ベルリンのコミュニティガーデン:Prinzessinnengarten
'May, 2017
2017年5月、ドイツの首都ベルリンの中心部にあるコミュニティガーデン、Prinzessinnengarten(プリンセスガーデン)を訪れた。
ベルリンの街は大都会。今までに行ったヨーロッパの他の都市と比べても、街の規模やその喧騒の大きさは一層際立っている。まだ5月後半だというものの、この年はヨーロッパ全体で特に暑く、すでに真夏の雰囲気で、それもあって街全体がなんだか陽気で楽しそう。その反面、ドイツと聞くとどことなくイメージするような堅物な雰囲気もそのままで、通りを走る車の運転は荒々しく、バスの運転手は堅苦しいドイツ語で常に怒鳴っている。いろんな意味で雑多な街だからか、そんな自由で豪快な雰囲気と、ドイツ特有の堅苦しい感じが同居するような、どことなくドイツの都会はそういう印象がした。ただ旅行で来ているだけなのに、街を歩いてもちょっとビクビクしてしまう(ときもある)。でもヨーロッパ各国のホステルを泊まり歩いていると、なんとなく話が弾むのはドイツ人だったりするから不思議。
プリンセスガーデンは、そんな大都会ベルリンの中心部、オラニエン通りとモリッツ広場に面した一区画にある、小さなコミュニティガーデン。市民が協働でオーガニックの野菜を育てながら、みんなが自由に過ごせるようにオープンスペースとして解放されていて、大都会のちょっとしたオアシスのような空間が広がる。
日本でも、「公共R不動産」など都市計画系やソーシャル系のメディアで紹介されていて、この場所の様子は前情報として知ってはいたものの、実際に訪れてみると「本当にここ?」と思うような、ごちゃごちゃした地区の雑踏の中にある猫の額ほどの小さな場所。それでも中に入ってみると、そこは木々に囲まれた気持ちのいい空間で、「移動可能な畑」としてたくさんの野菜やハーブがプランターに植えられていて(その数500種類以上)、小さな屋台のカフェレストランでは、そこで採れた野菜のメニューやドリンクを提供している。実際に、会社の帰りにビールで一息つくスーツ姿のサラリーマンがいたり、一人でのんびり読書をしたり、仕事の打ち合わせに利用したりと、地元の人たちがゆっくり過ごす場所として市民に親しまれていた。
他にも、自転車の修理工房や卓球台、養蜂箱や物々交換の棚などがあり、どことなく自由でピースフルな雰囲気が流れていて、その至るところにメッセージが掲げられている。それらは環境や食、都市のあり方や社会に対する投げかけであり、さらに利用者によって新たなメッセージが重ねられていた。単なる市民農園という以上に、この場所の元々の始まりや運営方法も含めて、市民によるクリエイティブな社会実験が現在進行形で起こっている場所という印象がある。
ベルリンはその街の景観に東西分裂の名残を今でも残していて、ベルリンの壁の一部が「イースト・サイド・ギャラリー」というモニュメントとして保存されている他、壁の跡地が帯状の広場として町中に広がっている。細長く伸びたその広場を歩いていると、壁の左側と右側では建物の雰囲気や景観が明らかに違っていて、なにげないこの場所が、以前は決して往来することが許されなかった分断の跡地であることに不意にハッとさせられる。
このプリンセスガーデンは、壁崩壊後の再開発から取り残された都心の空き地を、2人のアーティストが不法占拠したことから始まる。それ以来たくさんの人たちが人種や文化的背景を越えて集まり、ボランティアとして共にガーデニングを楽しみながら、野菜の販売やレストランの収益、スポンサーからの寄付や融資によって運営が続けられている。一度はベルリン市から立ち退きを命じられたものの、住民による署名活動によって撤回され、現在は年間の賃料を市に支払う形で維持しているそう。まさに「みんなで参加して、みんなで決めて、みんなでつくる」住民たちのボトムアップによる民主的な活動として注目されている。
「私たちは単に作物を育ててガーデンを維持しているだけではなく、公共空間を住民の主導でどのように利用していくか、私たちの都市の生活の新しいあり方をどのように創造していくかという問いを投げかけているのです。」(プリンセスガーデンを紹介するビデオより)
大学でランドスケープや建築、都市計画を少し学んでいた時に、「ヨーロッパと日本では、プライベートとパブリックの認識が違う」と教ったことを覚えている。当時はどんなふうに違うのかわからなかったけど、北欧やヨーロッパに何度も通うようになった今では、その意味がなんとなく理解できるようになった。このプリンセスガーデンに限らず、ヨーロッパの広場や公園は市民や観光客によって自由に親しまれていて、そこにはその街の雰囲気や人々の活気が反映されている。そこは決して、日本のように「公共の場所だから他の人の迷惑にならないように綺麗に使いましょう」と強制される場所ではないし(ただ日本の都市は圧倒的に綺麗だけど)、少なくとも公園は禁止事項や注意書きで埋め尽くされていない。都市の空間に限らず、とくに北欧では誰もが自然を楽しむ権利「自然享受権」が文化として保証されていて、たとえ個人が所有する土地であっても、自然をみんなで共有し、自然の中で楽しく過ごしているのが羨ましく思えたりもする。
京都のような(田舎の)都会に住んでいても、例えばちょっと出かけたい、どこか外でのんびりしたいと思っても、そういった場所は限られていることに気づくようになった。おしゃれなカフェやゲストハウスといった都市の新しい流れや、海外からの異文化の交流があちこちで起こってはいるものの、結局のところお金を介した消費活動に誘導されていて、極端に言うとお金がないと何もできない。お金でしか買えないクールでクリエイティブなイベントや空間も悪くはないけど(むしろ好き)、消費し続けることしか選択肢がないことに、時に疲れたりつまらなさを感じてしまうのも確か。お金がある人もない人も、あらゆる立場の人が集まる公共的な場所は、パブリックな空間にこそあまり見られないのかもしれない。もっと言ってしまえば、「みんなで使う」公共という認識以上に、「みんなでつくる」民主主義の考え方自体が、日本とヨーロッパでは大きく異なっているような気がしてしまう。
例えばこれから都会でも田舎でも、空き家や放棄地が増え続けて、身近な環境がどんどん歯抜けになっていく。それは自然も同じで、手入れされずに放棄された森や畑は次第に荒れ果てて、誰にも使われない、入れない場所になっていく。京都も西陣の路地裏は空き家が増え続け、徐々に取り壊されて殺風景な駐車場に変わり、京都らしい昔ながらの景観も空き地ばかりが目立つ、つまらない場所になっていく。土地の所有者からすれば、維持管理が容易で定期的な収入にもつながる駐車場が合理的な利用方法だし、価値にならない田舎の土地は放棄されていだろうけど、そうした資本に常に回収されてしまわずに、空いた空間を住民が自分たちで楽しめる場所として利用していくようなボトムアップのアイデアが必要なんじゃないかとも思う。例えばベルリンのプリンセスガーデンのように、パブリックとプライベートの境に新しい息を吹きかけて、新たな価値を生み出すような。
(そんな場所が千葉で始まっているそう。行ってみたい。https://hellogarden.jp/)
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僕は今まで、北欧の野外教育に関わったり、個人的な興味でヨーロッパのコモンズプレイス(公共的な場所)をいくつか訪ねてきました。民主主義の根幹が揺らいでいる中で、その思想と社会の仕組みが生まれたヨーロッパで、いろいろな暮らしや場所のあり方を考えてみたいです。
参考文献:https://prinzessinnengarten.net/about/
Written in August, 2019
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