すっぽん・かっぽん その3

土方は武州多摩の石田村の生れである。生家はその辺りの大百姓であったが、同時に家伝薬である『石田散薬』の製造販売でも知られていた。土方自身も若いころは薬行李を担いで近在を行商に歩いていた。それは近藤勇と知り合い、江戸の試衛館道場に身を寄せるまで続けられた。 
石田散薬は後に新選組において採用され傷薬として常備されていた。
「宝暦の頃というから今から百五十年も前のことだろう。この時の土方家の当主が多摩川で悪さを重ねる河童明神を懲らしめたところ、その夜に河童明神が夢枕に立ってあの薬の秘伝を伝えたと我が家では謂われている」
「なんてこった。あなたの家まで河童と縁づきだったなんて。新選組は河童に取り憑かれているんじゃあありませんか」
 島田の呆れたような声に土方は皮肉な笑みで、
「だがな島田君。河童に縁があるのは俺たちばかりじゃあねえんだ」
「と申しますと?」
「土佐にゃあスイテングという河童がいるそうだ。字をあてりゃあ水の天狗だろう」
 突然話が変わり、一同は怪訝な顔のまま土方の口元を見つめている。
「同時にこれは水天宮のことでもあるらしい。水天宮は海や航海の守り神だが、同時に平家一門とともに海に沈んだ安徳帝を祀っているとも聞く」
 土方は手酌で酒を注ぎ口に運んだ。
「水天宮の総本山は筑後の久留米だ。そしてその久留米水天宮の神官だったのが、あの真木和泉さ」
 ううっと、島田の喉から声にならない響きが漏れた。
「真木っていうと、あの天王山の……」
 蟻通の顔は幾分青ざめて見えた。
 久留米藩士であり、久留米水天宮の神職でもあった真木は熱烈な尊王主義者で、藩政改革に失敗し一時は国元で蟄居生活を送っていた。
その後長州藩に接近してその参謀格となり、文久三年八月の蛤御門の変では長州軍の一隊を指揮し洛南天王山に布陣した。
 この政変において長州は会津・薩摩の連合軍に敗れ京を追われるのだが、真木達の一隊は天王山上において壮烈な自刃を遂げている。
 天王山を攻めたのは新選組であった。島田や蟻通の脳裏には、陽炎揺らめく山頂で、見事に腹を掻っ捌いていた真木の姿が甦った。
 「一時期、真木は国において蟄居を命ぜられ、何とかいう神社に籠っていたそうだが、わざわざそこまで訪ねて行った奇特な男がいる。島田君、俺たちとは縁のあった御仁だが、誰だと思うかね?」
「さて桂ですか?高杉ですか?」
 監察方だった島田は長州藩士にも詳しい。
「清河八郎さ」
 土方にそう言われて島田の背をざわっと、なにか得体のしれない感覚が駆け下りた。
 清河といえば、そもそも新選組の前身である浪士隊結成を幕府に働き掛け、芹沢や近藤・土方といった面々を京の地にまで連れ出した男ではないか。上洛後たちまち態度を一変させ、浪士団をもって攘夷の先駆けならんと画策し身を翻して江戸に戻った。
 江戸において幕府刺客に抹殺されたため、島田や蟻通に面識はなかったが、新選組の歴史を語る上で今や伝説といっていい怪人物である。
 「いやはや、土方さん。私も空恐ろしくなってきたが、それにしても相変わらずの地獄耳だ。土佐の河童の話など、一体ぜんたい何処で仕入れられた?」
 小野が謹厳な面持ちで尋ねた。
「近藤さんが捕まった後、私は江戸で勝安房に会った。その時の話のついでに聞いたのです。相変わらずのらりくらりと御託を並べていやがったが、私はともかく近藤さんの助命嘆願書を書いてもらわねばならなかったので、黙ってその話を聞いてはいたが、勝さんにこの話を吹き込んだのは、おそらく坂本竜馬」
「坂本ですって!まだ私らを驚かせるんですか」
 島田が大声を上げた。
「竜馬は勝さんの弟子だった男だ。そう驚くことあるまい。奴がお尋ね者になる前に二・三度顔を合わせたことがあるが、あのもっさりした面でガキの話すようなことばかり言ってやがったが……
それより島田君。もっと驚く話もある。君は二百人の河童と一緒に戦っていたんだぜ」
 島田は目を丸くした。二百人の河童とは何であろうか? しかもなぜ二百匹でなく二百人なのだろうか?
「甲陽鎮撫隊を結成した時だ。近藤さんは勝安房に上手く言い含められて、軍資金と砲・弾薬を与えられた」
「勝てば、甲府百万石分捕り放題ってえ、あれですな」
「近藤さんはもう大名になったような気分だった。しかし金はあっても兵力がねえ」
「もう仲間も大分減っておりましたな」
「総司の野郎は、これ見よがしに四股なんぞ踏んでいやがったが、もうまともに戦える身体じゃあなかったのは誰の目にも明らかだった。あれを多摩まで連れて行ったは近藤さんの最後の見栄と、総司に対する優しさだったのかもしれん」
「あっ!」
 と、蟻通が叫んだ。
「副長、もしや二百人とは浅草の……」
 ニヤリと土方はかつての鬼副長の凄みのある貌を見せ、
「そうだ蟻通君。あの浅草の二百人だ」
「しかし副長、ありゃあ化物じゃなくて歴とした人間でしたが……」
「そうだ。だがな、河童とは身分外の者をいう呼称でもあるのさ。奴等はみな長吏の者だ」 
 一同はまたしても絶句せざるを得なかった。
浅草の二百人の経緯とはこうである。
 新選組の窮地に一肌脱いだのは、将軍御典医であり、かねてから近藤・土方と親交のあった松本良順である。彼が仲介の労を取ったのは浅草の穢多頭、矢野内紀。世襲名を弾左衛門という。士農工商の外にある身分の者たちを統括、管理する頭領であった。
 現代の社会でいう被差別民。当時は穢多(えた)や非人といった階級があった。
 西国では河多(かわた)、東国では長吏(ちょうり)と呼んだりもした。竹細工・箕造り・皮革生産・山仕事・水番・遊芸などを職とした人々である。
 東国において全てのその階級層を統治する弾左衛門の財力は小大名にも匹敵すると言われた。
 その弾左衛門が配下の長吏二百人を戦力として提供したのだった。

いいなと思ったら応援しよう!