臓腑(はらわた)の流儀 忘却の仇花 その5

ああ、確かに俺はうんこ垂れだ。それがどうした!昔から皆んな知ってる事じゃないか!」
 それまで談笑していたジンが突如そう叫んで、プラスチック製のジョッキをテーブルに叩きつけた。中にわずかに残っていたビールが白い飛沫となって周囲に飛んだ。女たちの悲鳴がそれに被さり、宴席の反対側で先生を囲んで話に興じていたグループも一斉にこちらを振り向いた。

 「今さらそれがなんだっていうんだ!あれで俺がどれだけ傷付いたと思ってるんだ!

 中学の時までは仕方がないと思っていた。皆んな同じ小学校から進んだからな。また同じクラスになった奴らもたくさんいたし。
 でも、高校に行ってまで俺にウンコ垂れの異名はついてきた。あの事を知らないはずの別の中学から来た奴らさえ俺の顔を見て笑ったんだ!入学して振り分けられたクラスに入った時にはもう有名になってたんだ!もちろん柳野から行った連中が吹聴したんだろう。そんな高校にいたっておもしろいわけないだろう!高校ですらそんな有り様だ、小中学校の時は針の筵だったさ!皆んなに寄ってたかって虐められてな!」

ジンの悲痛な激白は続いた。彼はすでに立ち上がっていた。小さな身体が小刻みに震え、真夏というのにその身体からは湯気が立ち昇っているように見えた。酒で真っ赤に染まった顔を振り立てて怒りまくる姿はまるで不動明王を思わせた。

 「あれで俺の人生は狂ったんだ!お前たちだって何時も俺を蔑みの眼で見ていたじゃないか⁉︎
 そりゃあ、この場にいる全員が直接その事で俺を虐めたわけじゃないかもしれない。けどな、お前たちの眼には常に嘲笑が潜んでいたんだよ!」

 ジンは叩きつけるようにそう吐き捨てて座布団の上にゆっくり腰を下ろすと、俺の目の前の銚子を引ったくるように取り、まだ半分以上残っていた日本酒を空になった自分のジョッキに注ぐやそれを一気に飲み干して大きな吐息を一つ吐いた。
 全てが叩きつけるような勢いだったが、坐るのだけがゆっくりだったのは腰のヘルニアのせいだったのだろう。
「堀尾君落ち着きなさい。なんだね大人気ない」
 さすがにすぐさま木下先生がそう声をかけた。
 やはりこの場を収拾するのは担任の先生以外にはなかった。

「先生すみません取り乱して…。でも、聞いてください。あの時 子どもだったから意味がわからなかったけど、確かにあの時俺は見たんだ!そもそもあれ自体が虐めだったんですよ。あの事件そのものが仕組まれた出来事だったんだ!」
ジンの拳がまたワナワナと震え始めた。

「やめてジン!もういいわ。あなたが苦しんでいた事はみんな知っている。けどもう過ぎた昔よ!」
「ああミッキィ、あんたは昔から優しかったなぁ。それに今ではここはあんたの店のような物だったな。すまない。もう落ち着いた。あんたにも店にももう迷惑はかけない」
「大丈夫?鍋の締めのラーメンが来たわ。みんな自分の席に戻って!最後までいただきましょう。このあと最後にデザートのシャーベットも出るわ!」
「そうよ。こんな大人になって喧嘩してどうするの?じゃあ締めのラーメンは男子がやること。騒ぎを起こしたんだから反省して働きなさい!」
ミッキィと阿吽の呼吸のように提案した(ほとんど一方的な命令だったが)のはヤッコだった。
 幹事の振舞いがすっかり板についている。
 彼女も、小学校の頃は愛くるしい少女だったが、気が弱いごく内気な児童だったはずだ。それが中学生になって3年の時、放送部の全道コンクールで入賞してからものすごく積極的な性格になった。
 そしてあの真冬の柳野中学放火事件のあと、校内放送で生徒の士気を鼓舞する見事なメッセージアナウンスでその存在は全校で有名になり、さらにその内容が北海道新聞の地方版で紹介されたものだから、卒業時にはミッキィと並ぶ男子生徒のアイドルになっていた。
 その後私立の女子高に進み、系列の女子短大を出た。家が裕福だったので、卒業後は仕事に就かず家事手伝いのようなことを続けたり、高校の時に映画にエキストラ出演したこともあったが、わりと早くに母校の高校で英語の講師をしていたカナダ人男性と結婚した。そんな間も俺やノブオやもちろんミッキィとはずっと切れることのない友情で繋がっていた。
 とはいえ俺は高校を出てからはずっとこの迫立(さこだて)市を出ていたので、たまの帰省の折にしか会うことは叶わなかったが。
 ひょっとしたら俺より正しい英語を話すかもしれないし、娘の杏(アン)は今では女優をやっている。ヤッコのエキストラ時代の映画会社とのコネが役立ったらしいと聞いている。ミッキィとは別の意味で、派手な半生を送ってきたとも言える。

