臓腑(はらわた)の流儀 忘却の仇花 その4
メインのモツ鍋もあらかた空になりかけた頃、ビールピッチャーを手に折原博之が隣にやって来た。既に席は乱れ放題といった有り様だった。
あちこちでてんで勝手に会話が弾んでいるようだったが、窓の外遠くでやたら消防車のサイレンが鳴り響いていたのが気になった。中学の時、火事で学校を丸焼けにしていた思い出を持つ俺たちは皆その音を嫌った。俺も嫌な記憶が脳裏をかすめ、オリハラに気づくのがやや遅れた。
「よう孝一郎、まだビールでいいか?」
「ああ、俺はそろそろ冷や酒もいいかなぁ?」
「そうか、ちょっとお姉さん、こっちに酒を二合冷やで、それを2本持って来てくれるかな。猪口は5個くらいあったらいいだろう。お願いします。
今頼んだけど孝一郎、酒が来るまでもう一杯行け!」
折原はそう言って勢いよく俺のジョッキにビールを注いだ。
「しかし嬉しいね。お前とこうして飲めるなんてな。まさかあの孝一郎が堂々と酒を飲むとはね」
「よせよオリハラ、もう小学生じゃねえぞ」
「そうだけどよ。なんか昔の賢そうなお前のイメージが抜けなくてな。さっき自己紹介で言ってたけど探偵やってんだってな?カッコいいな!」
「そんなテレビや映画のようなわけにはいかん。好き者の浮気とか不倫の証拠集めやストーカーの調査ばかりで気が滅入る」
「シンジをムショ送りにしたっていうじゃないか?」
ああ、2年前のあの事件を持ち出して来た。中学ではオリハラはあのデブシンジたちと徒党を組んでいた不良グループのリーダー格だった。
「済んだ話だよ」
「それからお前、アメリカで撃たれて死んだって噂を聞いたぞ?」
「撃たれたのは事実だが、死んだら今日ここにはいない。奇妙な誤報だ。それはそうとオリハラお前トラックに乗ってるんだって?よく捕まらずにやって来れたなぁ?」
「機警(機動警察隊。他都府県の交通機動隊に当たる)の白バイは皆んな顔馴染みだった。俺は族の頭だったからな。そういえば、市会議員の先生よ、」オリハラは身体を反転させてミッツに声をかけた。
「今度切符切られたらもみ消してくれるかなぁ?
免停食らうと飯の食い上げだ!」
「馬鹿なことをいってもらっては困る。できることとできないことがある。」
「そうか、なら仕方ないな。わがクラスの出世頭は次の市長を目指すのかよ?」
「今はまだそんなことは考えてはいない。この職務でより良い市政を目指すことを考えている」
「やっぱり模範的優等生は言うことがいちいち立派だな。昔からお前とは住む世界も見る世界も違っていたぜ」
オリハラはそう吐き捨てるように言うと、鉾先をジンへと向けた。
「ジンよお、お前高校の時カツアゲでパクられたって聞いたぜ。年少(少年院)行かんかったんかよ?」
「ああ、高校停学になっただけで済んだ」
「なんだよ、保護観(保護観察処分)も付かなかったのかよ!俺とは偉い差じゃねぇか⁉︎どんな手を使ったんだ?弁護士雇ったのか?」
「そんなことはしていないと思う。俺は何も知らない」
「こんな不公平はねぇよな!どうなってんだ?」
唾を飛ばしてオリハラは辺りをねめ回す。酒が悪い方に作用した。まるきりからみ酒だ。
今にもジンの胸ぐらを掴まんばかりの荒れようだったので、差し出がましいがジンに助け舟を出すことにした。
「家庭裁判所調査官の心証が良かったんだろう。ジンが恐喝をしたのが初めてだったかは知らんが」
「初めてだったんだ。奴が出したのもたったの3000円だったんだよ。それでそいつはその足で交番に駆け込んだんだ。そいつが警官を連れて来た時、俺はまだそのゲーセンの前に突っ立ったままだった。警官の姿を見て、もう脚がガクガク震えたんだ。金はその場で返したよ。けど俺はそのまま交番に連行されて、その後パトカーに乗せられて警察署に連れて行かれたんだ!」
