蝉鳴り その8

夜毎に私は悩ます悪夢は、一定の傾向やパターンがあるものでもなく、又、昼間中にあれだけ私の神経をかきむしる蝉の声にも無縁だった。

 荒れ果てた工場の閉ざされた門があった。私はいつからかその前に立ちつくしていた。門と朽ち果てた建物の間には、灰色のぬかるみが続き、その泥の中に半身を埋めた男の子の遺体があった。
 私の目はその光景から離れることができず、何分も何時間も、どんよりと濁った空の下で、少年の亡骸を見つめているのであった。
 またある夜は、私は病院のベッドに横たわる患者だった。
 隣のベッドの患者を見舞いに来ていた女(しかし私は反対側を向いて寝ていて、それが女なのかもはっきりとはわからないのだが)が、いきなり私の上に乗りかかり、蛇のようにくねくねと絡みついたかと思うと、急に私の首をグイグイと締めつけるのだ。
 私はなぜ隣の人がそれに気づいてくれないのかといぶかしみながら、必死で暴れようとするのだが、身体は化石にでもなったかのようにビクとも動かず、叫び声を上げようにも、喉はただゼイゼイと鳴るだけなのだ。これが金縛りというものだと後で思った。
 見知らぬ夜の路地にいたこともあった。闇の中で粉雪が絶え間なく降り続いている。それは私の故郷の町のようでもあった。
 路地に面した家並みは、どこもしんと寝静まっている。
 その中の一軒、黒い影だけが雪空に浮かび上がる一軒の前で,一人の琵琶法師が座って、一心に琵琶をかき鳴らしている。嫋々としたその調べは、降りしきる雪の奏でる旋律とまごうかのように、私の耳に鳴り響いている。
 私の立っている闇の中から、ともかく灯りのある通りに出るためには、その路地を突っ切らなければならないようだった。
 私はできるだけ琵琶の音を聴かぬよう、口中で何か唱えながら駆け出した。
 しかし、私の足が琵琶法師の前まで達した時、恐怖もまた頂点に達した。
 雪明かりがぼんやり照らした青白い顔が目に入った瞬間、私はその横顔を思い切り殴りつけていた。どうと朽木倒しに崩れたその白いものを、私は狂ったように踏み付け、蹴り続け、その獣じみた息遣いの中で私は、汗にまみれ虚空をつかんでいる自分に気がつくのであった。

画像はお借りしました




 夏は長く辛かった。窓辺の風鈴は、自らの重さでその息の根を止めた死刑囚で、その真下の机の上には、今日も送られて来た就職情報誌矢、説明会の案内がゴタゴタと投げ出されていた。
 目を通しておく必要もあり、一通り活字を追うのだが、そこには何が書かれてあるのかよくわからなかった。
 けだるい音は扇風機のモーターと音だが、涼しさのかけらも六畳の部屋の中にはなかった。
 何かをしなければならなかった。
 ぼんやりとしていると,日中でも吐き気が込み上げてくるようになっていた。それよりはと、私は私はあてもなく陽炎のゆらめく炎天下の都大路を彷徨うのだった。


 由美子はすでに退院していた。彼女の住む学生アパートは、四条西大路、京福電鉄西院駅近くにあったが、私はそこだけを避けるようにして、それの他には全く意思というものは消え失せていた。
 私はただふらふらと、街の熱気に溶けてゆく陽炎だった。


「ユミ、妊娠してたんやてなぁ?」
 安田梨恵はさっきから言い出せずにいたことを、努めて何事もないかのように無理をした。
 ガラスの中の氷はすっかり溶けて、薄くなったアイスコーヒーがどんよりとたたすんでいる。
 私はそれに答えず、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
 緑色の京阪電車が駅を離れてゆく。水嵩の減った鴨川が物憂げにその姿を映していた。
 川端の柳の木は
蒸し暑い空気に押しつぶされたようにだらりと枝を垂れ、その下で靴磨が所在なさげに汗を拭いていた。
 橋を渡る人の足取りは重く、みな自分の影を気だるく引きずって行く。時間さえも吐息をついているような午後だった。
 三条大橋西詰めのカフェテラスで私はぬるくなったコーヒーを一口すすった。

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