経済史を「金・神・血」で覗き込むには、何から始めるのか?
対象読者
本稿は非常に長いので、目次だけ読めばいいかもしれない。
むしろ、経済史の学びの心構えが十分できている賢明なる読者諸氏におかれては、ぜひ本稿をスキップして時間を節約していただきたい。
変わり者の人が、あらためて価値観を整理したいと感じるならば、少し目を通していただけると幸いである。
本稿の目的:経済史への心構えをつくる
残念ながら、本稿ではまだ経済史の本題の話は始めない。まだ心構えができていない読者に、もう少し話すことがあるからだ。
すなわち「昔の人間も今の人間も、根源的には同じ考えに駆動されて社会生活の中で生きている」という事実である。
人間の性質が変わっていないことを認められて、初めて、経済史は未来予測になりうる。つまり勉強にも身が入って、いろんな歴史用語とにらめっこする心構えができるようになる。
導入
不安を煽る人たち
「オルカンやめろ」、「S&P500やめろ」などと、投資初心者の不安を煽るyoutube動画やnote記事を見かける。人はネガティブなことに対し、ポジティブなことよりもかなり強く反応する。うまく注意が引けるわけだ。
(Rozin, P., & Royzman, E. B. (2001). Negativity bias, negativity
dominance, and contagion. Personality and Social Psychology Review, 5, 296−320.)
しかし、なにしろ書き手が目指しているのは、一にも二にも、収益化である。まずは効果的にインプレッションを獲得する必要がある。なんならバズりたい。受け手の不安を煽り倒すに限る。視聴者や読者が不安に感じていることを連呼するのが、低コストかつ容易である。視聴者や読者にとって役立つことをいうなど、試行錯誤を必要としてタイパが悪い。
投資系アカウントでは、自身のポートフォリオを開示せず、投資実績を不明瞭にしたままの場合がある。そして、古本屋で売っている数年前のベストセラー本にも書いてあるような、ごく当たり前のことを述べている。まったく独自の検証などない。
にもかかわらず「マネーリテラシーが爆上がりです!」とかの感想が書かれる。素人が素人に講釈を垂れていて、お決まりの流れというものができている。
ちょっと考えてみればわかるだろう。本当のプロフェッショナルな金融専門家なら、noteを書いたりyoutube動画など作っている暇はない。常に市況に張り付いていないと、勝ち続けられないからだ。素人を相手にしたコンテンツなどにかまけている場合ではない。
リテラシーとは裏をとる・裏を読めること
読者・視聴者にとって必要のは似非マネーリテラシーなどではない。本当の意味での情報リテラシーこそ求められている。私に言わせれば、経済史について学び、嘘や欺瞞を判定できるようになるべきだ、ということになる。
投資を謳うアカウントの「最高収益」なるものは、投資ではなく、オンラインサロン収入とか情報商材で得た数字だということを言っていない。宣伝文句として、確かに嘘は言ってはいない。見る側が勝手に「成功者」という権威性を妄信しただけだ。だが、悪質な勘違いさせる表現ではある。
さらに悪質なものも見かける。自称「プロ」が「自信をもって薦める急騰銘柄」とやらだ。しかも、よりによって、一番やってはいけない信用取引と組み合わせたレクチャーだったりする。見るに堪えない。
だが、である。なるほど、100万円をテンバガー銘柄に突っ込んで1年後に1000万円、その1000万円をまたテンバガー銘柄に突っ込んでもう1年後に1億円、といきたいわけである。見る側も欲の皮が張っているわけだ。もちろん、億り人になるのではなく、最初の100万円を大きく失ってしまうのが通常なのだが。
騙されるのは不安が大きいから
再三注意されるにもかかわらず、ずさんな手口に引っかかる側がいるのも、不思議に思うところだろう。犯罪心理学を学び綿密に検討・設計した詐欺手法ならともかく、ほぼド素人ともいえるSNSアカウントや動画配信者が垂れ流す言説で、どうして人が騙せるのだろうか? 改めて考えてみるべきだ。
現代の社会生活の中での人の行動原理は「不安を減らすため」と言える。現状維持の不安が巨大になると痛感したとき、人はやむをえず「不安を減らしたい」という衝動によって動き出す、というモデルである。逆に言えば、不安がないなら寝っ転がってスマホを眺めていればいいだけだ。
では、具体的に不安とは何だろうか? 身体の安全消失、財産の消失、生活基盤の喪失の可能性のことである。ようするに、「テンバガーで一発逆転しないとヤバい!」という思い込みのことである。しかし、ヤバいという思い込みは、あくまで可能性であって確定ではない。この思い込みにこそ、自己責任論との紙一重の問題が横たわっている。
成功に対する誤ったイメージを演出するSNSの罪
