臓腑(はらわた)の流儀 忘却の仇花 その6

キャーッ!」
 また誰かが悲鳴を上げた。しかし泣こうが叫ぼうがジンは帰らない。まして医者が死を宣告したのだからなおさらだ。
 遠くのテーブルの連中も集まって来た。オリハラが興味深かそうにジンの顔を指で突ついたので腹が立った。ふと、木下先生の顔が蒼白になっているのに気がついた。
「ミッツ、先生を診てくれ。心臓がお悪いらしい」
ミッツは頷くと、早速鞄を持って先生の側に寄った。そして鞄から聴診器を出して先生の胸の音を聴いた。何でも出てくる。まるでドラえもんである。
「大丈夫。心臓も肺も正常に動いている。心配はない。他に気分の悪くなった人はいないか?」
そう訊ねられた俺がミッキィに目を転じると、彼女は硬く歯を食いしばったまま顔を左右に振った。
「そうか。ならいい。ミッキィ、急いで警察に電話だ!」
「救急車も呼ぶ?」
「いや、先生が心配ないのなら、必要ないだろう。ジンはもう間に合わない。ミッツ、心臓マッサージやAEDも無駄なんだな?」
「必要なら俺がやっている。死亡は確認したが、不審死に該当するから死体検案書を書くのは俺の仕事じゃない」
「わかっている。監察医だな?」
「そうだ。俺には死因の特定もできない」
「ちょっとどういうこと?ジンはどうして死んだの?」
  心配そうに先生のシャツを緩めたり、その顔をおしぼりで拭いていた貴子が不安そうな顔でこっちを向いてそう聞いた。今はもう店のスタッフも遠巻きにこっちを伺っている。その背後には騒動を聞きつけたのか、階下の客も数人混じっていた。要するに野次馬だ。ミッキィはそんな人数を分散させて元に戻そうと必死になっていたが、それを店長と仲居頭に任せてこちらの座敷に戻った。
「今ここでは何とも言えないってことさ。ジンには腰痛の持病はあったというが、それが突然死を呼んだとはとうてい思えない。ジンの話をすべて信じたとしてもだけどね。詳しくは行政解剖の結果待ちなんだ」
「解剖って…?」
「治療中の病気が悪化しての病院死や突発的な事故死、自宅での老衰死などを除く不審死に関しては、警察が行政解剖を依頼して、監察医が執刀して死因の特定をして死体検案書を作成する。仮に今回のようにそれを看取った医者がその場にいたとしても迂闊なことは言えないんだ」
「毒の可能性はないか?」
思わず俺が口に出すと、
「可能性はある。しかしそれこそテレビや映画じゃない。極めて考えにくいがね」
うろたえる仲間たちに比べ、もはや彼は憎いほど冷静だった。まぁ、人の死に一々ビビっていたら内科医なんて務まらないのだろう。
 動かなくなったジンの身体を見かねたミッキィがどこからか白いシーツを持ってきて遺体を覆った。あるいはテーブルクロスだったのかもしれない。無機的なモノにしか見えなくなったそれは返って生々しさを感じさせ皆の視線を外させた。

「毒ですって!それじゃあジンは殺されたっていうの⁉︎」
ようやく気がついたように貴子が金切り声を上げた。ヤバい奴に火がついた。子供の頃からのおしゃべり女だ。老人ホームの介護職だと言っていたから、それなりに家庭的医学知識があるかもしれない。
「つまりあれね。私たちが死んでもおかしくなかったってことなの?そうでしょう孝一郎⁉︎」
「ちょっとやめてよ貴子!素人が憶測でものを言ってはいけないわ!」
ミッキィが強い口調でたしなめた。貴子が憶測でしかものを言わないことをよく理解している。
「だって孝一郎君が毒だなんて言うから… ジンに死ぬ理由が無いとしたら、それだったら無差別殺人じゃない⁉︎誰が殺されるかわからないのよ!こんなところにじっとしてなんかいられないわ。それより警察はどうしたのよ⁉︎さっきからもうずいぶん経つじゃない?」
よく物事を考えずに口を出すくせに、考えるとそれなりに頭が回るから厄介だ。誰かコイツの口を塞いでくれ!俺は心からそう思った。

