自分探しの旅に出たら、自分と世界の捉え方が変わった話。
2018年1月から4月、ふらふらと海外を放浪したときがあった。今振り返れば「自分探しの旅」という名前をつけられるけれど、当時はただただ、生きることに必死だった。
何者かに、なりたかった
旅に出る前の自分は、自分のことが嫌いで、とにもかくにも、変わりたかった。
どれだけ挑戦しても成長しても満たされることがない渇望。できることはどんどん増えていくけど、やりたいことは一向にわからない不安。
今の自分を嫌いになることは、自分の土台そのものを否定してしまうことにつながり、あらゆる状況が不安定になる。
そんな不安定さの中、ただただ、がむしゃらに走って、気づけば燃え尽きていた。
「ただ、いる」ことに憧れた
誰かの期待に応え続けて主体を失ってしまった自分にとって、「ただ、いる」という姿勢は魅力的に見えた。
何者の期待を受けない。
だれにも期待しない、求めない。
ただあるためにある。
そんな存在に憧れていた。
そして「ただ、いる」ことの代表例は、自然だと感じた。
そんな憧れを持っていたら、気づいたら沖縄やオーストラリア、アラスカに行っていた。そこで2-3週間ずつ、滞在して、美しい景色を見たり、現地の文化に触れたりした。
そこで見た景色たちは雄大で美しいものだったけれど、求めていた答えは、そこにはなかった。
人生の責任を思い出した
海外一人旅は、答えを教えてくれなかったけれど、自分の人生の解像度を上げてくれた。
行き先を決めるのは、自分。
帰る日を決めるのも、自分。
邪魔するものは、一切ない。
自分を知っている人は、誰もいない。
自分が知っている物も、ほとんどない。
期待や思惑、連絡や依頼、仕事や日常的な雑事。そのほとんどは姿を隠し、あるのは自分の頭と体と心と、少しの荷物。
自分と世界が対峙しているような感覚があり、そのときの自分には極めて本質的なものしか残されていなかった。限りなく自由な状態で、すべての行動と意思決定の責任が自分にある状況。
そこで感じたことは、
心地よい開放感と、
慣れない環境での疲労感と、
自分を相対化する視点だった。
「いま、ここ」を相対化する視点
文化が違うと、世界が違う。
日本では24時間コンビニが空いているのが普通だけど、アメリカでは日曜日にお店がすべて閉まっていることは普通。
日本ではバスも電車も時間通り来るけど、アメリカでは平気で30分は遅れてくる。
日本とはまったく異なる日常が、海外には当たり前に存在している。その発見と体験が衝撃的だった。
いかに自分が今の環境を絶対視していたか。
今の環境でしか生きられないと思い込んでいたか。
世界は広く、実に多様で、自分がいまいる環境は世界の一部でしかないことを全身で理解できた。
人生の感覚を取り戻した
「いま、ここ」と世界を比べることができるようになり、いま目の前で起きていることの人生の比重が、少しだけ下がることができた。
そうすると不思議なことに、現実へのコントロール感を持てるようになった。
どうせやるなら、楽しくやりたい。
自ら意思決定しているから、やる。
自分が決めたように、できる。
何者にもならないためにすべてを手放してみると、自分の深いところから何者かが浮上してきて、何かを表現したがっていたことに気がつくことができた。
どんな自分も、自分でしかない
何もしなくても自分は自分で、
何をしていても自分は自分で、
どんな自分も、自分でしかない。
数ヶ月の海外一人旅を通して、極めて簡単なことを深く腹落ちすることができた。それに気づいてからは、色々なものがシンプルになった。
やりたくてもやりたくなくても、それは自分の気持ち。嬉しくても悲しくても、それは自分の気持ち。良いところも悪いところもそれは自分の一部。好きなところも嫌いなところもそれは自分の一部。
そう思えることは、何者かを探し続けていた自分にとっては、とてもとても大切なことだった。
ただ、ある、ということは、
何もしないということであり、
何かしているということであり、
そのどちらでもあるということ。
*
こうして、何者かわからず、何者かになりたがっていた自分は、ただあることに憧れて、余計なものをすべてをなくしてみた結果、自分は何者でもなく、ただただ自分だったということを理解することができた。
いまは、自分のことをすごい人とも思わないけど、たいしたことない人だとも思わない。どちらが自分がどうかはわからないけど、どちらも自分であることに確信があるから。
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TOP画像は、アラスカで見たオーロラ。マイナス20度の中、震えながら見たオーロラの美しさは、忘れられない。
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