そもそもの時代精神を見ておくべきだ。いま、拝金主義とまではいかないまでも、「お金さえあれば幸せになれる」というマネー宗教的な考え方が、とりわけ都市部で蔓延している。「簡単に稼ぐ方法」とか「誰でもできる副業」とかの情報を発信するアカウントが数多く存在している。多くの人が金銭的成功を求めて、ネット上のプラットフォームに結集しているように見えるほどだ。
「楽して稼ぎたい」という気持ちは、多少なりわからないでもない。それだけ普段から苦労していることの裏返しだろう。心中察する。だが、見知らぬ他人に対して「成功に対する誤ったイメージ」を演出するのは看過しがたい。とりわけ、「目に見える指標で権威性を演出して高みに立ちたい欲望」について、看過できない。マネー宗教の虜である。
冷静に考えれば、顧客満足度、カスタマーサクセスなどの継続的実績こそ、自然に権威を醸し出す出発点となるべきだ。
なのに、Kindle本の自費出版以下のような内容の薄いデジタルコンテンツをつくるばかりである。どこの馬の骨ともわからない人のKindle本に著者としての権威性があるはずない。商業出版でさえ、ただ著者というだけでは権威性はつかない。商業出版でも続けて重版がかかったとき、ようやく権威性がつくのである。
マネー教と不安が結合して疲労社会が爆誕している!?
しかし、視聴者・読者の中には、冷静になれない人も相当数いるわけだ。なぜだろうか。一つ補助線を紹介しよう。
現代社会では、競争の中で人々は常に不安やストレスにさらされ、心身ともに疲弊しやすくなっている。長期的な視点を持って考えたり、自らの意思で行動したりできず、思考停止や主体性喪失につながりやすくなるという。
(アマルティア・セン、池本幸生 訳:不平等の再検討: 潜在能力と自由、岩波書店、1999)
情報過多という側面で見ても、つねに大量の情報にさらされ、取捨選択に疲弊している。過剰な選択肢が人々の意思決定能力を低下させ、思考停止に陥らせ、主体性を喪失させる。疲弊という意味では、疲労社会というほうがわかりやすいかもしれない。
(ビョンチョル・ハン、横山陸 訳:疲労社会、花伝社、2021)
ハンでもセンでもいいが、どちらも現代人の主体性喪失を問題視し、弱者が構造的に生み出されることを抉り出している。
本題
現代の身近に息づく「金・神・血」
投資系アカウントだけでなく、自己啓発系アカウントやコーチング系なども同様と言える。とにかく、他人の不安を煽るだけ煽って「主体性がない!」とマウントしてきて、つねに安全地帯から正論を連射してくる。そして、いざ相手がうまいかなったら「自己責任だ!」と叫ぶ。
主体性がないのは「有益情報の発信者」のほうだろう。弱者が弱者をだます構造になっている。実に嘆かわしい。まさに万人の闘争である。こういうアカウントが量産されている状況をみると、人間観をときどき見直すことも、広い意味での情報リテラシーに含むべきだ。
(トマス・ホッブズ、角田安正 訳:リヴァイアサン、光文社、2014)
さて、以上の議論はなんだったのか? S&P500から始まって「疲労社会」や「リヴァイアサン」を持ち出す必要性はなんだったのか? もちろん、経済史の話を始めるためである。
「らくに稼ぎたい(金)」「幸福のためにはマネー宗教の中の成功が欠かせない(神)」「万人が闘争・競争している(血)」という欲望だ。決して中世の暗黒時代の話だけではない。まさに今を生きる身近なところにも、金・神・血は普遍的に渦巻いている。普遍のフレームを改めて確かめるため、あえて長い導入の話をした。
歴史の話の前に、いきなり未来予測の話から入りたい
経済史の話はまだしない。たくさんの用語とにらめっこしないといけない経済史に入門するには、心構えをつくる必要がある。そもそも、読者の心構えができるよう手助けするのが本稿の狙いだ、と冒頭に申し上げた。
この原稿を書いている状況でいえば「2025年1月現在に立って未来予測をする」ということになるので、まず、直接的にnoteやyoutubeで見かけるフューチャリストの言説を見ておく必要がある。
なにしろ、一見すると現在の個々の私生活からは著しく遊離したような、大昔の歴史のことを学ぶのである。単なる興味本位で「勉強になりました!」などというだけでは、「穴場としての分野での未来予測」には到底たどりつけない。
やはり、出口戦略を最初に設計したい。ならば、ゴール地点を意識するためにフューチャリストの考え方を知っておくのが欠かせない。テストのときに頭から問題集を解いたりノートをまとめたりするのではなく、出る予想問題を反復練習するのと同じことである。
パターン暗記を問題視した記事をつくったが、パターン暗記はAI時代にも必要である、とは弁解しておきたい。事実として、最高難易度の医学部や法科大学院だって、パターン暗記を重視している。そもそも高度な思考とは、多くの知識のうえにこそ成り立つ。必要な用語をいちいち調べていては高度な思考にはたどりつけない。まず、語彙を獲得し、反復練習し、体にしみこませる・自由に発話できるようにする、という段階は欠かせない。
競馬の予想屋ではない。大なり小なりの根拠から出発して、ありそうな未来像を提示しているのだ。重要な根拠を共有しておけば外れは少なくなるし、経済史を学ぶときにも見通しが得られる。
