インディギルカ号事件
1939(昭和14)年12月12日、オホーツク海に面する北海道猿払(さるふつ)村の浜鬼志別沖で、当時のソ連の貨客船インディギルカ号が座礁沈没しました。
猿払の住民や、稚内から駆けつけた船舶によって、懸命の救助活動がおこなわれ、船長や女子供を含む429名が助かりました。
しかし、乗員の誰も正確な乗客数を知らなかったことや、『もう船内に乗客はいない』とした船長の虚偽の証言から、実に700人以上の犠牲者を出しました。
残された船内で凍死した人たちもいたということです。
乗客は秋の漁季を終えた漁労者たちだということでしたが、女性や子供も多く、単身で漁に従事する漁労者とは思えない点がありました。
さらに不可解なことに、事故の連絡を受けたソ連政府は、沈没船の所有権を放棄し、遺体の返還も不要、遺品は焼却処分するようにといってきました。
猿払村では現地近くに慰霊碑を建てましたが、ソ連側はおざなりな謝意を伝えただけで、当時盛んに行っていた政治的プロパガンダなどは一切ありませんでした。
まるでインディギルカ号の存在そのものを否定しているごとき対応だったといっていいでしょう。
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ソ連崩壊後の1991年に、日本の歴史学者の原暉之氏が、インディギルカ号は政治犯の護送船であったという説を発表しました。
スターリン時代の恐怖政治体制の犠牲者たちが、そのまま異国の凍れる海に果てたのだとすると、あまりにも悲惨な事件だったともいえますね。