すっぽん・かっぽん 最終回
子供だった蟻通に伝えた親がどれほど正確に話していたのかはわからない。
しかし、現在も和歌山県田辺市にある蟻通神社に祭られる蟻通明神は、元は中国の深沙(じんしゃ)大将だとしている。
この深沙大将は中国の水神の一種で「西遊記」における沙悟浄のことである。
西遊記は江戸末期においては『絵本西遊記』などで庶民にも広く親しまれていた。
「お前さんも河童の一族だったってわけか」
土方はそう笑うとようやく欄干から身体を離した。
「しかし、天下の御三家、水戸藩までも薩長の手先ですか。亡くなった芹沢先生も浮かばれませんね」
一本木の関門近くまで来た時蟻通がつぶやいた。
すると土方は不敵な笑みを浮かばせながら
「何を見ていたのだ蟻通、あ奴は河童だ。水戸藩とは何の関係もねえ。
陸軍奉行並の土方歳三が、亀田川に巣食う毒を吐く河童を退治したと明日から箱館市中に触れて廻るのだ」
「なるほどそういう筋書きでしたか。これは気がつきませんでした。確かに討ち取られたのは箱館に害をなす悪河童ですな」
コトが終わった後で相手に不利な風評を流す。土方のいつものやり方だった。
芹沢が死んだ時もそうだった。刺客とされた長州浪士の姿を見た者は誰もいない。
あの池田屋の時もそうである。浪士達は池田屋に集まって何をしていたのか。
『強風の日を選び御所に放火して、駆けつけた守護職や所司代を血祭りに上げ、騒ぎに乗じて玉体(天皇)を長州に動座する』計画を練っていたとされるが、関係者は皆斬られるか捕らえられるかして真相はわからない。
捕らえられ六角獄舎に収容された者たちも、蛤御門の変のドサクサで皆斬られて死んでしまった。
そういう噂がある。と、蟻通に耳打ちしたのは土方であった。噂は隊の者から、出入りの者へ、やがては京の町衆の耳へと燎原の火のように広まっていった。
『新選組が成敗したんは、どえらい悪人たちやったんや。壬生の浪士達はこの京の都を救うたんや』と。
「いやまて、蟻通」
土方は足をとめて振り返った。
「芹沢さんは素行はともかく、志はどこまでも高かった。あの人こそは大河童だったが、さっきの野郎は河童を名乗る資格もねえ。
おおかたすっぽんか、かっぽんだろうぜ」
土方の振り返った彼方は遥かな過去であったのかもしれない。
翌五月九日。箱館奉行の永井玄蕃、陸軍奉行並の土方歳三らが訪れたと、箱館病院調役頭取の小野権之丞は自らの日記に記している。
しかし、そこで何が語られたかは残さなかった。
五月十一日。この日官軍による箱館総攻撃が行われ、孤立した弁天台場を救出に出た土方歳三は箱館と亀田の境にあった一本木関門周辺で敵の銃弾に当たって戦死した。享年三十五。
同日朝。霧に紛れて背後の寒川地区から上陸し箱館山を襲った官軍兵と戦って、蟻通勘吾も壮烈な最期を遂げた。享年三十一。
島田魁は弁天台場にて降伏。東京に送られ後に名古屋預かりとなった。
赦免後は京都に赴き、かつて一時期新選組が屯所として使っていた西本願寺の守衛などをして、明治三十三年に、かの地で七十三歳の大往生を遂げた。
小野権之丞は箱館病院付近で逮捕され、その後病院長高松凌雲とともに官軍と箱館軍との和平策の周旋に奔走した。
戦後は下総の古河に謹慎となる。現在は水戸と共に茨城県となっているかの地で、河童に思いを馳せることはあったであろうか。
晩年は東京に出て、明治二十二年七十二歳で生涯を閉じた。
最後の大河童、浅草弾左衛門は明治元年に平民へと身分引き上げが行われ、維新後に弾直樹と改名した。
皮革と靴の産業振興に尽力し、小野と同じ明治二十二年に世を去った。
大正時代になって函館の亀田川に大きな改修の手が入った。
五稜郭橋と白鳥橋との中程に、防火水道のための貯水池が造られた。大きな五本のコンクリート製橋梁で水を支え、そこには深い澱みができた。
いつ、誰がいうともなく、その澱みのことを『すっぽん・かっぽん』と呼ぶようになった。
昭和も三十年代までこの呼び名は使われていたようである。
だが、この珍妙なる呼称が何に由来するものなのか、幾つか説はあるが詳らかではない。
(完)
この物語はフィクションです。 © 松島花山