「ナニモノか」になりたかった話
「ナニモノか」になりたい。昔、と言ってもつい数年前まで、強くそう思っていた。
「ナニモノか」とは、辞書的に訳すなら「ひとかどの人物」というのが適当だろうか。
もう少し正確に言語化すると、「富と人望と名声を得ていて、わけもなく死にたくなったりしない人」である。
ここで重要なのは、最後の1点だ。前の3つはそのためにある。それだけ揃っていれば人生を肯定できるだろう、という無責任な想像の産物だ。
「希死念慮」というフレーズは小難しすぎてイマイチしっくり来ないのだが、小学生くらいの頃から、謎の死にたさがしょっちゅう襲ってくる性質だった。
「飛び降りたい」「首吊りたい」と物騒な衝動が、ぶわっと膨れ上がるときがある。最初のうちこそ恐れおののいたが、死ねない理由を1つ2つ数え上げて、少し時間を置けば落ち着く。
本気で人生に絶望するほどの苦悩があったわけではない。要は「誰にも責められない形で面倒くさいこと全てから逃げたい」のだ。
「誰にも」というところがポイントで、私を一番責めてきたのは他人ではなく私の中の私、いわゆるところのインナー姑であり、であるからにはたとえ世界の果てまで行っても追いかけてくるのは明白で、ゆえに「逃げたい」と「死にたい」はニアリーイコールで結ばれてしまった。
このインナー姑の生誕は、30年以上も前、私がまだ肩かけかばんで保育園に通っていた時分のことだ。
物心つく前から毎日預けられていたくせに、私は保育園が大嫌いな子供であった。記念すべき初登園の日、滅多にもらえない甘いお菓子に見向きもせず、赤子にあるまじきド根性で朝から夕方まで泣き続けていたというのは、保母さんからの話として、母に繰り返し聞かされた。
おそらくは幼いながらに親に捨てられたと勘違いしたのだろうが、登園拒否が続いたのは、そのときのイメージを引きずったせいではないと思う。
若くして結婚し無理をして一軒家を買った両親は、その頃経済的に困窮していた。片道2時間かけて通勤し土日もほぼ仕事だった父は、育児に関与できる余裕はなかった。働きながら子供2人の世話をしていた母は、常にキャパシティがぎりぎりで、優しいときと苛立って子供を邪険にするときのギャップが大きかった。
今にして思うに、近年言われるようになった「愛着障害」の典型的なパターンで、主たる育児者から離れるのが不安でしょうがなかったのだ。
いつまで経っても馴染めず毎朝のように大泣きする私に、母も保母さんたちも手を焼いて、「もっと小さい子も泣かないでママにバイバイできるのに、あんたはなんでダメなの、ほら笑われるよ、恥ずかしいよ」と子供のプライドを刺激する方法で泣きやませようとした。
結果的にはこれが大失敗で、私は余計に保育園(というより自宅の外の世界全般)を忌避するようになった上、「自分は親を困らせる悪い子だ」「良い子でなければ愛されない、親にとって必要ない」と強固に思い込んでしまった。
魂に刻まれた魔女の呪いだ。大人になって別の家庭を持った今でも、時々、ふいっと暴れ出す。
何か失敗したとき、やるべきことができないとき、「なんてダメなんだ、どうして他の人が普通にやっていることができないんだ」と責め立ててくる。
不出来の度合いが合格ラインから遠いほど、強く咎められて嫌になる。それが怖くて死にたくなる。そしてまた、甘ったれだと詰られる。
ぺしゃんこになるまで叩かれるのがわかっていて、苦手なことに挑戦する勇気など持てなかった。その消極性も、「是正すべき欠点」としてあげつらわれる対象だった。
私は、「死にたくならない人」になりたかった。「死にたくならない人」であるところの姉が羨ましかった。
仕方がなかった、それはわかる。あの当時、母の収入がなければ生活が立ち行かなかった。休めばダイレクトに給料に響くパートで、病気ならいざ知らずただ行きたくないというワガママで、子供を休ませたりなどできなかった。
3歳まで母に育てられた姉が情緒的に安定していたのは生来の性格によるところが大きく、3歳児神話にエビデンスはない。子供のお菓子1つ買えない経済状況で、母が仮に専業主婦として私の育児を担っていたら、親子関係はもっと壊滅的にこじれていただろう。
毒でも何でもない、客観的に見ても良い両親だ。ニュースで見るような家庭内の闇とは無縁の、ごく健全な家だった。
それなのに、生まれて数年の間に入った心のヒビのせいで、その後いくら愛情を注がれても満たされなかったというのは、親の立場からすれば理不尽だと思う。自分はもともと出来損ないだったのでは、と疑惑も湧く。
完璧な親などいない、家を買う時期と2人目を作るタイミングをほんの少し間違えた、そんな些細な落ち度をいつまでも根に持っていてどうする、という良心の声がする。だがこれも、インナー姑の言葉だと思うともやっとする。
インナー姑は基本的に、間違ったことは言わない。私がより良くあるために、正しい道に導かなければという責任感の塊だ。「普通」の規格に適合した、世間様から後ろ指を差されない私だけを求めている。
逆立ちしてもその要求水準を満たせそうになかった頃、正確には10代後半から30歳過ぎまで、私は「ナニモノか」になりたいと願っていた。
富と人望と名声、全部は無理でも、1つでも人から認められる何かがあれば、インナー姑に脅かされずにすむと思った。語ってウケを取れる人生ネタもないくせに、長らく作家志望だったあたりに必死さが透ける。
「浮きこぼれ」も歓迎せず、中学校の定期テストで学年1位を取っても大して喜ばなかった母が、東京都の読書感想文コンクールで3位の賞状をもらったときだけは心から褒めてくれた。その小さな成功体験を後生大事に抱え込んでいた。
父も母も、子育ての途中で、「明るく友達がたくさんいて積極的」という「あるべき良い子」像への期待を手放した。進路に干渉もされず、自由に生きていいと言われていた。
捨てられなかったのは私だ。ほんの幼い頃に親の規範から生まれたモンスターを、年月をかけて育て上げてしまって、いつの間にやら切り離せない自分の一部になり果てていた。
疎んじていたのに離れられなかった。一緒に生きる以外にないなら、多少なりとも気に入られる自分になることが、共存のための最善だと思い込んでいた。
「自己受容」というのは難しい。
つい最近、「ナニモノか」になりたかったことを夫に話したら、「今からなったっていいじゃん」と言われた。特になりたいとは思わなかった。昨今は有名税が高くなりすぎてメリットが薄いから、と答えたが、よくよく考えてみると、「ナニモノか」を目指す動機をすでに失っていただけだった。
ひょんなことから、「自分に嫌われない自分」になることが叶って、このところインナー姑は至っておとなしい。私が結婚して、出産して、正社員の登用試験に通って、望まれる「普通」からとりあえずはみ出さずにいるからだ。
めでたしめでたし、と素直には言えない。インナー姑が年を取って丸くなったというのもあるにはあるが、無邪気にそう信じると、幻想だったと思い知らされるに違いない。
真の和解の道は、まだ見つかっていない。