 モツのエキスが十分に染み出たスープに、メンマ、叉焼、煮卵などラーメンのトッピングも用意され、普段料理などしないであろう男たちの手による締めラーメンも完成した。荒れていたジンもオリハラも、その頃には随分と落ち着いたようでそれぞれの席で手伝っていた。
 俺のテーブルでは鍋奉行のミッツが慣れた手付きと的確な指示を飛ばしていたが、やがて出来上がったラーメンを其々の小鉢に取り分けた。少し手許が覚束ない場面もあったが、市議さんもどうやら飲み過ぎたらしい。

 「うん、美味しい!ミッキィこれだけでも立派な看板メニューになるわね⁉︎」
派手な音を立てて麺をすすり込んだヤッコが感嘆した。
「加賀谷組さんは今度はラーメンチェーンに進出かな?」
 先生までもが先ほどの渋面を忘れたようにそう付け加えた。
「嫌だなぁピーポディさんも先生も。これは僕の腕だってことを忘れちゃ困るな。」
ミッツがそう言ってテーブルの笑いを取ったが、一番奥のテーブルから久美子の声で、
「大丈夫、田中君の作ったのも多分同じ味だから!」という言葉が飛び、笑いは満座に広まった。

「あらどうしたのジン、美味しくない?ラーメン食べてないじゃない?」
「い、いやそうじゃないんだミッキィ。この店の味にケチをつけるわけじゃないんだ」
ミッキィに促されてジンも派手に啜り込んだ。
 勝気なミッキィの一言は慣れない者にとっては時として詰問めいて聴こえるのだ。

「ゲホッ、ゲホッ!うう…」
ジンは挙げ句の果てにむせ返っている。
「バカねぇ。変にミッキィに義理立てる必要ないのに…」
 ヤッコがそう言ってジンの背中を優しく撫でさすった。
「ゲホッ、ゲホゲホ…!」
 苦しそうに咳込んだジンが急に立ち上がりかけて、ヤッコのその手を邪険に払い除けた。力がよっぽど強かったと見えて、思わずヤッコは背後に倒れ込んだ。
「何すんのよジン、危ないじゃない!」
「うう、ゲホッゲホッゲボッ!」
ジンは喉をかきむしるような動作をしたかと思うと、次の瞬間口から吐血した。
「キャーッ!」ヤッコの悲鳴が響き渡るのとジンがテーブルに突っ伏すのは同時だった。鍋の中の残り汁や、小鉢の中身が辺りに飛び散った。

 俺は跳ね起きると急いでテーブルを跨ぎ越し、ジンの小柄な身体を抱き起こした。しかしその身体は痙攣し、眼球もすでに反転している。口からは鮮血と共に白い泡も吹いていた。
「ミッツ、早く早く、何より医者だ!」

 慌て気味に駆け寄ったミッツはジンの顔に一瞥をくれると、首筋の脈を取り、自分の席の背後に置いてある黒鞄からペンライトを取り出すと、ジンの目をこじ開けて照らし当てて一言
「死んでいる」
とつぶやいた。そしておもむろに腕時計を確認して
「21時15分、ご臨終です」
 それはすでにつぶやきではなく、冷静な医師の宣告だった。

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