戦艦 陸奥
戦艦陸奥(むつ)は、大日本帝国海軍の主力戦艦で、大正7年に起工同9年に進水しました。
のちの大改装後に排水量39000tとなり、41cm主砲を搭載した、当時の世界最強艦であり、同型姉妹艦長門(ながと)とともに、連合艦隊の旗艦を交代で勤め、「陸奥と長門は国のほまれ」と、国民にも親しまれました。
(後に最強最大戦艦として有名になった大和、武蔵は、当時はその建造すら秘密にされていました)
ミッドウェイ海戦を含む幾つかの作戦に従軍しましたが、主に温存勢力として後方待機することが多かったようです。
しかし…
昭和18年6月8日、停泊地である、広島湾沖柱島泊地において、3番砲塔から突然火の手をあげ、大爆発を起こして瞬く間に海底へと沈みました。
当日の乗組員1474人中わずかに353人の生存者を数えるのみでした。
その場では、敵潜水艦の攻撃と思われましたが、目撃証言などからその可能性は低く、軍当局はその事故を秘匿し、生存者は最前線へと送られ、また遺族にもその死は伝えられず、それどころか給与はそのまま払い続けられ、国民に陸奥爆沈の事実が知らされたのは戦後になってからでした。
爆発の原因は諸説あり、当時艦内で窃盗が相次ぎ、その容疑者とされた人物が取り調べを回避するために火を放ったとか、厳しいイジメに耐えかねた兵が起こしたとかともいわれています。
この手の話に付きもののオカルト話も多々あり、爆発前夜に、火の出た3番砲塔上で女が踊り狂っていたとか、戦後引き揚げられ飾られている4番砲塔上にたくさんの水兵が現れ、夜間にそれを目撃した海上自衛隊の内火艇が、よく確認しようと速度を落としたために、付近を漂流していたブイに衝突せずに済んだというようなエピソードなどは、現在もネット上を賑わせています。
しかし、なんといっても因縁を感じるのはその艦名ではないでしょうか?
本州の両端の国名をとった陸奥と長門ですが、それは幕末維新時における会津をはじめとする東北諸藩と、官軍筆頭ともいえる長州そのものに他なりません。
日本の海軍は、どちらかというと薩摩閥ではありましたが、維新の一方の雄である長州藩の地の名をとった長門が、まさに不沈艦として大戦を生き抜き、アメリカに接収されて水爆実験の標的艦として最後までその艦歴を誇ったのに対し、
みちのくの名を冠した陸奥の非業の最期は、歴史の因縁というか皮肉を感じずにはいられません。