「なるほど、それで大体わかった。つまりジンは現行犯でパクられて、事件は家裁に送致された。そして調査官の調査が入ったが、初犯で金銭は既に返却されていた。すなわちその時点で既に事件は終わっており、被害者との示談の必要もなかった。被害者が恐喝されて差し出した金額も3000円という微細な額であり、ジンの反省の様子も真摯なものと認められたのだろう。おそらく学校や親御さんの証言で、不良っぽい服装や態度は認められたものの、これまで非行歴がなかったことなどを勘案されて、おそらく審判不処分か、審判不開始という教育的措置という形に落着したのだろう。ジンは当局に非行歴1として記録されただけで、それを外部の者が知ることは絶対にないし、就職の時それが不利になることもなかったはずだ。こちらから言わない限りはな。学校も生徒の不利になる情報は出さないだろう。
つまりジンはパクられたものの、素行や態度が、叱責程度で十分だとみなされて保護観察処分を受けずに済んだってことだ。事件以前の素行も大事だったわけだな。そこがオリハラお前との差になったと思われる」
「すっご〜い!やっぱり水島君博識ねぇ。まるで刑事か弁護士みたい」
こちらの話に耳を傾けていたらしい鉾田がそう叫んだ。
「家族から、子どもの素行調査を依頼されることもたまにある。親としては我が子が犯罪行為、不良行為をしているとは思いたくないのは人情だが、早く知り早く手を打つ必要があるのはジンのケースを見ても明らかだろう。探偵は弁護士と違って法律行為はできないが、事件の流れと、処遇の可能性について親に説明することはできる。弁護士に相談したほうがいいことをアドバイスすることもあるので何度も調べたんだ。この知識は度々役に立っている」
「そりゃあ親としたら心配だけど、少しくらい悪い子の方が自己主張がしっかりしていて頼もしいように思うわ。今となってはね」
「お宅はそうじゃなかったのか?」
「ウチの子?もう全然!小学生の頃からゲームとパソコンの前から動いたことがなかったわ。自分の部屋に籠りっきりで、高校生の時は食事まで部屋に運んだのよ。自閉症じゃないかって心配したわ。幸いそれは違ったけど、いわゆる引きこもり。オタクなのね」
「そうか、そりゃ大変だったな。で、今は?今幾つで何やってんだ?」
「SE(システム・エンジニア)やってる。もう33になるわ。そうそう水島君、私もう孫が2人いるのよ!」
「いやあ、好きな事が生かされて、IT産業の花形として活躍してるなんて立派じゃないか⁉︎若い頃オタクでもちゃんと結婚して子宝にも恵まれて、理想的だよ。逆に真弓の育て方が良かったんだと思うな。高校卒業して市役所に就職した堅実な生き方を手本にしたんだろう」
「水島君にそういう風に言ってもらえるなんて光栄だわ!」
そう言って鉾田真弓は破顔した。
しかし収まらないのはオリハラだった。
「孝一郎テメェでけえ面しやがって!俺は納得できないぞ。なんだジンなんて、うんこ垂れのクセに!うんこ垂れのどこが素行優秀だってんだ!」
オリハラはついに地雷を踏んだ。
聞き耳を立てていた全員を重い沈黙が支配した。その場は真夏にも関わらず、一瞬で凍りついた。
そう、ジンは6年生の2学期に、授業中に大便を漏らすという失態を演じていた。6年生にもなってというその事実と、泣きじゃくっていたジンの姿が、今でも全員の目に焼き付いていた。もちろん当事者の心の傷はいかばかりであっただろう。子ども心にもそれは重く、以来公にそれに触れることはわれわれのタブーであった。
しかし、今度はそのジンがキレた。