「ちょっと待ってって、貴子、店の迷惑なのよ!」
 偉いミッキィ、お前が正論だ。

「そうだ。僕の言い方で怖がらせたのならゴメン。けど佐々木さん、君も少し落ち着きなさい。毒って言っても、あくまで可能性の話だけだ。だいたい仮にこれが他殺だとして、そう簡単に毒なんて入手できるわけないだろう?どうだ、田中お前ならできるか?」
「ミッツ、バカなことを言うな!そんなことできるわけないじゃないか⁉︎」
 「そうだろう?普通の人には毒なんて簡単に手に入らないし扱えない。推理小説の読みすぎやサスペンスドラマの見過ぎでもね」

 貴子に手を焼いたのは俺やミッキィだけではなかった。ミッツも医者らしい正論を振りかざしてノブオを利用して貴子を黙らせた。しかしクラス会の間ずっと女性陣を結婚後の姓で呼び続け、記憶力に長けた秀才ぶりを発揮していたが、さすがに今回は自然と貴子の旧姓が出た。動揺は隠しきれないようだ。
 そういえばミッツはヤッコのことも初めからピーポディさんと呼んでいた。
 もちろんそれが正しいのだが、俺はそんな歯が浮くような呼び方はしたことがない。碧い眼の子の母親になっても小山靖子は小山靖子、ヤッコはヤッコなのだ。

「そう考えると、可能性がありそうなのは日頃から薬剤に接している医師である僕ということになる。まさか君は僕を摘発する気じゃないだろうね?」
「冗談じゃないわ、まさか佐賀君を…」
貴子はぐうの音も出ないようだった。

 しかしミッツはさすがだなと思った。あえて自分に不利な立場を明かすことによって、皆の胸中に起こりかけているかもしれない嫌疑をすかさず逸らしてみせた。これが彼の政治家の方のもう一つの顔だろう。
 優秀な医師と、やり手の政治家が1人の中に同居している秀才。敵に回すと怖い男だ。
 とはいっても、小中学校時代を通して、俺は彼に成績では1度も勝ったことがない。敵に回すも何も、最初から相手にならなかったというわけだ。
「しかし本当に遅いな。加賀谷さん、普通に110番しただけだよね?」
「そう。救急車は要らないっていうから110番だけ。アタシ外に出て待っててみる」
「いや、それは店の誰かに任せてあなたはここにいた方がいい。けど、この場には手を付けないでね。現場保存というやつだな。その辺はここにいる探偵さんの方が詳しいだろうけど。でもテレビドラマのようなわけにはいかないだろうけどね」
 ミッツにやんわり皮肉を言われたような気がする。

しかし、救急車を呼んだとしても結果は同じだったに違いない。俺たちは知らずにいたが、時を同じくして、市内の木造公務員宿舎から火が出て、次々と延焼する大火災が起き、消防も警察もフル出動していたことなど、その時の俺たちに知る由もなかったのだ。明治の昔から、街の両側を海に挟まれて風が抜けるこの迫立の街は、その大部分を灰燼に帰す大火を幾度となく経験していた。
 さっきから耳についていた消防車のサイレンはその急を告げるものだったというわけだ。

「どうしよう……こんな噂が拡がったら、もうこのお店はやっていけないわ……」
 勝気に振舞っていたミッキィがついに泣き言を漏らした。彼女にとっては昔の同級生より現在の商売の方が心に響くのだろう。さすが加賀谷グループを切り盛りする片腕だけのことはある。
 そう、彼女や俺を含めた誰もが、44年前の小学生ではなく、それぞれの人生を背負ってきた初老の男女だった。

 そして、市中の混乱で警察の到着が遅れたことが結果には幸いしたとも思える。
 考える時間はたっぷりあったからである。

「そうか思い出した。豆本だ!それと、さっき誰かが言っていたな……」
思わず叫んだ俺を全員が怪訝な顔で見つめた。

 「わかった!アレだ。サムチップか?」
「ちょ、ちょっと孝ちゃんどうしたのよ?何がわかったっていうの…?」

これもずっと俺のことを孝一郎君と呼んでいたミッキィが、いつもの孝ちゃんに戻った。装っていたベールをかなぐり捨てたのだ。もちろん、ノブオやヤッコは俺たちが付き合っているのを知っていたし、多分久美子もそうだろう。いまさら隠しても仕方ないことなんだけど。
「大丈夫だミッキィ、この店に傷はつかない!」
「え…?」
「やっぱりこれは毒殺だ。けどもう犯人はわかったんだ!」
             

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