注目は人を狂わすか
某YouTuberの炎上に関して、いろんな人がいろんなことを言っていた。
人命を軽視するのはもちろん良くないし、引き合いに出された猫も迷惑だろう。辛口だからと言い訳するのも見苦しい。
ただ、様々な批判を目にする中で、ちょっと引っ掛かっていることがある。きちんとまとまっていない拙い論だが、3点ほど語らせてほしい。
1. 例の発言によるメリット
これは1つだけ、明確にある。
と言っても、炎上で話題になることではない。一時の再生数のためだったとすれば自分の足を食う蛸と同じで、到底長くは生き残れないだろう。
ブランディングとしてはマイナスが大きすぎる。
それと相殺しうる要素としては、「知りもしない人から『助けてほしい』と期待されなくなる」くらいのことしか考えつかないのである。
「あなたは強くて恵まれているのだから、無償で私を苦しみから救ってくれ」という要求は、ちょっとでも名前の売れた人のところにはジャンジャン舞い込んでくるらしい。夫のところにも来たそうだ。
例の人は「人間の心理に詳しい」というイメージで売っていたので尚更だろう。
その度にいちいち「すみません無理です」と言い続けるだけでも相当な負担だし、下手をすると逆恨みされかねない。
それを防ぐには、「自分は悪い奴です」と表明してしまうのが手っ取り早い。とは確かに思うのだ。
2. 善良な市民のダブルスタンダード
「影響力のある人が言ったら信じてしまう馬鹿がいるかもしれない」と不安がる声には、1人のオタクとして「我々もそれでさんざん苦労したのに?」と言わざるを得ない。
「ゲームの影響で人を殺したくなった」だの「AVの影響で性加害をしても許されると思った」だの、犯人の発言としてセンセーショナルに報道される度に、私たちは「それとこれとは別だ、一緒にするな」と憤慨し続けてきたのではなかったか。
私のTLには見当たらないが、例の発言を受けて実際に「そうだそうだ」と言っている人はいるらしい。
だが、その言葉を頭から信じてはいけないと思う。犯罪の「もっともらしい言い訳」としてオタクコンテンツが槍玉に上げられたのと同じになってしまう。
賛同している人にとってはたまたま「都合のいい言い訳」が降ってきたにすぎない。ニュートラルな人が差別意識に引っ張られたわけではない。
まともに空気が読める人なら「ここは反対しておかないと村八分だ」と察知して、非難や遺憾の表明をする。
あれに煽られる人は、そもそも社会不適合に苦しんでいたのではないか。
3. 〈無敵の人〉に通じる部分
無差別殺傷事件が起こる度に、〈無敵の人〉になってしまったら止められない、そうなる前に防ぐシステムが必要だと言われ続けてきた。
あの暴言を「皆が思っていることを言っただけ」と擁護した人は、あるいはその予備軍かもしれない。
だからと言って「危険思想だ」と社会正義の棒で叩けば解決するかと言えばそうではない。
「将来に対する不安」が暴挙に繋がったという意味で言えば、先日列車内で牛刀を振り回した犯人と、例の発言は地続きではないかとも思う。
都合の悪い存在を排斥しようとする姿勢をいじめっ子に例える人もいたが、とすると例の人やその賛同者に必要なのは専門家によるカウンセリングではないだろうか。
今後抗議を受けて謝罪したとしても、その段階では本心からの反省はほぼ見込めない。
「なぜそう思ったか」を辛抱強く聞いてくれる人がいて、その奥にある辛さを自分で掘り起こして初めて、あの発言が弱い立場の人を傷つけ、怯えさせ、属性による分断を煽ったということに気付けるのではないかと思う。
ここからは余談だが、例のYouTuberには、実は個人的恨みがあった。
人生においては何の関わりもないのだが、過去にカウンセラーの夫に向かって「あの人みたいにやればいいのに、なんでやらないの?」と抜かした有名人がいたせいだ。うっかり信じそうになった夫に「そんなトンチキに耳を貸すな!」と私が怒ったおかげで今の平和がある。
何事も堅実に積み上げるのが一番だ。と、わかっていても行く道には罠が仕掛けられているのかもしれない。