すっぽん・かっぽん その1
「時に土方さん、最近亀田川で河童を見た者がいるという話をご存じでしたかな?」
「河童ですと?」
訝しげな顔を見せた土方歳三に、小野権之丞は頷きで応えた。
明治二年五月八日。朝から青空の広がった箱館弁天台場。
小野権之丞は弁天台場から遠からぬ弥生町にある箱館病院で事務方の頭取を勤めていた。
もとはと云えば歴とした会津藩士であり、藩主松平容保が京都守護職として在京中は共に京にあり公用方の職を勤めた。
守護職預りとして誕生した新選組の副長をまかされていた土方とは、旧知の、そしてその後の長い闘いの中で強い絆で繋がれた同志でもあった。
小野は藩に在っては次席家老の任にあったほどの切れ者と呼ばれたが、鶴ヶ城落城の後の動乱を潜り抜け、縁あって身を寄せた榎本政権下では、かつての縛りから解放されたかの如く飄逸さを増した人物であった。
年齢は土方の十五歳上である。
昨七日、弁天台場を拠点に各地で作戦行動に出ていた新選組は、箱館の街を抱くように聳える箱館山山中において、地雷火を仕掛けようとしていた不審な五人の男達を斬り、負傷捕縛したこれらの者を箱館病院分院のある高龍寺へと送っていた。
箱館病院は院長高松凌雲のフランス仕込みの博愛精神のもと、敵兵といえどもこれを味方同様に手厚く看護した。
高龍寺分院でもこれらの者の寛容なる処置を求めていたので、小野がその折衝役として台場の新選組本陣を訪ねたわけである。
土方は、すでにかつて京洛において鬼と恐れられた新選組副長はなく、エゾ共和国ともいえる榎本武揚軍の陸軍奉行並の地位にあったが、この日は古巣ともいえる新選組の行動予定と作戦の確認を兼ね、五稜郭を出て同じく台場を訪れていたところだった。
「小野さん、戦続きの中で、河童たぁまたのどかな話だが、私の耳には入っておりません。
それは何処から出た話なのですかな?」
「病院に野菜を納めてくれる亀田村の次郎という百姓が見たと申すのです。そ奴は『かっぽん』がござったと申すのですがな」
「かっぽん、ね」
「この辺の在の言葉であろうかな。ともかく、一昨日の夜のことだという。亀田の八幡の社からまだ上の、もう五稜郭に近い辺りだったそうだ」
その夜は箱館特有の初夏の海霧の出た夜だった。次郎が近所の百姓仲間のもとへ今後の戦の見通しと、避難について相談に行った帰りのことである。
当時の亀田川は現在とは違って川幅も広く、複雑に蛇行しながら亀田八幡宮の脇を流れて箱館湾へと注いでいた。今の田家町・白鳥町の辺りは一面の草叢で、そんな藪を切り開いた数軒の農家があるだけだった。
仲間と少々の酒を飲んだ次郎が小用を覚え、何となく道から外れた時、川端の草叢を掻き分けるガサガサという鈍い音がした。
ひょいと顔を上げた時、次郎は我が目を疑った。
そいつは霧に霞んだ月明かりの下で、真っ黒のようでもあり、緑色にてらてらとぬめったようにも見えた。最初子供かと思ったほど小さかったが、子供とは思えない異様な威圧感を感じた。次郎の知るどのような着物を着ているようにも見えず、かといって箱館ではもうだいぶ前から見慣れた外国人の着る服にも見えなかった。髷はなく、べったりと濡れた藻のようなものが顔を覆っているようであり、何より頭頂部に薄白い皿を載せているように見えた。
「か、かっぽんだ!」
昔ばあ様から聞いた話を思い出し、次郎は思わず声を上げた。
すると、そのわずかな声に反応したかのように、怪しいモノはあっという間に草叢の中に踵を返し、どぼん、という重い水音だけが残ったのだという。
いっぺんに酔いの醒めた次郎は我が家へ飛んで帰ると、そのまま布団をかぶって震えていた。
翌朝、果たしてあれは夢ではないのかと、恐るおそる昨夜の場所へ行ってみたが、確かに草を踏み分けたような痕跡はあるものの、ただの農夫である彼にそれ以上の発見はなかった。
「馬鹿バカしい。敵の間諜に決まっていますよ」
土方と共に小野の話を聞いていた巨漢が声を発した。箱館新選組頭取の島田魁である。
京都における新選組の初期からのメンバーであり、隊随一の腕力を誇った男は鳥羽・伏見から幾多の修羅場を共にくぐり抜けて来た土方の腹心であった。
「現に昨日の箱館山の奴等だっているじゃないですか。五稜郭の堀に水雷火でも仕掛けに来たんでしょう。あるいは城内に潜入し、総裁の首を狙うか、井戸に毒でも放り込むか」
「しかし、あなたたちは恐ろしいことを平気な顔で言うもんだ……」
小野は苦笑いをした。
彼らをそんな男達にしたのは他ならぬ会津藩であることを彼は誰よりも知っていたからである。
「どう思われます、土方さん?」
「ふむ。大方君の考えの通りだろう。しかし、河童とはな……」
土方はなぜか子供っぽい笑みを浮かべ、遠い目をしたように見えた。
エゾに渡って来てからの土方歳三は、かつて京童にまで鬼と呼ばれた峻烈な顔をどこかに置き忘れたかのようだと、昔を知るすべての人々に評されていた。もちろん、松前城攻略戦や二股防衛戦など、戦いにおいては過酷さを少しも譲ることはなかったが。
しかし、そんな小野や島田の目からしても今の土方の表情はあまりにも穏やか過ぎた。
「小野さん、まだ時間は大丈夫ですか」
少年のような顔をしたまま土方が言った。
「時間とは?幸い捕虜たちの処遇は森君や島田君が請け負ってくれたので私の用件はすべて済んだが、まだ何か?」
「座興に付き合って頂きたい」
「座興とは?」
「なに、河童さ」
土方はまた可笑しそうに笑い、
「島田君、君もだ。それと蟻通君も呼んでくれ。酒もつけてな」
「土方さんまだ昼前ですぜ。それに河童の座興って一体何ですか」
「まあ、たまには良かろう。俺が亭主だ。付き合えよ」