絶対に欠かせない大前提として、人間至上主義と経済成長がある。ややこしい経済理論やら歴史やらを入る前に、自分の生活にひきつけて、重要な二つの概念をとらえておこう。
未来予測以前の大前提:人間至上主義
人間至上主義というのは、人間が宇宙や世界の中心であり、他のすべての生物や自然環境よりも根本的に重要であるとする考えだ。「人間はほかの動物とはちがっていて、生まれながらに特別に人権をもつ」という主張の根拠といえる。
人間至上主義を否定する哲学として生態中心主義などももちろんある。人間だけを特別扱いする理由は本来ない。だが、人間もただの動物だと言ってしまうと、一般大衆がついてこなくなる。もちろんキリスト教の教義があるからだ。
キリスト教抜きにしても、私たち日本人のように、便利で快適な生活は人間だけのものだと思いたい人が大勢いるだろう。政治的・ビジネス的な論理として、現実路線においての消去法で、人間至上主義を前提にせざるを得ない。他方の経済成長も、人間至上主義をの延長線上に存在している。
経済は、物理ではないようである
唯物史観では経済活動は物質的な世界の記述として、物理学のように経済学を述するべきとされる。マルクスが明かした資本主義の仕組みも、物理を手本にして組み立てられた論理だった。マルクス経済学については現在でも研究は進められていて、無視すべきではない。
日本では宇野派理論の研究者がマルクス経済学に数理モデルを展開し、マルクス経済学の精緻な記述を生み出している。たとえば、景気循環における恐慌の発生は、物理でいう相転移として記述されている。物理が手本というより、ほぼそのものである。
(江原慶:資本主義的市場と恐慌の理論、日本経済評論社、2018)
だが、経済活動はむしろ心理学の延長線上にくる。たとえば日常的な文脈でも、「高付加価値品をつくるべし」と言われる。だが、「付加価値」なるものをどんな物差しで測るのだろうか?
経済学は「価格」と「数量」いう数値だけに還元してしまいがちだが、財やサービスの「価格」がどこから来るのか? 価値から価格への対応付けはどこにあるのか? いわゆる値付けの対応関係はどのように記述できるのか?
実践的にいえば「値付け」は、「原材料やエネルギーのコストを積み上げていって、さらに自分が生活できるくらいの分の利益を乗せる」というやり方と、「いまの相場だったら、このくらいの値段だったら消費者も買ってくれるはずだ」というやり方がある。前者だったらコスト側の会計計算で機械的に出てくる数字でいいが、後者の場合は必ずしもコスト側の会計計算とは一致しない。
たとえば、いま地方創生とうたっているのは、ほぼ観光のことである。訪日外国人の環境客向けのインバウンドとして、ドルベースでの支払いがあることを期待している。日本国内の流通のコストを積み上げるのではなく、国外観光客の所得水準に照らし合わせた割安感が、人口としても重要である。ということは、「このくらいの値段だったら外国人観光客も買ってくれるはずだ」という落としどころの値付けをするわけだ。
さて、唯物史観では労働価値説というものに依拠して価格が決まるという立場をとる。つまりコストを積み上げの根拠として「どれだけの時間を費やして作ったか」というところで値付けする。ヒトの寿命を燃料として、どれだけの薪を投入したかという見方といえる。なるほど、あらゆる人工物が希少だった時代には、じつに説得力ある見立てであるといえる。「たくさんの時間をかけたものが付加価値がいっぱいついたもの」ということになる。
しかし、現代の価値観では直観に反しているというしかない。働き方改革・生産性向上はいまや合言葉になり、聞かない日はない。少ない時間でたくさんの収益をあげるべきだ、ということだ。
明らかに「たくさんの時間をかけていく」ということではない。人口減少で働き手不足、長時間労働も是正だと政府自ら叫んでいる。労働価値説で値付けしていては、いつまでたってもインバウンドでは稼げない。
人工物希少ではない時代の「価値」
体感的にわかることだが、値付けは相場に合わせたほうがうまくいく。インバウンドでいえば、日本人向けではなく外国人観光客向けの価格帯としたほうがいい。
消費者の立場でみれば、「作る側がどれだけがんばったか」は全く気にならない。こだわりの品だろうが、機械設備で量産された品だろうが、満足度が変わらないなら、消費者から見ればどちらも同じ価値である。つまり、「こだわりの品」がいうところの付加価値は、むしろ単なる過剰コストである。
どうして「どれだけ時間をかけたか」が重要ではないのか。冷静に考えてみればいい。いまや人工物が希少ではないのだ。地球全体のバイオマス総量を上回るほどの人工物が、すでに地球上に存在している。人工物の総重量は、1900年代初頭から20年ごとに倍増してきた。
(Elhacham, E., Ben-Uri, L., Grozovski, J. et al. Global human-made mass exceeds all living biomass. Nature 588, 442–444 (2020).)
