臓腑(はらわた)の流儀 白狐のお告げ その1

その年、北海道迫館さこだて市では不思議な女行者、いや女霊能者の噂がにわかに高まった。
 彼女は内地(本州)から流れて来た人物で、京都の伏見稲荷大社の千本鳥居の一本ごとに仕える神狐のうちで、突然変異を起こした白狐が乗り移ったと称し、周りからは「お狐さま」と呼ばれているということであり、市内の企業の老齢の経営者(会長)の、医者でも見離した末期癌を治したということで千万単位の寄進を受けたという噂も語られたが、それがどこの誰という会長なのかは明らかにされておらず、都市伝説に近い様相を呈していた一方で、除霊だか開運だかのご利益があるからと、数十万円の神像の購入を強要されるなどという不確かな噂もささやかれていた。

写真はお借りしました



 靖子・ピーポディは窓口で会計を済ませ、保険証と診察券を受け取り、保険証入れに収めた。
 中には娘で人気女優でもある、あん・小山・ピーポディと、現在四歳の孫娘真凛まりんが並んで写っている写真も入っている。
 今日は子宮筋腫の検診で、引き続きの経過観察ということだったので、処方箋は出ない。
 すでに還暦に達し、閉経も終わっていたので、普通女性ホルモンの低下に伴って筋腫は縮小するので敢えて手術や治療をする必要は現段階ではないというのが婦人科の主治医の意見だった。

 林レディースクリニックの玄関を出た靖子は今にも降り出しそうな神無月の曇天を見上げ大きくてため息をひとつ漏らした。
 万が一にも筋腫が悪性腫瘍化するのを恐れての経過観察も一年を超えた。その点では安心なのだが、市内でも評判の高く、いつも混み合うこの婦人科クリニックに受診に来るのは毎回のこととはいえ面倒が先に立つ。
 幸い今日は珍しく空いていたが、不順な天候のこともあり、疲れが溜まっているのも感じていた。
 後一月もしないうちにこの北の港街にも雪の到来を見て、また長い冬が始まる。それを思うと、なんだかやるせなさを感じてしまうし、その感覚がなぜか毎年早くなってくるようにも思えるのだった。
 『これも老化現象なのかしら?』彼女は独りごちた。

 「失礼ですが奥さん」
 突然声を掛けられて靖子は驚いた。
見ると短めの防寒ジャンバーを羽織った上品な中年女性が手に持った紙片を彼女に向かって差し出していた。何気なく見ると何やらのチラシのようだった。
「貴女何かお悩みがあるんじゃありません?よろしかったら私たちと共にお狐様に救いを求めてはいかがですか?」
 そう言われて差し出されたチラシを受け取ると、
 白装束をまとった老女が祭壇の前に座り、何事か祈りをあげているモノクロ写真とともに、大きく『白狐のお導きで貴方にも幸運を授けます』という惹句が並べられていた。
「聞いたことがないかしら?今お狐様がこの迫館にいらしています。もう何人もの悩める人が救われています。もちろん私もその中の一人です。そんな私が奥さんをお狐様にお引き合わせしたいのです。」
「なんですか貴女は?」
「私たちは今も申したようにお狐様に救われた者たちです。『白狐隊』という名称で活動していますが、もちろん無料での相談ですし、強制でも宗教でもありません!純粋にお狐様のお力に心酔しているのです。ぜひ貴女もお狐様におすがりになられてはどうでしょうか?」

 靖子は戸惑った。こんな怪しげな話にウカウカと乗るつもりはない。しかし最近噂には耳にしたことがあるが、実態がわからないとも聞いているお狐様にわずかな興味はあった。
 彼女は特定の信仰は持ち合わせてはいないし、いわゆるスピリチュアルな考えにも否定的である。
 夫のサミュエルは母国カナダにいた時からカトリックのクリスチャンであったが、妻にそれを強要することもなかった。

 それより彼女には好奇心の方が勝った。
 少女時代からおとなしい女子生徒だったが、好奇心だけは旺盛であった。
 現役高校生の時に当時の邦画界のトップスターだった霧山透の主演映画『出港』のロケを
迫館港にたまたま見に行った時に、金子健二監督の眼に止まり、そのままエキストラとして出演し、それが縁で、母校の英語講師だったサミュエルと結婚後授かったひとり娘の杏が京都の大学に進学後演劇部に所属していたことから金子監督に連絡して引き合わせたところ、やはり一眼で気に入られ、女優デビューを果たし、現在ではハーフの美人女優として活躍していることも考えると、すべては彼女の好奇心から出発していると言ってよかった。
 なお、杏の名前はサミュエルの出身地であり、迫館市と姉妹都市であるカナダのプリンス・エドワード島を舞台にした「赤毛のアン」から採ったものであった。

 靖子は一介の地方都市在住の、ショッピングモールでパート勤務をする主婦であるが、小中学校から同級生で親友の加賀谷(旧姓植村)美樹は、現在ではこの街随一のクラブ「アンバサダー」のオーナーママであるし、やはり小中と一緒で、中学時代には生徒会長だった水島孝一郎は、数年前から探偵事務所を開業している。そしてその2人と関係する形で彼女も何度か恐ろしい事件に巻き込まれたことがあった。
 しかしそれも解決した今となっては貴重な体験だったと思えるようになっていた。

 「いいわ。そのお狐様に会うにはどうすればいいのかしら?」
 「ああよかった!貴女はきっと救われます。今確認しますから少々お待ちください。」
 女はそういうと、靖子を道端に立たせたままスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。

「ええ、そうなんです。今お狐様は?ああ、鑑定中なんですね?あと15分ほどで終わりそうなんですか、それではこれからすぐに戻ります。」
 電話を切った女は溢れる微笑みを靖子に投げかけた。
「やっぱり貴女ツイてる。お狐様はまもなく身体がお空きになるそうよ。私の車で行けばすぐにお会いしていただけると教団事務の者が言っています。大丈夫、心配は要らないわ。何も変なことはされないから。貴女にはお狐様のお力を実際に体験していただきたいのよ!」
 そういうと女はクリニックの駐車場に停めてあったプリウスに靖子を誘った。
 今日はクリニックが空いていたこともあり、患者ではない女の車も比較的容易に駐車することができたのだろう。
 靖子は免許を持っていない。自宅からは市電一本で来ることができた。

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