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歴史の横糸としての経済を見るスタンスと覗き窓とは?

本稿では、人材育成としての経済史について、より直接的な回答を示している。共感するも反論するも読者次第だ。コメントは募集していないし、あっても返答は差し控えさせていただく。


誰に向けて書くのか

本稿は長文である。文系大卒の30台以上の人は読んでみたほうがいい。理系卒でもAIとの差別化を目指したい人は読んでみてほしい。なぜ長文かというと、ふだん言えない本音をまとめてしまったからである。

歴史総合のテストは総合知能を測れない

もうすぐ2025年の大学入試共通テストが実施される。高校で2022年に始まった新課程の内容で初めての大学入試となる。すなわち「歴史総合」や「情報」が科目として設置された試験である(二次試験を行う大学で、新設科目の点数をどう見るかはまだ割れているところだが)。

「情報」はともかくとして、歴史総合は時間制限つきのペーパーテストには向かないはずである。「未来を背負う若者」に、過剰な期待と過剰な負荷をかけ過ぎていると思う。

「歴史とは暗記科目ではない」という触れ込みで始まったのが歴史総合のはずである。しかし、短時間に正解を導き出すなら、頻出パターンを暗記せざるをえない。医師国家試験や司法試験も含めた資格試験にもいえることだろう。「当意即妙での閃き」ではなく、堅実な解法当てはめしかない。

結局は「断片だけ巨大化したより強化された暗記」をすることになった。AIや海外のエリートたちに負けない優れた若者を生み出す狙いだったようだが、やはり的外れである。結局は、詰め込み型のまま、従来型受験秀才のアップデートしか果たせない。

なにしろOpenAIのo3がでてきた。詰め込みのアップデート版など、最善手の人材育成とはいいがたい。o1 proでさえ、東大入試の数学の問題の正攻法な解法をわずか数分で導いてしまう。o3となれば受験秀才の閃きなどまったく不要である。課金してスマホでカメラをかざせば、誰でもその認知能力が即座に得られるのだ。

学校にいく意義は学位購入?

繰り返し述べているが、そもそも学校、とくに日本の学校では、児童生徒の思考力を育成しているわけではない。検定教科書と学習指導要領によって、「分業制での都市生活を円滑に送るために、知っておかないとヤバいこと」を網羅しているだけだ。そして、「社会のなかの知識蓄積のスピードに置いていかれるペースを緩める」ことが狙いである。

同じことは大学学部や専門職大学院にもいえる。既存の知識や解法を暗記するだけの場に学費を払って通うということであれば、学んだ内容本体に価値を見出すのは、ますます困難である。

もちろん「学士号や専門職学位の購入」という観点は無視できない。学んだ内容は卒業後直ちに忘れてもいい。最大のメリットは、履歴書はじめ各種書類においては永年有効な学位を合法的に記載できる点だろう。とくに日本国外で国際的な仕事に関わろうとするならば、最悪でも学士号が必要とされる。

学士号に見合う思考力や分析能力が必要とされるのではない。書類審査として学士号が必要だということは区別しておくべきた。学位は能力の証明ではなく、出自の証明に近いものであって、「低学歴層に対するガラスの天井」として機能しているのが社会の実態である。

実際、日本国内でも工業高校や高専に熱視線が注がれている。モンゴルやタイでも高専がつくられている。高専本科卒は学士号未満の人材だが、たいていの大学学部新卒よりも職務遂行能力が高い、と期待されているのだ。

リスキリングなんてできないし、経験も役立たない

では逆に問いたい。専門学科の高校や高専ではなく、普通科高校に進学している人はどうするのか? あるいは過去を振り返って普通高校を出てしまった人はどうするのか? いまさらリスキリングで最新テクノロジーに精通するつもりなのか?

