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イデオロギーとカタルシス、そして私は絵画と鑑賞者の境界へ往く-Talk about Art.

さて、前回のnoteで僕は新たなステートメントを整え、この数日、ようやく制作に取り掛かることができました。

そのnoteはこれ。

「画家」でもなく「絵描き」でもなく、「芸術家」として作品をつくっていくうえで、自分の作品、その哲学を言語化し、プレゼンテーションしていけることは不可欠です。

私の作品に関わるひとつひとつを、いつどこで誰に尋ねられてもよいように、できることから、描きながら日々浮かんだことを、少しずつ言葉にしておいておくことにしました。

ということで、日々カンバスと向き合う中で心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくっていきます。ほな、いくで。

1. 芸術にイデオロギーは必要か

まず、「イデオロギー」とは何か、その定義から。

「理念」や「観念」を意味するideaに由来する言葉であり、ある個人や社会集団によって共有される思想、信条、世界観などを意味する。
もともとマルクス+エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)にまでさかのぼる。同書のなかで、マルクスとエンゲルスは「観念における闘争」と「現実における闘争」の転倒を批判して、これを「イデオロギー」と呼んだ。-artscapeより

ゲルハルト・リヒターは、イデオロギーそれ自体を批判し、「出発点として観念(イデア)をもつ絵画、そういう絵画はイラストである」といい、また計画せず、意見を持たず、世界観をもたないということを主張します。

さて、彼のこの主張に対し、私はまずもってして、人間を主体化してとらえようとする時、私たちがイデオロギーから逸脱することは基本的にできないと考えます。常に何らかのイデオロギーは私たちと隣り合って存在します。そして、イデオロギーを持たないと主張することすらも、既に一種のイデオロギーとなる可能性を孕んでいます。

ある一面ではイデオロギーは、人を対立や衝突に導き、時に戦争や犯罪の引き金となります。しかし一方で私たちには、統一、調和へと向かう信念としてそれを用いる余地も同時に残されています。

完全な構成を逃れ、理論から解放され、時に偶然に身を任せること(これをオートマティスムと同様と捉える必要はない)。時に内容ありきではなく、形式から出発することも良しとすること。それすらも私の扱うところのイデオロギーの一部として、私は確かな問いをもって探求すべく絵画を描くということを主張したい。

*リヒターの作品とそこに横たわる写真や絵画に関する芸術論は心から素晴らしいものであり、僕の愛すべき対象のひとつです。

2. 絵画を前にひとは涙を流すのか

絵画は、確かに人の「気分」や「美的な満足感」に影響を与えるものです。そこに私も疑いを持ちません。マーク・ロスコは「人が私の作品に直面したとき、感情が揺さぶられ、絵のまえに跪いて涙を流すことがある。…彼らは私が絵を描いたときと同じような宗教的体験を感じています。」といい、彼はまさにそのことを求めていました。

しかしこれに関しては、今日までもそれを不可能だとする芸術家も、批評家の姿も散見されます。それには、音楽のほうがよっぽど向いている、と。まあ、そうですね、向いている、かもしれません。

さあでは果たして、絵画にそれは不可能なのか。もしそれが不可能ならば、なぜ私たちはこれまで、これほどに、あの手この手で誰かに何かを伝えようとしてきたのか、言葉を超えるものなど探していたのだったか。未来を想い信念を抱くからこそ、そこに私たちは様々な可能性をみてきたのではなかったのか。

それでも問い、探し求め続けることが、芸術家の使命の一端を担っているのではなかったか。

だから私は、私自身のリアリティを、作品として遺そうとするのであり、それを普遍化・一般化し、鑑賞者にとってのリアリティとなるところまで昇華しようと努めるのです。

芸術は、絵画は宗教「そのもの」足り得るものです。そこに救済を、カタルシスを求めることは、ごくごく自然なことであるように、私は思います。

3. 絵画と鑑賞者の境界線

絵画を鑑賞者のリアリティへと昇華するために私はどうするか。

鑑賞者を世界と繋がり、開かれた感覚の中に誘うために私は何をすればよいか。

いつ、なぜ、絵画を前に人は涙を流すのか。

これらの問いへのひとつの応答として、「絵画と鑑賞者の境界を曖昧にする」ことができるかという問題を提起します。

この「境界線」については、考察すべきことが多々あるように思います。

まずもってして、絵画と鑑賞者の境界線はどこにあるのか(それには少なくとも物理的なものと、精神的なものとがあると考えられます)。

私たちはそもそも物質のどのような特殊性を受け取って、それを絵画と、またそれは絵画ではないと認識しているのか。

絵画においてそれがもし「未完である(あり続ける)」ならば、それは作家の手を離れてもなお、現実(世界、鑑賞者)と関わり合い続けているという証拠となるのではないか。

そして絵画技法からアプローチすることは可能か。

これらを問い続ける先に、先の記事で書いた、絵画を通じて「全てと共に在る自己の存在を確信し、世界と連続した自己の存在を感じる体験を得る」ことを実現する手がかりが必ずある、そんな気がしています。記事はこちらに再掲します。

へぇ。ふぅ。ここらで終わるか。まだまだ書きたいこともあるが、まだまだ、浮かびながらも不確かなことがたくさんありますで。彼らはきっとカンバスと向かい合いながら、少しずつ言葉になっていくのでしょう、形になっていくのでしょうと、思います。

ぼちぼち、いこか。明日も描きましょう。ほな、また。

2021/06/10.




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