あらゆる人工物が希少だったときには、あらゆる製品は生身の人間の手作りだったのだ。だから「つくるのに費やした時間」が価値とみなしてもよかった。つくるときに使える道具や素材も限られていたし、生身の人間ができる身体動作がすべての基準になりえた。
だが、いまはバイオマスを上回るほどの人工物が生み出された。いまなお増え続けている。エネルギーを使って生産設備を稼働させ、生身の人間ではできないような速さで製品製造ができるようになった結果だ。
自動化工場なでは、生身の人間など、ただ機械設備のボタンを押しているだけで、付加価値を生み出す身体動作などほとんどしていない。結局、倉庫保管とか物流とかのことを付加価値と呼ぶことになってしまった。
経済は、物理というより心理である
すでに察しがついたと思う。「価値」から「価格」への変換、すなわち数値化の根拠とは、私たちの主観にすぎない。
ミクロ経済で一つ一つの売り物の値付けを考える前に、マクロ経済の相場があって値付けのレンジや候補選択肢が先にくる。データサイエンスの力である。いまや、生成AIを見れば疑いようがない。よくわかっていない原理かもしれないが、主観を数値化することでうまくいくことがあるわけだ。
確かに値付けは、コスト主導で決まれば会計計算ででてきて物理学のようにも見える。人工物希少の時代なら、このやり方で唯一の正解が確定できたといっていい。なぜなら代替品がないし、どんな人に届けるかという細分化も不要だった。とにかくモノがないから、作れば売れたわけである。この構造は日本の戦後の高度成長期でも維持されていたといえる。
だが、人工物が有り余るような時代だと、類似品はいくらでもある。「どの類似品を選ぶか」というのは、「だれに向けて届けるか」という心理から出発せざるをえない。「だれに」というマーケティングの発想がないと、不特定多数の消費者に届けようとしても、結局は誰からも見向きもされない。いわゆる消費社会である。
未来予測以前の大前提:経済成長
今度は巨視的に考えてみよう。
社会福祉を賄うだけの財源を得ないといけない。つまり、食料はじめ原材料、エネルギー源を輸入して手に入れないといけない。インフラ整備もしないといけない。医療も維持しないといけない。
人工物は確かに増えたが、エネルギー原料やハイテク製品の鉱物の採掘量は、意図的に制約される。埋蔵量総量は豊富かもしれないが、加工資源として利用できる供給量が人為的に制約されれば、入手する対象の枠は希少となる。つまり、輸入品の価格が上がり続ける。
そうすると、現状維持をするだけでも、輸入品や社会インフラや福祉を賄うためだけでも、同じ値上がりペースでの経済成長が必要になってしまう。かつての高度経済成長や一時の中国の成長のようなものを、必ずしも目指さなくてもいい。しかし、達成すべき最低限の経済成長というのがあるわけだ。
「資本主義のもとでは必ず経済成長しないといけない」という。マルクス経済学を読めば、経済成長ができなくなると恐慌が起こるということが出ている。だが、実のところ、かつての社会主義・共産主義体制の国でも、国家的な政策議論の中心には、いつも経済成長がおかれていた。なんのことはない、資本主義に限らず、最低限の経済成長はどうしても必要だったのである。
冷静に考えてみればいい。人口減少でも、快適さや利便性を追求していけば一人当り消費エネルギーは増える。再生可能エネルギーや核融合発電が十分にないなら、化石燃料に頼るわけだ。原子力発電でさえ、ウランの採掘が必要である。
しかしエネルギー原料の供給量が人為的に制限される。エネルギー原料を取り合うので価格がつり上がる。一人当たり消費エネルギーを増やして豊かになろうとすると、エネルギー原料の単位価格が上がったら、結局は総エネルギーコストが人口減少の下でも増える。
では利便性や豊かさをどうするのか? あきらめてもっと省エネな暮らし(ヒッピーのような暮らし)をするか、省エネ技術を向上するか。しかし省エネをすると、省エネになったぶんだけ機器を使ってしまうことが往々にして起こる(テクノロジーの利便性のまえに、人は堕落する)。
結局、生活様式の現状維持をするには、経済成長がいちばんいい。まさしく人間至上主義の立場である。経済成長は人間至上主義の実装形態のことといっていいだろう。
経済成長を前提とみなしつづける補足
もしも脱成長という目指し方なら、人間至上主義との決別も要求されることがわかる。潔いあり方といえる。だが、人間至上主義を捨てて脱成長を果たしたい一般大衆は、果たしてどれだけいるだろうか?
