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noteを続けることについて

続けることは、やめないことだ。

書かない期間が空いても記事を消してもアカウントを消しても、それだけでは続けていないとは判断できない。そもそも厳密に続けているかどうかを判断できるのは、書いている本人だけだ。

本人の選択肢から”書くこと”がなくなった時、書くことをやめたことになる。noteなら、「noteをやめます」と宣言した時、あるいは言わずとも決意した時、noteをやめたことになるだろう。アカウントや記事が残ろうとも、「やめます」と宣言されたなら、あるいは決意されたなら、それはもう終わっている。

逆に言えば、決定的に決意しなければやめたことにはならない。「もしかしたら書けるかもしれない」「自分には書くことが必要かもしれない」という可能性が消えない限り、その人の”書くこと”は続いている。周りから何を言われようとも。

そもそも書くことは、極めて個人的な行為だ。


丸二年ほど、noteを書かない期間があった。書けなかった、という方が正しいかもしれない。格好の悪いことに「noteを続けることは良い」という趣旨のnoteを出した後から、ぱったりと書けなくなった。

最初のnoteを書いたのが2019年2月で、以降ほぼ間断なく書き続けていたが、仕事や環境、価値観の変化が重なって、自分が何を書くべきなのかがわからなくなった(今でもわかっているわけではないけど)。

その時の自分は、他人から見てもわかりやすい社会的人格がないと、書くべき内容も伝えるべき人も見つけられなかった。公開される文章を書くことにも怖さがあった。書く理由も内容もなく怖いのだから、書かないことは当たり前だった。

そんな状況でも、「自分にとって、書くことは大事なことなんだ、たぶん」と感じていた。書こう書こうとする気持ちだけがあくせくしていた形跡がnoteの下書きに残っている。

この先も公開されないnoteたち その1
この先も公開されないnoteたち その2

iPhoneのメモアプリにどこにも公開されない文章や日記を書きためながら、公開できるかもしれない文章の切れ端をnoteにためていた。「これなら公開できるかもしれない」「誰かに何かを質問されても答えられるだろう」というような、自分なりの公開する文章に対する閾値があり、そのラインを超えられるテーマや内容、文体を探していた。


そんなことを一年ほど続けている中で、友人と会話していたら、「みずのさんが昔紹介していた自己紹介フォーマットでお互いnoteを書いてみて、読み合わせたらおもしろいのでは」という話になり、思い立って書いてみた。約二年ぶりの復帰noteになった。

誰かがつくったフォーマットに沿って書くことは、その人の企画力に寄りかからせてもらえて、とても書きやすかった。読み合わせの場があり、一人以上に読んでもらえることがわかっているのも書くことの後押しになった。公開したものへの反応や感想はどんなに小さなものでも(よっぽどの誹謗中傷でなければ)とてもありがたいものだ。


その後に始めたのが、その時感じていた「わからない」という感覚そのものを書くことだった。誰に書いていいのか、誰のために書くのか、何か書くのか、何もわからなかったので、そのわからなさを書いていた。

誰に向けて書くのか、社会のどこに向けて書くのか、書き手としての自分は何者なのか、ひどくぼんやりしてしまう。いままで掴んでいたと思っていた感覚は、どこかに隠れてしまった。

誰のために書くのか

この数年間でたくさんの文章を公開したが、今まで書かれたものは一体何だったのかがわからなくなった。一つ一つの文章にはその時なりのテーマがあり、届けたかった誰かも確かにいた。が、今振り返ると、よくわからない内容を理解できない書き方で書いている文章がたくさん存在している。

何を書くのか

書けば書くほどわからなくなる。今まさに実行している、文字になる手前の感覚を捉えて文字に変換する体験を少しも理解できていない。理解できていないことがよくわかる。「わかった!」と感じることそのものが、それ単体では非常に馬鹿げたことのようにも思えてくる。この文章を書く途中でも、わかったとわからないを行ったり来たりしてしまった。

何を書くのか

何かを理解するために書いていないのだろう。「何を理解していないか」を理解するために書いている。書けば書くほど分からなくなることは、自然なことだった。

誰が書くのか

自分の中の「わからなさ」というものをさまざまな角度から眺めて、拙くてもいいから書き切って公開することを繰り返していた。誰に何かを伝えるためではなく、公開する文章を書くためのリハビリをしていた。

