共感争奪サバイバル、いっち抜っけた〜っと

ネット記事を読み漁るのが好き、というよりは金がかからずいつでも中断しやすい暇つぶしとして有用である、ということなのだが、いずれにしても元・活字中毒者なので毎日のようにあれこれ読み散らかしている。

たまに、おっ、役立つ情報だ夫に送っとこう、とか、これは面白い切り口だなあ夫に送っとこう、とかいうこともするが、だいたいはふーんと流してすぐ次、となる。

そこで気になるのがコメント欄だ。いつも読み終わったタイミングでちらっと目に入る位置にある。熱のこもった長文を見かけるとつい「もっと見る」を押したくもなる。

ただ、記事にもよると思うが、心温まるような言葉はあまりない。ライターの制作物を安直に消費している私と違い、それを読んで多少なりとも心動かされたからコメントを残す手間をかけているのだろうに、総じてどこか冷笑的なのだ。

貧困を取り上げた記事には自己責任論が吹き荒れるし、婚活で苦戦する人の体験記には何か人間として致命的な欠陥があるかのようなレッテル貼りがなされる。

一番顕著なのが事件の加害者の生い立ちなど「情状酌量の余地」を追ったタイプの記事で、被害者(や遺族)の辛さを思えば犯人の苦しみなど些細なものだ、大げさに言い立てて世間の同情を引こうとするな、というような反応がずらっと並んでいたりする。

さながら「カワイソウ杯」争奪選手権の様相である。叩かれるような落ち度がなく人に妬まれる要素を持たず不幸な境遇でも健気に頑張っている一部の上位入賞者だけが、他人様の応援や称賛を得られる仕組みなのだ。

「共感の奪い合い」という言葉は、限られたリソースの配分に苦慮する弱者支援の記事から学んだのだが、世の中のかなり広範囲で、優しさは日々ケチられている。

もっとしんどい人がいるのだから弱音や愚痴など吐くべきではない、という理屈で他人の口を塞ごうとするのは、よろしくない傾向には違いない。

しかし、いつか自分がその立場になったとき「黙って死ぬ」選択肢しかないルートに分岐フラグを立ててしまうからやめておけ、という説諭も、よくよく考えると一種の脅しを孕んでいて、逆ベクトルで他人の言動をコントロールしようとしている。

弱音や愚痴を封じ込めようとする圧力は、実は、他人のそれに対し同情や共感を示さねばならないというプレッシャーの裏返しだ。自分と無関係の苦悩を、ふーん大変だね〜(鼻ホジ)でスルーできる人間には、その必要がそもそもない。

いちいち真面目に心痛めてしまう人が、自分にも余裕がないことに苦しんで、「どうせ何もしてあげられないんだから、悩みなんか話さないで」とシャットアウトを試みるのだ。

となれば、「自分の中に溜め込んでると死にたくなるから積極的に吐き出して行こうぜっ!」という号令は、正しいけれどもそれだけでは不充分である。

どんなくだらない悩みも吐き出してOK、ただその代わり、自分にとってどれほど重大な悩みでも「ごめーんわかんないや、でも辛いんだね〜」という「通じなさ」を許容しなければならない。

職場の同僚レベルならそれも仕方ないと思えるのに、親しい友人や恋人、家族など、関係が近ければ近いほど許せなくなりはしないだろうか。

「わかってあげられなさ」への自責の念は、たやすく他責に転化する。それこそが非寛容の根源だ。人は必ず理解し合えるはずだといううるわしい希望が息苦しさを生む。何とも壮大な矛盾である。

常に他人の苦しみに寄り添うことを強いられれば、自己防衛のため、苦しんでいる人を身の回りから排除せざるを得ない。平穏に見て見ぬふりをするために、苦しみを声高に訴えたりするな、と黙らせにかかるしかなくなる。

この人はこれこれが辛い、と知る。その事実認識だけでひとまず良しとすべきなのだ。その辛さに心を寄せて、解決に向けて一緒に悩むコストを払うかどうかは、聞いた側に選択権がある。

「理解はできないけどそういうものがあることは受け入れる」という存在肯定は、「共感できない/されない」ことの受容と対になっていて、片一方だけでは成立しない。

無理をして歩み寄ろうとすると、相手にもそれを強要したくなる。親子だろうが夫婦だろうが、お互いわからんものはわからん。自戒も込めてここに記しておく。