リスキリングができると思ったら甘すぎる。ならば大学入試でのエリート養成にこれほど注力したこと、いま高専が熱視線を浴びていることの説明がつかない。鍛えるべきは心身溌剌とした10代の少年少女であって、さえない心身衰えた中高年ではない。

生涯学習とか人生100年ライフシフトなどの言葉は空虚である。王道の専門領域において「新世代の優秀層からも一目おかれる」などというのは、おとぎ話だろう。

3歳からみっちり訓練しているアスリートがいるなかで、成人になってからスポーツを始めて「優勝したい!」とか「代表選手になる!」などと言うのに近い。ネット上の副業系インストラクターにはこの手合いがきわめて多い。

甘い考えは捨てるべきである。何の取り柄もないサラリーマンだった人が、何の準備もなくアスリートの世界に足を踏み入れることは許されない。まさしくガラスの天井が厳にある。

「あなたの経験が役立ちます」などという甘言ほどデタラメなことはない。大抵のヒトの経験になど、金銭的価値や希少性はない。

サラリーマンなのだから、ほとんどは単調な毎日のタスクの繰り返しだったのだ。だからホワイトカラーあがりの中高年がハローワークでホワイトカラー仕事を探しても、職にありつけない。

だれも中高年の知識や経験になど期待していない、という現実だ。いまや東大教授を定年退職しても、私大の教授ポストにつくことなどできない。トップ層の教授でもその有様なら、一般のサラリーマンなどはじめから問答無用である。とにかく会社組織にしがみつく努力をするのが一番だ。

マイナー領域としての経済史

だとすると、「メジャーな分野ではないが、重宝される分野」に手を出す戦略をとるべきだ。

シリコンバレー最高峰の起業家・投資家であるピーター・ティールも、有名な『Zero to One』の中で、競争を回避することの重要性を問いている(ピーター・ティール著、関美和訳、「ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか」、NHK出版、2014)。

本稿の議論での文脈であれば、選ぶ分野はプログラミングとかロボットとかブロックチェーンなどではない。金融工学や会計学や英語でもない。なぜなら、重要なのは「先読み」ができることである。先読みができてこそ一目おかれる存在に近づく。

だからこそ、私が勧めるのは歴史であり、経済史なのだ。経済史の扱いはマイナー領域そのものだ。経済史は人気最低のゼミになる。むしろ文学部の史学科のほうにあったほうが、まだ日の目を見るかもしれない。

にもかかわらず、ちょっと不思議だが、歴史学の一部ではなく経済学の一部と位置づけられている。経済学部で人気があるゼミとは、経済理論、実証データ分析、経営ケーススタディ、経済学史(経済学の理論や哲学における変遷としての経済学史)である。経済史はその序列で最下層にやってくる。

つまり、現役の経済学部生からは見向きもされないのだ。90年代以降に顕著になった傾向だという。大学のマス化と価値観の多様化で、近代化とか経済成長に若い学生の関心が向かわなくなったことが理由として想定しさされる。平成30年間にわたって日本のゼロ成長だった。20歳そこらの若者にとって、経済史で扱う題材は異世界転生のフィクションのようにしか感じられなかったというのだ。

なるほど、経済史とは興味をもつ対象にはなりえないわけだ。確かに現役の経済学部生からみれば、スクールカースト最下位に自ら転落するような選択をすべきでもない。至極まっとうな回避である。たとえば工学部でも「絶対に希望してはいけない研究室・ゼミ」というのがどこの大学や学科にも必ずある。同じことである。

マイナーゆえの希少性がメジャー領域を補完する

しかし、である。ここが本稿での核心だ。

「現役経済学部生ではない人(つまり圧倒的多数の人!)」にとっては、経済学部内のスクールカーストは関係ない。また、「途上国がすでに途上国ではない」というグローバルな現実である。

日本が圧倒的な先進国にもかかわらずゼロ成長だった時代には、確かに経済成長を扱う経済史はフィクションのように見えたし、途上国も途上国のままなので実感する内容や教訓を何らもたらさなかった。だが、状況が変わっている。経済史から引き出す教訓が役立つ外部環境が現れている。

そこで、経済史がもつ「メジャーでない穴場学問だが、テクノロジー周りよりも勉強を始めやすく、続けやすい」という特性に、改めて注目すべきである。経済史を経済学とみなすとややこしい実証分析で手を出しにくい。しかし歴史学とみなせば、門戸はかなり広がっている。なぜなら、まがりなりにも、普通高校でさえも通常のカリキュラムの直接的な延長上にくるからだ。

歴史なので、物理や数学とちがって、高校までの内容を忘れていてもいい。なるほど、物理を学べばより直接的に未来予測とか「世界の向こう側」を見通すこともできるだろう。だが、物理が得意だったなら、そもそもあなたは本稿から何も得ないし、何も共感しないだろう。

いま本文を読んでいるなら、物理や数学に代わる分野を求めているということだ。断片的な高校までの歴史知識が多少なりセーフティネットとして機能している「歴史」がいい。冷静に考えてみれば導かれるはずである。

