入りのエヴァアンチである。そんな奴がなぜこんなものを書くかと言えば、配偶者が熱烈なエヴァオタで、新規の考察に飢えまくった結果、アンチの視点すら美味しくモグモグできる特殊能力を獲得してしまったからだ。


そういうわけなので、どうしようもなくトンチンカンなことを言っている可能性もある。その場合は速やかに記憶のページをぺぺいっとちぎってポイしてほしい。

では、始めよう。


まず、エヴァ作中において、「親ないしはその代理をやれる大人の不在」というのは今までにも多くの人から指摘されているポイントなので、これは視聴者共通の前提として良いと考えている。

さらに言うなら、「母親」的な存在が、まあいない。


惣流・キョウコ・ツェッペリンさんにしろ、赤木ナオコさんにしろ、子供を産んでも母になりきれなかった「女」には事欠かないのだけれども。


これは、シン・エヴァでトウジくんと結ばれた委員長が登場するや否や、世話焼きおばちゃんたちがわらわらと湧いて出たのを見るに、それ以前は意図的に「描かれなかった」のだと思う。

シンジくんたちの通っていた中学校にも、肝っ玉母ちゃん風の先生や給食のおばさんの1人や2人、いてもおかしくなかったにもかかわらず。


「母親(的な大人)の不在」と言うと、「いや、ユイさんがいるだろう」という反論が出そうだが、あの人は本当に、「母」だろうか。


碇ユイという人物は、いっそ潔いほど徹頭徹尾、碇ゲンドウという男のファム・ファタールであって、その他の属性は(やたら盛り沢山ではあるが)全部オマケみたいなものだ。


「主人公の母」という超重要な立場をなぜオマケ扱いかと言えば、これは単純明快で、息子であるところのシンジくんが全くもって「ユイさんを恋しがらない」からである。


この点に関して、物心つく前に別れていたからだろう、という指摘は当たらない。

シン・エヴァの回想シーンを見る限り「多少なりとも記憶に残る年齢では?」と私は感じたが、それが個人差の問題で本人がまるで覚えていないとしても、例えば『ピグマリオ』のクルトは自分が赤ん坊の頃に石像にされた母のために旅立っているのだ。


一般的な中学生男子と比較しても、シンジくんは「母への思慕」が薄いタイプ、と言って差し支えないと思う。


では、ミサトさんはどうか。

29歳のワーカホリックに14歳のシンジくんの母親代わりをしろというのはそもそも無茶だが、例の「大人のキス」を見て見ぬふりしたとしても、母性とは縁遠いタイプだ。


考えるにあの人は、シンジくんと対を成す「父恋」の人である。


実父との間に確執を抱え、にもかかわらずセカンドインパクトの際に「父が自分を庇って死んだ」事実によりそれが宙ぶらりんなままになり、加持リョウジという人と恋仲になった際も「恋人に父親役を求めてしまっていた」ために別れた、という過去がある。


個人的には、これを大学生くらいの年齢で自覚できたというのは凄いと思う。

私の幼かりし頃、地域差はあるにしろ女の結婚はまだそこそこの割合で、「パパの代わりに庇護してくれる男性を見つけること」と≒だった。


ミサトさんは年齢的には私より6歳下だ。

セカンドインパクト後の世界が現代日本より過酷だったというのもあるだろうが、それでも若くして、依存的な恋愛のありようを「良くないもの」とする価値観を有していたわけだ。


ちなみに加持さんに対しては、惣流・アスカ・ラングレーという女の子もまた、「父親」的な温もりを求めて好意を寄せていたわけだが、これは別に加持さんが父性溢れる人物であることを意味してはいない。


彼にはスパイ適性の高さがあり、『スパイ・ファミリー』のロイド・フォージャーと同様に、相手の求める人物像を演じることができたというだけなのだろう。


実際のところ、加持さんはゲンドウさんと同程度には「父親」に向かない人である。

サードインパクトの際にミサトさんを生き残らせる、ただそれだけのために孕ませて「あとはよろしく」をかましたわけで、これから生まれる子には無責任極まりない。


ただ、父性に飢え、かつ一般的な父親像がどういうものか知らないミサトさんは、加持さんの「父親」適性のなさに気づいてはいなかった。これはおそらく、シン・エヴァでの最期の瞬間までそうだったと思う。


葛城ミサトという女性は、「母親」たりえない人だった。それは間違いない。実の息子のリョウジくんも「産んだだけ」で育ててはいない。

さりとて、「女」の生き様でもない。


彼女が何の役割を果たしたかと言えば、ずばり「父親」である。

「一度も伝えられなかったが我が子を愛していた」、「我が子の生きる世界を守るために死んでいくことに悔いはない」、これぞ「ザ・昭和アニメの父」像ではないか。


『ふしぎの海のナディア』のネモ船長を想起させたのもむべなるかな、である。

要は、南極で亡くなった葛城博士の影を追い続けた人生だったのだ。そして、加持さんが生きていればしたであろうことを成して、葛城博士よりも満足できる形に着地し、「父を超えた」ことによって救済を得た。


