江戸のカタキと長崎と
「江戸のカタキを長崎で討とうとするな」と、私は常々主張している。
その相手が本当にカタキなら、「ここで会ったが百年目!」となっても、「どうぞご存分に」と刀を差し出すところなのだが、大体は単にちょっとばかりカタキと似た「属性」の人でしかないからだ。
その属性というのも、性別・世代・収入の多寡・パートナーの有無くらいの雑なくくりである。下手するとカタキとの共通点は「日本語を喋る」というだけだったりする。
それで「此間の遺恨覚えたるか」と松の廊下を演じられたらたまったものではない。
傍観者でもドン引きだが、吉良上野介でも何でもない被害者側からすれば辻斬りに遭ったような話で、「この恨み晴らさでおくべきか」と自覚的に思う思わないは別として、どこかで鬱憤を晴らそうとするのは仕方ない。そうして江戸のカタキは日々、拡大再生産されていく。
誰も得しない構図である。にもかかわらず、人はその連鎖をなかなか止められない。正直に言えば、私自身も。
理由の1つには、受けたストレスの解消には何らかの代償行為が必要だということがある。仕事が忙しいと酒や煙草の量が増えたり、理不尽な扱いを受けたら家族や友人に愚痴らずにはいられなかったりする。「埋め合わせ」のやり方は人それぞれ違い、ゆえに状況によっては他害性を発露させてしまう人もいる。
それで帳尻を合わせているので、我慢して飲み込んでばかりいると心身のバランスを崩してしまう。「他人、それも弱い立場の人にイライラをぶつけるのは、なるべく避けましょう」と提唱するくらいがせいぜいで、「自分をすり減らしても耐え抜きましょう」とは、少なくとも私には言えない。
2つ目に、おそらく「心」というものは、最初に傷をつけられたときの痛みと、古傷を抉られたときの痛みを区別できないのだ。故意か過失か、そもそも自分に向けられた矛先か否かも関係ない。
だから一般論として提示された話に勝手に傷つくし、「よくもこんなに深い傷を負わせてくれたな!」と感じてしまう。そこを「おいおい、それは元々あった傷だろう、怒るにしても『無遠慮にカサブタ引っぺがしやがって』くらいがせいぜいだ」と制止するのが理性である。
その理性を働かせるには、自分の心の傷がどの辺りにあるのか、自分自身で把握しておく必要がある。
でないと、毎度「新しく傷をつけられた!」と思い込み、「自分ばかりがひどい目に遭う」と悲劇の主人公モードに陥りかねない。傍から見ていて被害者意識の強すぎる人というのは、往々にしてそういう傾向にある気がする。
その心の古傷を、俗に「地雷」と呼ぶ。他人からすればどこに埋まっているのかわからないのだから、言い得て妙だと思う。
ところが、本人なら埋まっている場所を知っているはずとも言い切れないのが難しいところだ。地雷を埋めたのはその人自身ではない。ここは強調したいポイントである。
いわゆる「毒親」「毒親戚」持ちなら物心つく前に植え込まれている場合もあるし、成人後でも「このくらいは普通」と圧力をかけられたら、「ふざけんな、嫌なものは嫌だ」と突っぱねられる人ばかりではない。「この痛み、覚えがある…もしや古傷?」と気付くこと自体、ある程度のハードルはあるのだ。
結局のところ、「江戸のカタキを長崎で討つな」というのは、たまたま今現在幸福な人間のタワゴトでしかない。それでも言うのは、今現在幸福な人間の務めだと思っている。
人の業(カルマ)の闇から抜け出して、美味しいものでも飲み食いして、「ひゃー幸せ〜!」と感じる方がマシだぞ、と。言えるうちは訴えていく。それも将来の陰徳陽報を期待して、という生臭い話だけれども。