経済史が先読みになるのは、個別知識ではなく視座に価値があるから

経済史の大学社会のなかでの位置づけはわかった。肝心のベネフィットである「経済史が先読みにつながるのはなぜか?」という問いに、「経済が歴史の横糸だから」という回答を与えておくことにしたい。

いま高校生が学ばされている歴史総合から見てみたほうがいい(主体的に意欲をもって学ぶ高校生はほとんどいないから、「学んでいる」ではなく「学ばされている」と表現するのが適切だ)。

すくなくとも教える側からみれば、歴史総合はきわめて未来への示唆に富んだ構成や思想でまとめられている。完全なる暗記型の教科書を使っていた者として、驚きを禁じ得ない。人生で大事なことを学校で教えているのである! 

もちろん、当の高校生には意図はまったく伝わっていない。大人になってからのほうがわかるのは、純粋な記憶力や論理的思考よりも、世の中の理解のためには、一定の人生経験が必要となるからだ。

歴史は人間の営みの時間発展である。とくに経済史は富やお金の取り合いである。つまり規範や倫理を扱う公共哲学よりも、人間の汚さに真正面から向き合う実存主義文学に近い。年の功が多少なりとも生きる。この特性も、いい年した大人のリスキリングの動機づけにはなるかもしれない(すくなくとも半導体や量子計算や宇宙開発などよりは!)。

歴史総合では「近代化、大衆化、グローバル化」という視座から、長い時間スパンでの歴史的現象の波及効果を考察する。設けている視座がきわめて重要で、19世紀20世紀だけでなく、21世紀現代でも普遍的に通用する。

歴史総合という科目というよりも、経済史を横糸にしたグローバル・ヒストリー論の特性である。

ヒトは抽象的な視座が苦手

歴史総合にかかわる細かい知識や教訓は今後の記事で、経済史の立場で述べることになる。本稿では、「近代化、大衆化、グローバル化」の意味を掘り下げることが狙いである。

そもそも〇〇化という用語が抽象的である。ヒトはそもそも抽象的なことが苦手である。

抽象を抽象のまま理解できれば理論物理学者になればいい。だが、ほとんどの人は、実体を伴う道具になって身体動作をできたとき、ようやく理解できる。

たとえば数学の定理の証明を眺めるよりも、実際に定理をつかって計算してみるほうが染み染みとわかる気がする。コンピューターも動作原理を知るよりも、実際にスマホをいじくってみる。ヒトの理解とは実に身体的である。

Qiitaの「完全解説!ディープラーニング」などの偏微分の記号満載の記述などは、何の理解の助けにもならないわけだ。実際にChatGPTができてAI半導体もできて、手元のスマホで翻訳がぱっとできたとき、その流暢さに驚嘆する。この経験をもってしか、一般人にはAIなど理解できない。

歴史観としての〇〇化にも同様のことがいえる。土台「近代化」などといわれても、まともに答えられる大人はほぼいない。ソフト開発では「モダンな環境」などということがある。これはモダンというよりモードとかファッションに近い。本当の「近代」という意味とは異なる。用語の使い方などいい加減である。

金、神、血

では抽象的〇〇化をどうすれば身体的表現にできるのか? 重要な問いである。より身近な表現に置換するならば、「資源、お祈り、暴力」である。なんと、人間の業が現れた言葉である。もう少しかっこよく言えば「経済、宗教、戦争」ということである。

もっと身体的に言い換えるならば「金、神、血」である。だいぶ抽象ではなくなった。「この世はお金だ」とは私は思わないが、「この世は金、神、血だ」と言われれば肯定せざるを得ない。肯定できない人は実存主義ではなく、規範や倫理にしばられている。


一般人の視座では未来予測などできない

「不都合な事実」に目を向けないと先読みはできない。「他人に迷惑かけず、仲良くしよう」は規範であって実存ではない。冷静になるべきである。実際、日本でも少子化が進んで小学校の児童数は毎年最少を更新している。

にもかかわらず、いじめ件数、不登校件数、中学受験生は最高を更新している。つまり、「みんなで仲良くしよう」などというのは、小学生でさえ実践していない。冷静に世の中を見つめないと、思わぬ落とし穴にはまってしまう。