「リョウジくんの母」として見れば疑問しか湧かないのは当然で、あれは生涯かけて「父恋」を完遂した姿なのである。


さて、シンジくんの話に戻ろう。

「母恋」要素はゼロの彼だが、その代わりとして表出したのが、「父に愛されたい、認められたい」という欲求だったと推察される。


普通に考えれば、ユイさんがいなくなった途端に「育児なんぞ無理、愛し方がわからん」と投げ出したゲンドウさんなど、自分の人生に「なかったもの」としてさっさと見限っても良かったのだ。


ところが、シンジくんは父に執着し、それがゆえに面倒臭いことこの上ない使徒との戦いに身を投じた。


赤木母娘への不実など、男の中のドクズの部分は知らずとも、父として尊敬できるタイプでないことはシンジくんとて先から承知だったはずだ。

それでもなぜゲンドウさんにこだわったかと言えば、自分の生きづらさのルーツが父にあること、同じ苦しみを知る者同士であることを、薄々察していたからではなかろうか。


他人を拒絶しながら排斥を恐れ、殻にこもることでちっぽけなプライドを守りつつも、その実、己の怯懦を恥じている。少しばかりオツムの出来がいい陰キャの思春期には「あるある」である。


「俺もそうだった。辛いよな」と他ならぬゲンドウさんから語りかけられさえすれば、シンジくんはかなり救われただろう。とは言えまだ中学生、父に反発する心の奥底で、真に希求していることは何かに気づけぬままだったとしても責められない。


母の愛ではなく父の承認を求める息子。これは、90年代にエヴァが衝撃を与えた「斬新さ」の中の1要素だったと思う。

家父長制は旧弊と見なされ、さりとて「男らしさ2.0」などという言葉はまだなく、当時の子供たち、特に男子はおそらく、父と子のあり方に新たなモデルを求めていた。


その心の隙間を突いた手際は見事で、「俺たちの庵野」と熱狂した信者の一部はそれこそ「庵野監督に理想の父を投影する」レベルの傾倒をしていたように見えた。そのためにいわゆる「厄介ファン」を大量に生んでしまった面も否めない。


それだけに、ゲンドウさんが単にシンジくんにとっての「超えるべき壁」を演じて終わるのではない、「自分たちの気持ちをわかってくれる」結末への期待は大きかったのではないかと思われる。


しかしながら残念なことに、この問題提起に対する作中での回答は、いささか肩透かしだったと言わざるを得ない。

ゲンドウさんの共感能力の欠如たるや凄まじく、ちょっとばかり年齢を重ねたり人間をやめたりした程度では、到底埋まらなかったのである。


TVシリーズから25年、紆余曲折を経た完結編ことシン・エヴァにおけるシンジくんの結論は、「父が我が子を愛せない人だったことを諦める」だった。


ファム・ファタールと再会し満足して去るゲンドウさんを見送るシーン、私には「父さんは母さんを見送りたかったんだ」ではなく、「父さんは母さんに引導を渡されたかったんだ」にしか見えなかった。


これで仮にシンジくんがユイさんのことを母として慕っていたらもはや罰ゲームとしか言いようがなかったので、その点はまだしも幸いだったと言うべきか。


いずれにせよ、ゲンドウさんは「ユイだけが全て」の世界から半歩たりとも動くことなく、いや、選んで動かなかったと言うより、どうあってもそこから動けなかったという感じだろうか。


他者の苦しみに鈍感かつ自分の痛みには敏感、それでいて傷ついても表には出せないという若かりし頃のメンタリティのまま、「わかってくれるのはユイだけ」の幻想に逃げ込み続け、ついには出られなくなってしまった。


そう、幻想だ。誰も作中では突っ込んでくれなかったのが不思議だが、ゲンドウさんが言うほどユイさんはゲンドウさんを大事にしていないし、誰よりも理解し支えてくれるつもりでいたなら、そもそも初号機のコアにダイブしていないと思う。


ああ、なるほど、だから「父さんは母さんを見送りたかった」につながるのか。

天秤の片方には理想化した聖母への重すぎる執着が載っている。釣り合いを取るには最低限、「ユイは私の唯一の理解者だったが、私もまたユイの最大の理解者であった」と言えるくらいの自負が必要だったというわけだ。


果たしてシンジくんに残されたのは、「父は不器用な人だった」という受容の道だけだった。

それが大人になるということだとしても、いやマジで、「地獄に落ちろ、クソ親父」くらいは言ってやっても良かったと思う。


それにしても、なぜ王道の「母恋」要素を排除して「父恋」全振りだったのだろうか。

と考えたところで、はたと気づいた。モチーフが「天にまします偉大なる父」を崇める某世界的宗教だからか。

神に愛される弟を妬んでアベルを殺したカインと、使徒に成り代わろうとしたゼーレ、あれも根っこは同じ、息子の「父恋」だったのか。そしていずれも、片想いは切なく破れた。

何とも難儀なことである。まあ、八百万の神を信じて暮らす人間には、よくわからない話だが。