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世界の片隅で「光る君へ」愛を叫ぶ ③

うーん、そこまで「光る君へ」ロスになることはないだろうと思っていたけれど、こうしてとりとめのない文章を書いている(現実逃避、とも言う)こと自体が、ロスなのか……。

気を取り直して、「光る君へ」コラムの最終回。
この作品が大好きになってSNSを徘徊していた私が感じた個人的な印象として、「光る君へ」は、作家さん、漫画家さん、イラストレーターさん、編集者さんといった「ものを生み出す側にいる人たち、或いは作劇の苦労が理解できる人たち」が特に強く支持していたように思います。私の周囲で「見てないよ」という人はいても、見ていて「つまらないよね」と主張する人には出会ったことがないんですよ。それだけでも、稀有な作品だったのではないかと思うんです。
余談ながら、そういう視点で見ると、来年の大河ドラマの「べらぼう」も主人公・蔦屋重三郎が「もの作り」に情熱を注いでいく物語なので、別の意味で共感を呼ぶのではないかと思っています(この話は、また改めて)。

さて、ここまで「好き」を前面に押しだした文章を書いてきましたが、その一方で「光る君へ」に対する批判的な意見があることも承知しています。
世帯視聴率がそれほど伸びなかったことを理由に、失敗作だとする論調もあって。それにはまっっったく同意できないのだけれど、これだけ見応えのある内容の作品なのだから、もっと数字が伸びてもよかったのになぁ、と思うこともあるんですよね。そこは、口惜しいところで。もしも仮に失敗という表現をするならば、作品そのものではなくて、これだけ魅力的な作品だということを視聴者にアピールできなかった(私を含めた)マスコミ側の失敗なのではないか、と。

改めて考えると「光る君へ」って、やっぱり視聴のハードルが高かったように思うんですよ。前々回のコラムにも書いたけれど、平安大河という理由で端から無視の人もいただろうし。加えて「この辺のことは説明しなくても、知識として把握していますよね?」という、ある意味、視聴者に対する信頼を前提にして物語が進められていた気がするんです。ナレーションやセリフでの説明は最低限のもので、もちろん説明がなくてもドラマを見ていればわかってくるのだけれど、それを理解するための時間と労力を厭う人が昨今は増えているのかなぁ、とも思ったりして。
例えば、多少なりとも『源氏物語』の内容を知っていれば、まひろが「い」と書いただけで「キターーーーーー!!!」になるけれども、知らなかったら、ただ一文字を書いただけのシーンになりますよね? それは『枕草子』爆誕のシーンも同様で、あの場面はほとんどセリフがありませんでした(なのに、ききょうの思いが胸に突き刺さる、ファーストサマーウイカさんの名演ときたら!)。ながら見していて定子とききょうの感情の揺れが把握できないと、ききょうが廊下を歩いて定子が何か読んでいるだけ、みたいに思えてしまうわけで。『枕草子』が何故あの内容で書かれたのか、そこに至る定子とききょうの関係性も頭に入れておかないと、大河ドラマ史上に残るであろう、あの静謐な美しさと感動を、味わえないんですよ。
(ゆえに、放送後の「平安クラスタ」の皆さんによる考察が賑わったのだと思うのだけれど)

だから、画面としては煩くなってしまうけれど、初登場の人物には名前のテロップを入れてルビもふるとか(詮子、明子、彰子なんか全部「あきこ」だし、伊周を「これちか」と読めた人も多くないと思うんだ)、いっそのこと「字幕放送・副音声解説を推奨します」とアピールするとか、もっと視聴ハードルを下げるための何かしらの工夫があったらどうなっていたかな?と思ったりしました。もちろん、そうすることで作品の味わい深さが損なわれるのなら、本末転倒になってしまうのだけれど。

またドラマ的な側面で言うと、感情をセリフにしない、ということも「光る君へ」の特徴で、それが大きな魅力でしたよね? ただ、それを味わうためには受け取る側の感性も問われてくるのではないかと感じたんですよ。例えば、吉高由里子さんはそのクルクルと動く瞳で、言葉にしないと伝わりにくい感情を、表情だけで見事に表現していました(改めて、すっごい女優さんだなぁ、と)。
ただ、その瞬間的な視線の動き、仕草、息の吐き方というのは、ドラマに集中して画面を注視していないと見逃してしまうことがある(俳優さんの芝居だけじゃなくて、衣擦れの音とか鳥のさえずりとかも含めて)。さらに、それらを作品世界で表現するためには、充分な「間」が必要で。つまり、シーンの時間が嵩んでいくわけです。道長が何かを言って去っていくシーンだとしたら、言われた後のまひろの表情もフォローすることになるわけだから。巧みな芝居のおかけでシーンが間延びすることはないんだけれども、当然「尺」は伸びることになり、編集の段階で重要度の低いシーンはカットされていくこと(ドラマガイド誌の「あらすじ」を読むと、ドラマ本編には登場してない描写がありますね)になって……。
とはいえ、あの「間」がなければ、ここまで深い作品にはならなかっただろうしなぁ。そこは何が正解だったのか、判断に迷うところですね。

ちなみに、大石静さんが生み出した「光る君へ」の中には、道長のもうひとりの姉である藤原超子、定子の妹である藤原原子も登場していません(ききょう/清少納言も、実は行成との関係が取りざたされているし、再婚して子どもも産んでいるんですよね)。
でも、そこまでは描かなくてよかったのだと思っています。
大河ドラマは史実(正確に言うと、現在まで残っている史料から史実と「されている」もの。本当の史実は、それこそタイムマシンに乗って当時へ行き、その決断をした本人に話を聞かないとわからないし、そこで本心を語ってくれるかどうかもわからない)を描くものではないから。大河「ドラマ」なんだから、ドラマとして優れていればそれでいい。史実にフォーカスするのなら、歴史系の番組でやればいいわけだし。

話が逸れてしまったけれど、以上のような点が気にはなりつつも、前々回にも書いたように「光る君へ」は私にとって愛してやまない、唯一無二の作品になりました。「人たらし」と呼べる、魅力的な個性にも出逢えたし……。
こういう出演者(金田哲さん)のインタビューなんか読んでいると、それだけで泣けてきちゃうな……。

こうして「光る君へ」に触れることができた喜びを噛みしめつつ、作品制作に関わってくださった方々に心から感謝したいと思います。
本当にありがとうございました!
(この文章を読んでいただいた方にも、感謝です)

そんなわけで、プチ「光る君へ」ロスに陥ってはいるけれど、それが「プチ」で留まっているのは、次の大河が「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」だからだと思います。この作品、私は「光る君へ」と同様にハマれる作品になりそうな予感がするんですよ。というのも「光る君へ」ファンだからこそ楽しめそうな「べらぼう」の見どころが……。

(続きは、1月5日に)

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