私は「長いものに巻かれておとなしくせよ」と言っているのではないし、「とにかく反骨、反社会的な態度をとれ」と言っているのでもない。いずれも時代錯誤である。

「現実を現実のまま見て、未来を見通せ」と言っているだけである。善悪の価値判断など求めていない。価値判断に先立って鋭い現状認識をせよ、と申し上げている。

なんとなく「英断」とか「決断」という言葉がリーダーの条件となっている風潮がある。誤りである。優れた人物は「決める(他動詞)」のではなく「決まる(自動詞)ようにする」のである。さまざまな組み合わせのなかでベストな解決策をフィーリングや神の啓示のごとく「決める」などできない。

理論物理学者でさえ、ある方程式を解くのに毎日ノート一冊もの数式を書く生活を1年間続けて、ようやく他人から検証に耐える論文が書ける。「決断ができるリーダー」なるものは、ハリウッド映画やプロジェクトXに入れ込み過ぎた虚像である。

話が逸れたが「現実を現実のまま見る」というのが存外難しい。ヒトをヒトたらしめているのは「物語る自己」という性質だ。他の動物種にはない最大の特性だとして、ヒトを動物と区別する特徴だとされる。

だからこそ、ヒトは現実を現実のまま見る能力が、相対的にはゴリラやチンパンジーよりも不利かもしれない。ゴリラやチンパンジーは完全に客観の世界に生きていて、「自分は何者か」とか「他者はなぜいるのか」という実存的問いを発したりはしない。

ヒトは「人生の意味は?」とか「何のために生まれて、何をしてよろこぶ?」とかの自問自答をしてしまう。自問自答が深遠なる普遍性を与える場合もあるだろう。だが、一般大衆の場合は、単に現実を覆うベールを自ら設けてしまうことが大半である。

曇りなき眼で補助線を引くべし

まずは「不都合な現実」として、歴史の駆動力は「金、神、血」だったといったん受け入れる必要がある。なぜか? 理論物理学と同様で、一番大事なのは仮定とか問題設定なのである。数式変形や論理展開のことではない。幾何の問題で大事なのは補助線である。歴史とりわけ経済史を学ぶにあたり、補助線が「金、神、血」なのである。

もちろん、異なる補助線を引いてくれて構わない。また、補助線なしで問題に取り組む(未来予測を目指す)でもいい。私の記事を読む必要もない。いますぐブラウザで別のページに飛ぶべきだ。

だが、補助線で霧が晴れるように見通しがよくなることは、数学だけでなく多くの問題にある。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』などは、世界で最も有名な補助線のひとつだろう。生物学者であるダイアモンドは宗教ではなく、すべて物質的な要素だけで見事な補助線を引いたのだった。

しかしながら、壮大な歴史物語ではなく、現在に連なる歴史だけに注目して未来予測に役立てるという立場になるとどうか。ダイアモンドの銃、病原菌、鉄ではいささか不足がある。兵器とインフラだけでは、冷戦期ならいざ知らず、十分には21世紀を説明できない。

より普遍的な補助線として選ぶべきは、「金、神、血」にたどり着いてしまう。日本では「神」の部分は実感しにくいが、米国や中東ではきわめて重要な核心である。「血」は見ての通りだ。痛み、暴力、死が厳然たる事実として迫り、安全保障がいたるところで問題になっている。日本でも石破政権が誕生している。

価値判断の前に現実を見る。まちがっても「感想」とか「お気持ち」を述べてはいけない。未来予測をゆがめてしまう。エビデンスない感想を言えば、データサイエンスをみっちりやってある新世代の優秀層に嘲笑われて居場所がなくなるだけである。

そういう自己保存の危機もあって未来予測が必要だ、と感じるならば! いまは一般大衆のなかで認め難くても、研究者のあいだでは常識になっている視座に置換すべきだ。

まなびのスタイルは川下り

リスキリングの効果は限定的だと述べているが、あえてリスキリング論を述べるなら、「山登りはするな!川下りをせよ!」と言うほかない。

自律的人材になってキャリアプランを能動的に描け、とは思わない。ならば大学が標準カリキュラムやコースを提供して学位品質を保証しようとしていることが矛盾する。

山登りとは自分で登山計画をたてて、必要な道具ももって頂を無数のルートのなかから、ひとつ選んで一歩ずつ登ることである。道を極める立場ならば、必要な作法と経験である。だが、それは免許皆伝のあとの話にほかならない。