このnoteに対して誰かからリアクションをもらえたわけではなかったが、おそるおそる公開してみて、何も起きなかったことに安心した。同時に、わからないまま書き出してもよいと実感できて、書くことそのものへのハードルを下げることができた。当時ああでもないこうでもないと頭を抱えながら文章を書く自分の姿が今でも簡単に想像できる。よくがんばったよ、当時の自分。

「何を書いていいかわからない」というテーマは、書くことを続ける人の多くが抱えるような普遍的なものだが、それについて書くだけでも、十二分にその人の文体が出る。自分の文章の最初の読者は、書き上げた後の自分だ。その読者になるためだけに書き始めてもいいくらいだ。


わからなさをnoteに書いたあと、いまも続けている日記を書き始めた。これもみずのさんに習って始めていた(このnoteを書きながらそのきっかけを思い出した)。

八月は毎日更新して、九月以上はほぼ週次で更新している。内容は、その週にあった出来事を書いている。家の近くのピザ屋のピザがおいしかったとか、自宅で皿を洗ってシンクがすっきりすると気持ちがよいとか、国語辞典を買ったとか、詩を書いているとか、とても個人的で日常的なことだ。

最近聞いたラジオで、土門蘭さんが、noteに公開しながら日記を書くことを「自分の文体をつくる」ためにやっていると言っていた。文章の色とかリズムとかを形作るためにやっているのだという。

おそらく自分が日記を書きながらやっていることはこれと近しいことだと感じた。自分の感じたことを他者の目に触れる場所でどのように書けるのか、自分と世界とのつながり方をどのような形にするのか、その文体を模索している。

日記を書いてみて面白いと感じることは、自分が面白がって日記を書いていると、他の人の日記を読むことも面白くなってくることだ。書かれている内容はもちろんだが、書かれていないことを想像したり文体を味わったり、自分でも書いているからできる楽しみ方が増える。文章を書くことを続けることの面白さにも通じるものがあると思う。


節目節目、特に何かを始めたり再開したりするときには、誰かを参考にしたり習ったりすることが多かった。自分の初回のnoteでは、あかしさんのnoteを引用していたし、再開のタイミングでもいままで続く日記でも水野さんのnoteやツイートをきっかけにしている。

自分の中から何か素晴らしいものがこんこんと湧き出てくれるならよいのだが、そうもいかないタイミングもあるので、他の人のアイデアを参考にしたり(もちろん敬意を払いながら)教えてもらったりすることがあってもいいと思う。

そもそもこのnoteもあさみさんが書いたnoteをみて自分もこのテーマなら書けるかもしれないなと思って書き始めている。


書くことの面白さや続けることの面白さはひしひしと感じているが、書くことをやめてもいいとも思っている。二つは矛盾せず両立する。

今は書くことを続けているが、いつかまた中断するかもしれない。さまざまなことに疲れてしまって、noteアカウントを消すかもしれない。それによってそれまでのつながりや関係性が変わるかもしれないが、それは仕方がないことだ。極めて個人的な行為としての書くことは、いつだってどうしたって儚いものだ。

書くことを中断しても、一度やめても、二度やめても、いつでも再開していい。別の場所で書き始めてもいい。続けることは尊いことだけど、やめることも尊く、再開することも尊い。

一度やめたものを再開することや前言を撤回することは”ちゃんとしていない”こと(この言葉はあまり好きではない)のようにも思うが、別にちゃんとする必要などまったくない。


人が一人一人異なるスタイルで生きるように、人は一人一人異なるスタイルで書くことができる、続けることができる。自分に合った続け方で続けられればそれでいい(辞めたり再開したりしながら)。

近い人から習ったりリスペクトできる人を真似したり色々なテーマや文体を試したり、自分の中にある一般的な意味での”書くこと”の概念を破壊して、自分なりの”書くこと”を再構築できたなら、その人はきっとこれから先ずっと、書き続けることができる。

そもそも書くことは、極めて個人的な行為だ。

どうか、あなた自身のために、あなた自身の手で、あなたなりの"書くこと"を再構築してほしい。


この文章が、あなたの極めて個人的な行為の一助になれていたら、とても嬉しい。



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ひらやま
最後まで読んでいただきありがとうございます。