なるほど、知識エリート層たちならば、熟議民主主義の果てに定常社会を見出すこともあるかもしれない。映画『オッペンハイマー』でも、太平洋戦争のさなかにカリフォルニア大学バークレー校においてさえ共産主義集会がたびたび現れていた。
J・ロバート・オッペンハイマー自身も、マルクスの『資本論』全巻をドイツ語原書で読破していた。当時の知識エリート層ならば当然通った道である。しかもロバートの身近な人物は軒並み共産党に入党していた有様だ。
だが、いまの便利で豊かな消費社会に慣れ切った一般大衆が、果たして、当時の知識エリート層のような精神をもっているだろうか。そもそも日本の学生運動の60年代安保闘争、70年代安保闘争も、実のところ若者の「自分探し」にすぎなかったという。
(小熊英二:1968、新曜社、2009)
大衆の価値観から時代を眺めることは必要だ。太平天国の乱のような志高いエリートが結集する時代ではなく、ドナルド・トランプのようなビジネスエリートが大衆を扇動する時代である。政治もSNSの意見が投票結果に影響するのが当たり前となった。崇高な理想よりも、現実の中でのサバイバルのほうが重視されている状況は、一層深刻である。
結論:人間至上主義のもとでは経済成長をあきらめることができない。経済成長を目指さざるをえない。
大衆の「金・神・血」はずっと息づいている。この状況で一般大衆が留飲を下げるようにするには、やはり経済成長を目指すほかないではないか。人間至上主義を覆す説得をするよりも、人間至上主義を温存するための努力をするほうが、有権者・消費者としての大衆にとって都合いいに決まっている。
やはり経済成長は最終的に必要であり続ける、というほかない。
蛇足:著者自身は、個人的にもやはり現実をみるべきと考える
もしかすると、一般人個人の目からみれば「すでに十分豊かになったから、これ以上成長を目指さなくていい」という素朴な意見もあるのだろう。
だが、本稿を読んでもなお、「これ以上成長を目指さなくていい」という覚悟はあるのだろうか? 人間至上主義との決別と葛藤する勇気があるのだろうか?結論はすでに述べた。残りは蛇足的な補足である。
私は「定常経済」とか「脱成長」について否定したいわけではない。そもそも共産主義も否定しない。「理想郷が全員が幸福になる世界」というのがやがて訪れるべきであって、絶え間ない競争を要求する世界が永続しないほうがいいとは思う。したがって、資本主義が万能で礼賛したいとも思わない。
ただし、2025年現在において、ヒッピーになりたい人が日本に多いだろうとも思わない。途上国・新興国の人々が、いまから先進国のような豊かな暮らしを手に入れたいという強い渇望を抱いている。エネルギー原料の取り合いがますます活発になり、いっそうの資源分配においての希少性が高まってしまうに違いない。
豊かで快適になる人が途上国・新興国で増えているのに、一方で日本人がヒッピーになる。そのような都落ち・転落のようなものを望む人は、先進国を自称する日本にはほぼいないのと思う。
なぜなら、そもそもヒトはものを得ることよりも失うことに強く反応するからだ。ほとんどの人は、物質的豊かさ、ウェルビーイングを捨てたくないと考える。だから、ヒトの認知特性からいって、いまから皆がヒッピーになるというのはほぼ不可能だと確信する。
結局、最大多数の最大幸福という標準的な立場ならば、「経済成長を目指す」ということを前提に置いたほうがいい。規範や理念ではなく、近い将来の未来予測にはより妥当だといえるからだ。蛇足は終わりである。