ヨチヨチ歩きの初心者は、荒野や山におかれたら茫然自失してしまう。むしろ一歩も動けない。自己保存の生存本能による恐怖が勝る。闇雲に夜出歩くヒトは、サバンナでは死を意味した。臆病者と笑われるかもしれないが、集合名詞としてのヒトなど、その程度の動物種である。「最後は人間の力」などと美辞麗句で飾るのはいいが、一割の人材を全体であるかのように語らないでいただきたい。

免許皆伝まではいかないが、無心者や初心者を中級者にもっていくくらいできる。川下りである。大学学位のことも言ったが「川下りらやりました」というのは意義がある。登竜門ならぬ降竜門である。

川下りというのは、身軽にボートにのって救命胴衣をつけて、濁流を下ることである。ブレーキなどない。途中で岩にあたれば脱落、ゲームオーバーである。とにかく最初は、怒鳴られてアドバイスされたままに舵取りを必死でやることになる。そのうち舵取りが少しずつできて、川の流れが遅く感じられる。川下りが終わってみると「意外に大したことなかった」などと言う。川下りである。

少し調べてみるといいが、日本を代表する俳人である正岡子規も、幼少化に川下り式で漢詞を反復練習している。いくら後世に名を残すとはいえ、漢詩を年端もいかない幼子が理解できるわけではない。

子規は、漢詩をひとつひとつ「小学生にもわかるように教えて」もらったのではない。ひたすら、言われるままに反復練習したのである(いまの我々はAIに優しく手ほどきしてもらえるわけだから、子規よりもよほど恵まれている!)。

幼少期に反復練習して染み込んでいた漢詩の知識が、大人になってから開花したのである。「時間差あるフィードバック」である。「こんなの勉強して何の役に立つの」などと抜かしている場合ではない。

子規の場合よりは、私はいくぶん読者あるいは自分自身に対して親切のつもりである。「何の役に立つの?」という問いにも答えているし、「いつ役に立つの?」という点にも即効性と持続性がある点を強調して、経済史をチョイスしている。

不安が減らせたなら半歩目に行ける

これ以上文句がないならば、「金、神、血」という補助線をとりあえず採用して、経済史の学びに突入していただきたい。川下りを始めるべきである。

山登りが必要だ!と述べる方は、そもそも対象読者ではない。一次資料と実証分析にすぐとりかかって、査読付き論文をジャーナルに投稿していただきたい。noteでのレスバトルにあなたの貴重な人生の時間を消費してほしくない。

補助線なんていらん!という方も、読者になっていただかなくてよい。私は有料noteを必死に売る副業クリエイターのようなスタイルではない。いやなら見なくていい。互いのためである。マーケティング理論でも同じようなことが言われている。

マッチョな「ビジネスパーソン」へのあらかじめの反論

「ビジネスでは通用しない!」と怒り心頭で説教してくる人がいるとおもう。私の用意した「歴史の横糸の覗き窓」が気に食わないのではなく、私の論調やスタンスに対する嫌悪感かもしれない。

私自身はビジネスの経験がある。異業種協業、スタートアップ連携、国家プロジェクトなどを経験した。マーケティング、セールス活動で、自らつくった製品を自社ブランドで売るために、商談づくりからエビデンスデータ精査まで、なんでもやってきた。だが、お客様は神様だと思っていないし、「圧倒的成長」なども感じない。

成功以上に失敗を数多く見てきて、「もう少しは失敗を回避するくらいのアタマは、もってなかったのかねえ」と辟易する。だから、思い返せば「あのときは未来予測ができてなかったな」という後悔ばかりである。未来予測をできていない自称起業家のポエムのnoteをみると、日本の閉塞感への危惧が益々、強まるほどである。 

とりわけビジネスでの困りごととして、自社ブランド品を売って「使って欲しくない客が買ってしまったとき」が挙げられる。やる気がなく試行錯誤する気概がない人にまで結果を保証しようとすると、相当な心理的・時間的・技術的および金銭的コストが必要になってしまう。つまり顧客が増えることで利益が減少する。

「なんでもいいから集客できたほうがいい」というスタンスこそ、私に言わせれば間違いである。ビジネスとは部族社会の延長上にあるドロドロした人間関係の実存という徹底した現実である。イメージ先行で「自分は頑張ってる!」というなら、少しでも頑張らなくて済む定型化ロジックを詰める努力をすべきである。私に絡むのはお門違いである。

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